三方ヶ原の戦い

見学日 2003年4月5日 近畿日本ツーリスト歴史倶楽部

 1572年12月、徳川家康と晩年の武田信玄が戦い、家康が完敗をしたと云われる戦いが三方ヶ原の戦いです。当時家康は30歳、信玄は52歳でした。武田信玄が今回の軍事行動を起こしたのは、1572年の10月3日のことです。この時の武田信玄の行動は、以前では京都へ向かったとする意見(上洛戦説)が大部分でしたが、最近は上洛だったとする意見はどちらかと云えば、少数のようです。武田信玄が上洛の意志を持っていたことは、多くの人が認めていますが、1572年のこの時に一気に上洛まで考えてはいなかっただろうというのです。信玄のそれまでの信濃征服を見ても、一歩一歩隣から順繰りに自領化を図っています。それから考えると、家康を叩いて孤立させ、場合によっては尾張で信長の軍も合わせて叩いておいて、遠江を完全に押さえることが主目的であったとする意見です(局地戦説)。更に上洛戦説と局地戦説の中間を行く折衷説(信玄の目的は織田信長の本拠地の尾張と美濃)もあります。
「三方ヶ原の戦い」(小和田哲男著 学研M文庫)では、上洛戦説を採っています。


甲府の武田神社です。

 1572年10月3日に武田信玄は出陣します。10月3日は旧暦ですので新暦ではもうすぐ冬になり、越後の上杉謙信は雪のために動けなくなります。信玄は、1570年12月石山本願寺と結び、1571年11月には念願の水軍を組織し、また同時期に小田原北条氏と同盟を結んで、東側の脅威を除く等着々と準備を進めた上での今回の出陣です。
 武田の軍勢は、信玄の本隊の他に、秋山信友が東美濃へ、山県昌景が東三河へ別働隊として出陣している。秋山隊は美濃の岩村城を落とし、山県隊は後で信玄と合流します。
 家康の居城浜松城です。

 武田軍は青崩峠から遠江に侵入し、西側の高天神城と家康のいる浜松城を分断するかのように進み、やがて10月下旬二股城を武田勝頼に攻撃させます。容易に落ちなかった二股城ですが、天竜川に設けられた水の手の井楼が壊され12月19日に落城します。12月22日信玄の軍勢は、二股城を南下して浜松城へ向かいます。しかし南下した信玄軍は途中で三方ヶ原に向きを変えます。これを見た家康は、信玄は浜松城を攻めずに三河へ向かうと考えます。武田軍は2万五千、家康軍は織田の援軍を併せて1万1千と云われます。
三方ヶ原古戦場の碑です(台地のほぼ中央にあります)。

 浜松城内で、武田軍に対してどうすべきかの軍議が開かれます。多くの武将がこのまま城に留まることを云います。しかし家康は、武田軍が城下近くを通るのにそれを見ているだけでは笑いものにされてしまうと強烈に主張して、出撃に決します。ここで何もしないでいれば、攻略して間もない遠江の諸将に動揺が起きかねない情勢だったのでしょう。
祝田(ほうだ)の坂で、当時は現在よりももっと急な坂だったそうです。

 家康の作戦は、武田軍がこの祝田の坂を下り始めた段階で攻撃を仕掛ければ、地理を良く知る徳川軍には十分勝機があると云うことです。家康軍は武田軍が祝田の坂を降り始めたという情報を得てから出撃します。12月22日の午後2〜3時頃です。しかしながら戦にかけては、武田信玄の方が上手でした。祝田の坂を降りると見せかけ、家康を誘き出しいたのです。武田軍は家康軍出撃との情報で、祝田の坂の手前で徳川軍を待ちかまえていました。
家康の身代わりとなって死んだ夏目吉信の碑。

 戦が始められたのは5時前後で、やや薄暗くなってからです。武田軍の先鋒の小山田隊が後退すると徳川軍の石川隊がそれに誘われて小山田隊を攻撃して戦が始まります。最初は一進一退の攻防であったが、やがて数に勝る武田軍が優勢になり、徳川方は崩れ出します。やがて徳川軍は全面敗走します。譜代の家臣が家康を真ん中に囲んで囲んで、必死に逃げます。しかしながら武田軍の追撃は厳しく、家康自身が何度も命の危機に会います。ここで討ち死にするという家康を、夏目吉信は浜松へ押しやり、自分こそ家康と名乗って25騎を率い、追ってきた武田軍と戦い戦死します。このように自分を犠牲にして家康を逃がした武士は他にもいます。まさに命からがら家康は、浜松へ逃げ帰ったのでした。
犀ヶ淵の絶壁。
 ここに布を敷いたところ、追ってきた武田軍はこの絶壁へ次々に落ちたと伝えられます。

 こうして這々の体で浜松城へ逃げ帰った徳川軍であったが、信玄に一泡吹かせようと鉄砲を集め、夜襲をかける。武田の陣がこの犀ヶ淵近くにあったので、100騎ほどでゲリラ戦を仕掛けます。戦は勝ったと思っていた武田軍は、不意に奇襲を受け混乱してこの淵へ落ちてしまった者もいたことでしょう。

 現在この淵は、深さ13メートル、幅約30メートル、長さ116メートルですが、当時は今よりずっと大きかったと云われます(一説には深さ40メートル、長さ2キロ)。
浜松城にある家康の像。

 家康はこの敗戦がかなりのショックだったでしょう。この時の自分の困り切った呆然とした姿を絵師に描かせています。その絵を常に身近に置き、自分が慢心しそうになるとそれを見て戒めたと云われます。


参考 「三方ヶ原の戦い」(小和田哲男著 学研M文庫)


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