長篠の戦い

訪問日 2005年6月5日(日) 歴史探偵クラブ(講師 外川淳氏)。

 一斉に攻撃してくる武田騎馬軍団を、3段に構えた織田鉄砲隊が迎え撃ち、次々に発射される鉄砲の威力の前にそれまで勇猛を誇った武田騎馬軍団が次々に討ち取られていくというのが、多くの小説や映画などで紹介されている長篠合戦です。しかし最近の説では、どうも実際の戦いはそれとは大きく異なっていたようです。
先ず、第一に武田家に騎馬だけで組織された騎馬隊というものが存在していませんでした。第二に、織田・徳川軍は鉄砲隊を横一列に千挺並べたのを三段に配置したということも違うようです。しかしいずれにしても、織田・徳川軍が数多くの鉄砲を使用して戦い、その結果、武田軍は名だたる武将が数多く戦死していることは間違いのないことです。


写真は、躑躅ヶ先(甲府市)の武田神社です。

 1575年4月12日、躑躅ヶ先の武田館で武田信玄の3回忌の法要を行った武田勝頼は、集まった武田家の武将を前に、自ら三河への出陣を表明しました。武田家の重臣の中には、徳川・織田家との全面戦争に危惧を覚える者もいましたが、「御籏楯無も御照覧あれ」と武田家の家宝の御籏楯無(みはたたてなし)に誓った決意は、何人にも覆すことは出来ませんでした。
武田信玄亡き後の武田家は、信玄以来の重臣と武田勝頼の側近との折り合いが悪く、武田勝頼としては、自分の力を武田家の武将に示し、自分に求心力を持たせる必要に迫られていました。その為には、戦で勝利することが最もてっとり早いことでした。
 4月21日、武田勝頼は1万5千の武田軍を率いて、青崩峠を越えて三河へ侵入しました。
写真は吉田城(豊橋市)の空堀と土塁です。

 5月1日徳川方の長篠城を囲んだ武田勝頼は、長篠城の押さえに2千を残し、1万3千を率いて、二連木城、牛窪城を攻略し、吉田城へ向かいます。吉田城は徳川四天王の酒井忠次が守る城ですが、この時には武田軍に備えて徳川家康も入城していました。5月5・6日に両軍が城下で戦いますが、徳川方は少数であるため、戦闘を短時間行っては退き、城に籠もります。この時の徳川軍は約6千人と云われます。その為、徳川軍は吉田城を固く守り城を出ませんでした。この様子を見た武田軍は、徳川軍を誘き出しての野外での家康との決戦を諦め、兵を退くことにします。そして、長篠城の奪還のため、再び長篠城へと向かいます。
写真は長篠の医王寺の武田勝頼本陣跡です。

 武田勝頼は信玄の4男で、信玄の側室諏訪氏との間の子供でした。そのため勝頼は、母方の諏訪氏を嗣いでいました。しかし信玄の嫡男の武田信義が、武田家の今川攻めに反対し謀反事件で自害させられると、武田家の世継ぎとなりました(二男は盲目、三男は既に死亡しています)。このため、武田家の親族等の中には、勝頼を諏訪氏の跡継ぎと見て、武田家の正式な跡継ぎとは認めたくない者もいました。
 長篠城へ着いた武田勝頼は、全軍で長篠城を囲むと、自分はここ医王寺に陣をとり、攻撃の指揮を執ります。 
写真は長篠城です。

 この時長篠城を守っていたのは、奥平貞昌です。奥平氏は以前は徳川家康に臣従していたが、武田信玄の東三河侵攻に際して、武田方に属していました。しかし2年ほど前に、家康は自分の長女を奥平信昌に嫁がせると約束して奥平氏を徳川方に引き入れました。
武田家から離反した奥平氏が守る長篠城は、交通の要地に当たり武田勝頼の攻撃が十分予想されたので、城の整備を進め防備を固めていましたが、守りの兵は僅かに500名がいるにすぎませんでした。
 武田軍は5月10日頃より、長篠城の攻撃を始めました。武田軍は北側から(写真上の方)から、強襲します。奥平氏も必至の防戦に努めて激戦が行われました。
写真は長篠城の対岸にある鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の碑です(磔にされた場所)。

