川中島の合戦    

訪問日 2001年7月8日 近畿日本ツーリスト歴史倶楽部 他にもパソ通のニフティ戦国会議室のオフ会でも行きました。

 戦国時代を代表する川中島の合戦です。川中島の合戦は全部で5回あるというのが通説ですが、特に有名なのが1561年の第4回目の合戦です。ここでは両軍が死闘を尽くして戦い、多くの死傷者を出しています。しかしながら、その合戦の実像はよく分かっていません。大体どちら側が勝ったのかも、人によってまちまちです。最後まで戦場にいた武田軍の勝利とするものや、武田軍の裏をかいた作戦によって、武田軍に大きな打撃を与えた上杉軍の勝利というもの等あります。さらには、前半は上杉軍の勝利で後半は武田軍の勝利とするものもあります。
戦国時代を代表する名将の上杉謙信と武田信玄が、激戦をおこなったことだけは間違いないようです。
以下の文章の多くは、甲陽軍鑑などの通説を元にして書いてあります。また、興味がある方は当HPの上杉謙信と川中島もお読み下さい。

 当時の雨宮の渡しです。現在の千曲川は、当時と比べると約700メートル北に流れを変えているそうです。越後から来た上杉軍は、この雨宮の渡しを渡り、妻女山へ陣を構えたと言われます。
そして1561年の9月9日、妻女山から海津城の夕飯の煙を見ていた上杉謙信は、その日の煙がいつもより多いのに気がつきました。そこでその夜に、武田軍の攻撃を事前に察知した上杉謙信は、妻女山の篝火などはそのままにして、この渡しを鞭声粛々と渡り川中島平(八幡原)に兵を進めたと言われます。
 雨宮の渡しから茶臼山を見る。茶臼山は武田信玄が一時本陣を構えていたと言われるころです。武田信玄は妻女山に陣を構える上杉軍に対して、より高い茶臼山に陣を構えて夜間大声を出したりして、心理的に上杉軍の優位に立とうとします。この場合の陣は、両軍共に通常とは逆転しています。すなわち上杉軍の妻女山は、より甲府に近い位置にあり、武田軍の茶臼山は、より越後に近い位置にあります。この位置関係から見ると、軍事的衝突は避けられないかも知れません。ただし信玄が陣を構えたと言われる茶臼山ですが、その位置にも色々な説があります。更には茶臼山には陣を構えなかったとするものもあります。
 妻女山に登る途中にある「上杉謙信の槍尻之泉」。上杉謙信が槍の尻で地面をつついたら、そこから水が湧き、泉が出来たと言われています。
妻女山は人工的に削平されていますが、想像したよりは狭い山でここに一万の将兵が、20日間もいるのは大変だったと思います。おそらく山の上だけではなく、麓にもかなりの人数がいたことと思います。当時は麓近くに千曲川が流れていますので、それが天然の堀のような役目をしていたのでしょう。水量も今より多く、雨宮の渡しのように、渡し場以外で川を渡ることは難しかったようです。
しかしながら、ここに上杉軍が陣を構えたことも、疑問が持たれています。「戦国武田の城」(中田正光著・有峰書店新社)では、妻女山の峰続きの南方には武田方の城がいくつもあり、妻女山はそれらの城で取り囲まれるようになっていますので、上杉軍の妻女山布陣は無かったとしています。
 妻女山の上杉の陣跡から、八幡原の古戦場跡を見る。実際に登ってみてみると、海津城なども思っていたよりも遠くにあり、城内の様子が手に取るように分かるというのは多少疑問が残りました。当時の人は足腰が達者なので、現代の我々よりは距離が近く感じられるのでしょうか?
信玄は茶臼山の陣地を出て、妻女山の謙信に真横を見せながら、海津城へ入ります。この時が戦をするチャンスだったとも思いますが、謙信は妻女山から動きませんでした。妻女山の上杉軍は約1万、武田軍は1万6千人くらいでしょうか?この両軍の人数にも、色々な説がありハッキリしません。
