小牧・長久手の戦い

見学日 2004年12月5日 文化放送歴史探偵クラブ(講師は外川淳氏)

 有名な豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と徳川家康が戦った小牧長久手の戦いです。1583年賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った豊臣秀吉は、着々と天下人への道を歩みます。これに対して、織田信長の二男・織田信雄は主家である織田家の自分を危うくするものと思い、徳川家康に近づきます。徳川家康もまた、秀吉の勢力がこのまま大きくなれば徳川家が危うくなると考えていました。両者の思惑は一致したわけです。
1584年正月豊臣秀吉は、織田信雄に対して自分の年賀の式に出席するよう要請します。これに対して織田信雄は、秀吉は元もと織田家の家来筋にあたるものとして、これを拒否します。これにより両者の関係はますます悪化していきます。そしてついに、1584年小牧長久手の戦いが始まります。この戦いですが、神君家康が戦った戦ですので、江戸時代に家康方に有利なように解釈が行われていると考えられます。江戸時代に自分の藩が神君家康と戦って武功を起てたとしても、そのことを大ぴらに言えない状況だと思われます。すなわち小牧長久手の戦いは、徳川家康が豊臣秀吉に勝利したと云われていますが、総合的・戦略的に見れば織田・徳川軍は敗者だと思われます。当時の宣教師フロイスは「信雄・家康方は降伏し和を請うの止むなき至」報告しています(「戦国合戦の虚実」P191(鈴木眞哉著 講談社)


 写真は清洲城の模擬天守閣です。

 1584年3月織田信雄は、自分の三家老、岡田・津川・浅井を居城亀山城に呼び寄せ、秀吉に通じているとして切腹させます。このことは十分家康とも打合せ済みのことで、家康は翌日清洲城に出陣します。織田信雄も清洲城に来ていて、ここで家康と秀吉戦の打合せを行います。徳川・織田方は、関東の北条氏、四国の長曾我部氏、越中の佐々氏、紀州の雑賀・根来衆に協力を求め全国的な包囲網を計画します。
 写真は犬山城天守閣です。

 秀吉は織田信雄が理不尽に三家老を切腹させたとして、早速陣触れし近江に進みます。当時犬山城は信雄方の中川定成が城主でしたが、中川氏が伊勢の峰城を救援に行っていました。この城主不在を狙われ、3月13日美濃の池田元助(池田恒興の子)・森長可に占拠されてしまいます。池田恒興親子は織田家に最も近い一族とみられていたのですが、豊臣秀吉方に味方したのでした。このことは、徳川・織田軍にとっては大きな誤算だったことでしょう。
 
 写真は小牧山城です。小牧山城は一時期織田信長が居城としていました。

 犬山城が秀吉方に落ちたことを知った家康と信雄は、直ちに尾張平野の要衝である小牧山を占拠します。小牧山は現在でも尾張平野にポツンと立つ独立の山(丘)で、尾張平野の何処からでもよく見ることができます。このように大変良い立地(戦略上の重要地点)になっています。
 写真は楽田(秀吉の本陣があったところ)です。

 さて秀吉ですが、自分のお膝元泉州に、3月18日紀州勢が伊勢・尾張方面での戦端開始に呼応して岸和田・堺まで進出してきます。この紀州勢を、黒田孝高や小西行長等の軍で破り、各方面の備えを行ってから、尾張に出陣します。秀吉としては珍しく後手後手に回っているようです。3月27日犬山城に入り、28日小牧山の北側2キロの楽田に本営を定めます。そして、小牧山の北側半分を包囲するように、砦を築き陣をとります。この時の秀吉軍は約4万で、対する家康・信雄軍は約3万と思われますが、秀吉軍は後になって徐々に軍勢が増えていきます。
 写真は岩崎城模擬天守です。

 さて、小牧山に陣をとった家康・信雄と秀吉軍は約2キロの距離で対陣しますが、なかなか動けません。そうしていると、池田恒興が家康軍の後方に別働隊を派遣する策を進言してきます。この時に秀吉軍は約6万になっていて兵力に余裕が出来ていましたので、この策を採用します。早速中入れの別働隊の編成に入ります。別働隊は、先方を池田恒興・森長可の7千、続いて堀秀政の3千、最後を本隊三好秀次の7千とし、4月6日の夜に出陣します。
先方の池田軍が岩崎城下を行軍しようとするのを、城を守っていた丹羽氏重は老人女子供を城外へ非難させた上で、鉄砲を撃ちかけます。攻撃された池田恒興は、無視出来ないとして岩崎城を攻撃し落城させます。この時に城方は丹羽氏重をはじめとして戦士40名、騎士60名、足軽60名、弓手38名城下の商工業者30名が討ち死にしたと云われます。また、この戦いが、秀吉軍に時間的ロスを与え織田・徳川軍を勝利に導いたとも云われます。
 写真は色金山の家康が腰掛けたと云われる岩(床几石)です。色金山は現在は、歴史公園として整備されています。