 5月13日までの戦闘で、武田軍は強襲により長篠城のふくべ丸と服部曲輪をほぼ占拠するまで迫ります。更に14日には弾正曲輪や三の丸まで攻略したようです。しかし武田軍の死傷者もかなりあったため、勝頼はここで力攻めから兵糧攻めに切り替えます。
 14日の夜、長篠城主の奥平貞昌は城内の兵糧は後4日分しかないため、城を脱出してこの状況を家康・織田信長へ伝えてくれる使者を募ります。武田軍の厳重な囲みを考え誰も手を挙げることが出来ないでいました。その長い沈黙の後に、意を決して鳥居強右衛門(36才)が申し出ました。その日の深夜鳥、居強右衛門は城を出て川を4キロも泳いで城を脱出します(強右衛門は水泳の名手でした)。15日鳥居強右衛門は無事岡崎へ着き、家康へ奥平貞昌の言葉を伝えます。岡崎城には、徳川軍の他、到着した織田軍もいました。家康から明日にでも出陣して長篠城へ後詰めをすると聞かされた鳥居強右衛門は、長篠城兵はその言葉を心待ちにしていますと「今日は休んで明日皆と出陣すれば」と引き留めるのを振り切り、長篠城へ向かいます。しかしながら、長篠城近くで城に入る隙をうかがっていた鳥居強右衛門は、武田軍の見張りの兵に捕まってしまいます。
写真は鳥居駅近くにある鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の墓です。

 武田軍に捕まった鳥居強右衛門は、武田方から、城内の者に「織田家の援軍は来ないので、城を明け渡すよう」に云えば命を助けるほか知行地も与えると云われます。この申し出を受けた鳥居強右衛門は、16日の夜、磔柱に縛られ城の対岸(滝川)へ晒され、明かりを点けられその姿が城内へ見えるようにされます。鳥居強右衛門は長篠城へ向い「鳥居強右衛門は只今戻りました。」と叫びます。長篠城内でもこの声に気づき何人かが鳥居強右衛門を見ました。その時、鳥居強右衛門は城内へ向かって更に大声で云います。 「織田信長殿は岡崎まで来ているので、間もなく後詰めの大軍が着きまする。」同時に、側にいた武田軍の兵士は槍で鳥居強右衛門を刺し殺します。鳥居強右衛門の壮絶な戦死です。これを見た(聞いた)ある武将は、鳥居強右衛門の磔の姿を自分の籏にしたと云われます。
写真は鳶ケ巣山です。

 5月16日織田・徳川軍は岡崎城を出陣し、18日長篠城から約5キロ離れた設楽原に陣をとります。鳶ケ巣山は長篠城を見渡せる位置にあり、武田軍の武田信実(信玄の弟)を将とする約1000名を長篠城の監視のため残してありました。ここへ徳川方の酒井忠次を主将とする3000名の徳川・織田軍の別働隊が奇襲します。鳶ケ巣山で両軍が死力を尽くしての一進一退の激戦が行われます。しかしやがて武田方の主将の武田信実が討ち死にし、武田方は敗走を始めます。その武田方を追い、徳川・織田別働隊は、長篠城の押さえの小山田隊等まで攻め掛かります。これを見た長篠城内も活気づき城を打って出て長篠城の押さえの武田軍へ攻め掛かると、たまらず武田軍は敗走を始めます。
写真は設楽ヶ原で、織田軍の方から見た武田軍の陣地です。