 山本勘助の墓で、千曲川の土手の近くにあります。墓は昔はここより南の高畠付近にあったそうです(墓の説明板より)。山本勘助は以前は架空の人だと言われていましたが、市河文書の発見により実在することが分かりました。しかしながら、武田軍の軍師という地位ではなかったようです。
上杉軍より多い軍勢を持ちながら、何もしないでただ対陣をしているのは武田軍の志気に係わるというので、甲陽軍鑑では、有名な啄木鳥の戦法を進言しています。やはり川中島合戦では欠かせない人です。この啄木鳥の戦法による妻女山攻撃軍についても、その進路は色々な説があります。
この甲陽軍鑑は、江戸時代に成立した軍記物で甲州流軍学のテキストでもあったのですが、そのため誤りも多く、合戦の実像を伝えるものではないとされています。しかしながら、第4回の川中島の具体的な合戦を伝える資料は殆どありませんので、合戦の実像は分からないことが多いのです。
 八幡原公園にある首塚で、川中島戦死者の塚です。昔はこのような首塚(小山)が、もっと沢山あったと云われます。海津城主の高坂弾正が、この辺りの遺体を敵味方の区別なく手厚く葬ったと言われています(説明板より)。この高坂さんは文武兼備の名将ですが、若い時には武田信玄からラブレターをもらったことでも有名です。(^^ゞ この高坂弾正は武田家の重臣で、甲陽軍鑑を著した人(又は口述した)と言われていますが、最近では、この高坂弾正氏の存在そのものが疑われています「真説・川中島合戦」(三池純正著・洋泉社新書)。
 有名な上杉軍の「毘」の旗です。謙信は自分を毘沙門天の生まれ変わりだと思っていたようです。この八幡原は合戦当時は深い霧が出たそうです。その霧は川霧ですが、二人の武将はあるいはその霧を利用して、相手側の裏をかこうと思ったのかも知れません。武田軍上杉軍ともに、地元の地理や気象に詳しい人がいたことでしょう。そのためにこの霧の発生が、今まで動かなかった二人の武将を動かしたかも知れません。結果的には謙信の作戦計画の方が、信玄のそれを上回っていたのでしょう。信玄軍は上杉軍の急襲を受けます。この時上杉軍は車係の陣を採ったと言われます。
 三太刀七太刀の跡です。この地で信玄は上杉軍の急襲によって崩れかかる自軍を必死で指揮していました。其処へ馬に乗った行人包みの謙信が近づいてきて馬上より信玄に斬りつけます。信玄は軍配で受けたと言われますが、二の太刀・三の太刀で腕と肩を切られます。後で軍配を調べたら刀の傷が七カ所あったそうです。謙信・信玄の大将同士が本当に斬り合ったのかについては、殆どの歴史家は否定的です。
当時関東に来ていた、関白近衛前房は謙信に「自身太刀打ちをなされ・・・」と手紙で褒め称えていますので、大将の謙信が刀を振るうほどの激戦だったことが分かります。
優位の内に戦いを進めた上杉軍ですが、妻女山へ向かった武田軍の別働隊が遅れて戦場へ到着すると、後ろから攻撃を受ける形となり、苦戦します。
 両軍の戦死者の数は多すぎて、あまり信用出来ません。しかしながら、不意に急襲された武田軍には信玄の弟の武田信繁・両角虎定等名のある武将が死んでいます。
写真は典厩寺で、武田信繁の菩提を弔った寺です。武田信繁は当日この寺付近に陣を構えていて、奮戦の上でこの地で亡くなったと云われる。この寺に墓があります。
武田家と上杉家の旗が並んであります。

 参考 「激戦川中島」(一ノ瀬義法著・教育書籍)
     「徹底分析川中島合戦」(半藤一利著・PHP研究所)
     「歴史群像8上杉謙信」(学習研究社)
     「川中島合戦再考」(笹本正治監修・新人物往来社)

      なお、川中島古戦場にある売店には、「川中島の戦い」(小林計一郎著 銀河書房)があります。
      この本は、詳しくしかも分かりやすく書いてあるのでお勧めです。


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