桶狭間の合戦   

訪問日 2002年8月24日 近畿日本ツーリスト歴史倶楽部

 戦国合戦の奇跡とも言われる有名な桶狭間合戦ですが、近年これまでの通説は大きく見直されています。窪地で昼食を取り休んでいた今川軍を織田信長の軍は奇襲したという話は、テレビドラマ等では何度も取り上げられています。そのために何の疑問もなく、それを信じている人が多いのですが、少し疑問を持ってみてみると、今までとは異なった桶狭間の合戦が見えてきます。実際は今川軍は、窪地ではなく小高い丘に陣を構えていた。そのため、織田軍は奇襲出来るはずもなく、本隊と本隊との正面衝突だったと云われます。興味のある方は、「信長の戦国軍事学」藤本正行著宝島社出版、を読んでみてください。


 桶狭間の合戦当時、信長の居城だった清洲城跡です。

 ここで信長は今川義元にどう対処するか考えました。出撃論と籠城論の二つがありましたが、家臣達の意見の大部分は、今川の大軍にはかなうはずもないと見て常識的な籠城を言うものが多かったと言われます。
今川家という守護家の家格の高さ、今川義元という当時の最高の教養人で名将だとの評価が、当時は一般的だったと思います。
しかしここで信長が何もしないでいれば、尾張を統一して間もないので国内の有力土豪等の中には、信長を見放すのもが出てくるかも知れません。
 清洲公園にある織田信長像です。

 1560年5月19日早朝、信長は今川義元との決戦の為に出撃します。今川軍2万五千、織田信長軍四千と言われます。信長軍四千のうち、桶狭間の合戦に参加したのは2千と言われています。
しかし当時、織田信長は尾張一国をほぼ統一していました。江戸時代の尾張は大国です。織田軍四千という数字は、かなり過小に言われていると思います。少ない兵で大軍を破った方が格好がよいですから。(^-^) 対する今川軍2万五千は過大ではないでしょうか? このように考えるきっかけは、戦国のシミュレーションゲームではこれほどの兵の差がないと云う単純なものです。(^^ゞ
今川軍は武田・北条と三国同盟を結んでいたとはいえ、国境付近の城や本城にはある程度の押さえの兵を残さなければなりませんので、全軍を率いてくることは出来ません。
この両軍の兵力を詳しく論じたものに、「
余湖さんのHP」があります。興味のある方は、読んでみてください。
 清洲城の模擬天守閣。

 桶狭間合戦の後に、清洲城が歴史の表舞台に登場するのは信長死後の織田政権の枠組み造りを決める清洲会談の時でした。1582年の清洲会談では、羽柴秀吉と柴田勝家が信長の後継者をめぐって激しく争いました。結果的には、秀吉が押した三法師(信長の孫)が後継者となりました。余談ですが、この三法師は、後年関ヶ原の戦いの時には、岐阜城主織田秀信となっていて西軍につきました。
熱田神宮で、伊勢神宮に継ぐ格式の高い宮です。

 1560年5月19日早朝清洲城を出発した信長は、ここ熱田神宮で小休止を取り後続の兵が集まってくるのを待つ。それと同時に数多くの斥候を放っていた信長は、それらの報告をも待っていたのだろう。
この熱田神宮に、無神論者の信長は戦勝祈願をしたと云われる。やはり今川義元の大軍には尋常では勝つことは難しいと思っていたのだろうか。
 熱田神宮の築地塀です。

 信長が桶狭間合戦の時に戦勝祈願して、勝利することが出来たので築地塀を寄進しました。信長塀と言われています。土と石炭を油で練り固め瓦を厚く積み重ねています。日本3大塀の一つと云われています。
桶狭間古戦場にある今川義元の墓。以前は塚であったが、明治になって墓が建てられた。

 今川義元は、桶狭間の合戦で負けたと言うことがあまりにも有名になり、実際よりも評価が低く見られています。テレビドラマでは、お歯黒をした今川義元が登場して、公家風な人物が強調されています。しかし跡目争いに勝利し、駿河・遠江・三河の3国を支配するというのは、とても凡将では出来ません。大体2万五千と云われる大軍を率いることなど出来ないでしょう。
ここでの本隊同士の戦いは、兵力は殆ど差がなかったのではないでしょうか?仮に今川本隊が五千とした場合、信長軍も四千位はいたのではないでしょうか?
 写真は「七石表の一」と呼ばれるもので、今川義元が戦死した場所を明示する最も古いものです。元々は塚のみであったそうです。

 今までは今川義元の1560年の進軍は、上洛の為だと言われています。その当時に上洛の為に軍を起こすこと自体が、並々ならぬことでありとても平凡な武将が、実行出来るはずがありません。今川義元は戦国大名で、初めて上洛して自ら日本に号令をかけようとしたわけになります。しかしながら、この時の進軍も、上洛のためではなく尾張の制圧のためだとする意見も多くあります。あのまま上洛しても長期の京都滞在は、無理であったとするものです。
桶狭間古戦場跡の碑です。

 以上書きましたとおり良く知られている桶狭間の戦いですが、なかなかホントのことはわかりません。織田織田信長は自軍の情報活動を大変に重視したことは事実のようで、戦後の論功行賞でそれが現されています。更に戦いも、首を取る必要はないなどと、いかにも信長らしい合理的な命令を出しているようです。しかしそれでも、信長が勝利することが出来たのは大変ラッキーなことだったと思われます。
色々想像することが出来て、興味がもてる戦いです。


戦国古戦場跡の目次へ戻る