 4月8日夜、秀吉方の三河中入りの別働隊の動きを察知した家康は、小牧山には酒井忠次等を残し自ら長久手に出陣します。4月9日早朝には色金山(長久手町)に着き、家康はここで四方を観察して軍議を開きました。
 写真は御旗山の石碑です。

 家康方の先遣隊は榊原康政・大須賀康高ですが、この隊は秀吉方の別働隊に察知されることなく進軍します。そして秀吉方の最後尾にいた本隊の三好秀次へ襲いかかります。ちょうど秀吉方の池田・森軍が岩崎城を攻撃している頃です。三好軍は全く攻撃を予想していなく、朝食を取っていました。その為一溜まりもなく敗れ、総大将の三好秀次が命からがら逃げることになります。この攻撃を中軍の堀秀政は気づき、備えを固めると同時に先方の池田・森隊に伝えます。三好軍を破った榊原・大須賀軍はそのまま堀軍へ攻め掛かりますが、待ちかまえていた堀軍は一斉に鉄砲を撃ちかけて、榊原・大須賀軍に打撃を与えます。榊原・大須賀軍はたまらず崩れ、敗走を始めます。これを知った家康は直ちに救援することを決め、御旗山へ進軍し頂上に本軍の所在を示す金扇の馬印を立てました。この金扇を見た堀軍は家康の出陣を知り、退却します。
 写真は長久手古戦場の碑です。

 徳川軍は前進して、堀隊に打撃を与え、堀隊と池田・森隊を分断します。その上で池田・森隊を待ち受けます。池田・森隊は岩崎城を落城させ酒宴を開いていたと云います。そこへ堀隊から三好軍の敗走の連絡が入ります。徳川軍に自分たちの存在が知られたため、池田・森隊は長久手方面へ引き返します。そこで徳川方の軍勢と遭遇します。徳川方9300、池田・森隊7000で戦いが始まります。森長可は家康の左翼が手薄と見て攻撃しますが、その時に井伊直政の鉄砲隊が一斉射撃があり、大将の森長可の眉間に銃弾が命中します。即死でした。続いてもう池田恒興も首を討ち取られます。
 長久手古戦場にある勝入塚です。池田恒興(勝入斎とも名乗っていました)の戦死の場所とされています。

 別働隊敗れるの報を受けた秀吉は直ちに救援のために出撃するが、長久手の戦場には徳川軍の姿はなかった。その後も豊臣軍と徳川軍は小牧で対陣を続けます。5月1日に秀吉は、楽田に堀秀政、犬山に加藤光泰を残して撤退します。秀吉の撤退は見事で徳川・織田軍は追撃が出来ませんでした。その後秀吉軍は、織田方の美濃の加賀野井城、竹鼻城を攻め落城させます。竹鼻城主の不破氏は家康へ救援を求めたが、家康にその余力はありませんでした。秀吉の撤退の後に、織田信雄も伊勢長島に帰り、徳川家康も清洲へ移ります。秀吉は北伊勢へ出陣し、織田信雄へ圧力をかけます。そして11月15日、秀吉と信雄が会い講和します。秀吉は小牧長久手の戦いをしながら、大阪城の築城を手がけ、また有馬に湯治に出かける余裕がありました。講和の話が出た9月頃には、誰の目にも徳川・織田軍の劣性は明らかだったようです(「戦国合戦の虚実」P191(鈴木眞哉著)。部分的な戦闘には織田・徳川軍は勝利したが、戦略的には秀吉の勝利と見るのが妥当のようです。

参考文献 文化放送歴史探偵クラブの配付資料と講師の説明
       現地説明板等 
       「完全制覇 戦国合戦史」(外川淳著 立風書房)
       「日本の歴史11 天下一統」(熱田公著 集英社)
       「小牧叢書16 小牧山城」(小牧市文化財資料研究委員会編集 小牧市教育委員会発行) 
 

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