 設楽ヶ原に着いた織田・徳川軍は、連子川に沿って陣を構えます。木で柵を作り土塁を作ります。織田信長は今回の出陣の祭には、留守を守る部隊等からも銃卒を差し出させています。織田軍だけで1千挺又は3千挺の鉄砲隊が集められたと云われます。当時の種子島火縄銃は有効射程距離200メートル、殺傷距離100メートルと云われています。
 設楽ヶ原に布陣した、織田・徳川軍は3万8千人、武田軍は1万2千人と云われます。5月19日の武田軍の軍議では、信玄以来の重臣が敵は大軍でありいったん引き上げるべきとする一方、勝頼とその近臣は決戦を主張し激論がかわされたと云われます。しかし最後は武田勝頼の決戦の意志により設楽ヶ原への出撃・決戦と決まります。
 5月20日付の勝頼の家臣に宛てた手紙が残っていますが、その内容を見ると、敵は恐れをなしてちぢこまっており、武田軍は織田・徳川軍を撃破することが出来ると云って自信のほどを示しています。これまで徳川本隊との決戦を何度も試みた勝頼にしてみれば、今まで逃げ回っていた家康が出てきたこのチャンスを逃したくないと云う気持ちが強かったようです。また織田軍が直接長篠城まで救援に来ないで、その手前の設楽ヶ原に陣を敷いたことが、武田軍とまともに渡り合う自信がないためと見えたのかも知れません。
写真は、設楽ヶ原古戦場に建てられた馬防柵です。

 5月21日午前6時、武田軍の攻撃が始まります。武田軍の最左翼の山県正景隊が徳川の陣へ向かいます。やがて内藤隊が滝川一益の隊へ、攻撃を始めます。柵の前面にいた織田・徳川隊は武田軍に敗れ柵内へ逃げ込みます。しかしこれは織田・徳川軍の予定の行動で、敵を柵に引きつけるためのものです。柵に向かった武田軍は織田・徳川軍の銃撃を受けます。このためなかなか柵内へ突撃することが出来ません。やがて武田軍の2番手3番手の各隊もそれぞれ前面の敵に対して攻撃を始めます。しかし土塁と木柵で守られた織田・徳川の守りは固く、どの隊も陣地前で足踏みすることになります。柵手前が水田でぬかるんでいたことも武田軍の攻撃を鈍らせたようです。攻撃開始から3時間あまりが経過しましたが戦線は動かず、武田方は馬防柵を突破出来ずにいます。柵や土塁で守られた陣地へ、兵力の少ない武田方が攻撃しているので、戦線は織田・徳川方有利に展開していきます。
その後、山県昌景や土屋昌次など武田方の名だたる武将の戦死が始まります。 
写真は、設楽ヶ原古戦場に建てられた名和式の「鉄砲構え」。乾堀・馬防柵・銃眼付きの土塁の3段構えであったとしている。

 5月21日午後1時頃、戦局を見ていた織田信長は全軍に総攻撃を命じます。これにより武田軍は総崩れになり敗れます。武田軍の実際の戦死者の数は、この総攻撃以降のものが多かったと思われます。何とか踏みとどまっている内は戦死者もそれ程ではないが、敗れて相手の追撃を受けるときには大きな損害を出します。この敗戦では、武田勝頼の本隊も散りぢりになり退却します。この時、勝頼に最後まで付き従った者はわずか10数騎と云われています。
武田軍の名だたる武将で討ち死にした者は、馬場信春、内藤昌豊、真田信綱などがいます。戦は織田・徳川軍の圧勝でした。織田・徳川軍の勝利の理由としては、@兵力が勝っていたこと(兵数については色々な説がありますが、織田・徳川軍は武田軍に対して2〜3倍の兵力がいたと思われます)。A戦いを有利に進めるために、織田・徳川軍は馬防柵などの陣地構築を行っていたこと。B当時の最新兵器である鉄砲を大量に使用したこと。が挙げられます。鉄砲の3段撃ちについては、実際は無かったと思われますが、火縄銃の大きな音で武田軍の指揮者が乗っている多くの馬が混乱したことは想像出来ます。

参考 「戦史ドキュメント 長篠の戦い」(二木謙一著 学研M文庫 2000年9月13日) なお上の文章の日時・及び兵数は、この本から書きました。
    歴史探偵クラブでの配付資料
    現地案内板等
    なお、「武田騎馬軍団」や「長篠合戦の鉄砲3段撃ち」については「歴史こぼれ話」に載せてありますのでそちらも見て下さい。 

 

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