関ヶ原の合戦     


見学日 2002年9月15・16日 近畿日本ツーリスト歴史倶楽部

 1600年9月15日、関ヶ原で天下分け目の決戦がおこなわれました。日本の国を二つに分けて戦国時代最大の合戦で、東西両軍併せて20万とも言われる軍勢が争いました。新暦旧暦の違いはありますが、私も同じ9月15・16日に関ヶ原へ行きました。偶然と言うべきでしょうが、朝方はほんのり小雨でもやがかかっていて、当時の霧の関ヶ原を想像出来ました。関ヶ原の古戦場には、住宅地や道路などが出来ていました。訪れた印象は、思っていたよりも広いと云うことでした。当時の有力武将の多くが、ここで戦をしました。
 家康が会津討伐へ向かって不在の上方では、7月17日、西軍は3奉行の連名で、家康が秀吉の遺命の背いたとする家康弾劾文を諸大名に発しました。家康が率いる会津の上杉征伐軍(東軍)は7月25日小山会談により、家康追討の旗を揚げた石田三成(西軍)を撃つために上方に戻ることを決します。その時の家康率いる東軍には豊臣恩顧の大名が数多くいましたが、会議を上手くリードした家康等により全ての大名が東軍につきます。有名な真田昌幸と幸村親子は家康に合流すべく向かっている途中で、石田三成の旗揚げを聞き引き返しますので、小山会談には参加していません。また美濃岩村城主の大名・田丸直昌は、ただ一人西軍に味方すると書かれている書もありますが、「田丸直昌と北畠・田丸氏の歴史」(田丸辻郎著 岩村町教育委員会)によれば、田丸直昌は家康率いる会津討伐軍には加わっていません。当然小山会談には出席していないようで、当初から西軍として行動しているようです。
小山から帰った家康は江戸にいて、会津の上杉軍や常陸の佐竹氏に対する手当を行いながら、慎重に諸大名の動きを伺っていました。同時に全国各地の諸大名に手紙を出しまくっていました。家康は8月5日から出発の9月1日まで、江戸を離れることが出来ませんでした。
結果的には天下分け目の関ヶ原の合戦は、たった1日で東軍の勝利で決着が付きましたが、其処には色々なドラマがありました。

写真は大垣城天守閣。

 8月1日に伏見城を落とした石田三成は、8月11日ここ大垣城に入る。しかし8月23日に東軍が美濃の岐阜城を落としたと知った三成は、大垣方面へ西軍の兵を集結しようとします。それに応じて島津・小西・宇喜多隊が大垣へ入城します。さらに大谷吉継、毛利秀元、吉川広家、長宗我部盛親、小早川秀秋等が関ヶ原に到着して、布陣します。
写真は岡山本陣跡。

 小山から引き返した秀吉恩顧の大名が中心の東軍は、清洲城に集結して、家康の出陣を待ちます。しかし家康の伝言「各方は何故戦わないのか」を聞き、美濃の岐阜城を攻め落とします。その後東軍は西軍の本拠大垣城を伺う位置に兵を進めます。その場所は大垣城の北西約4キロの赤坂です。大垣城を攻めた場合には、短期間に落とすことは難しく、その場合大坂・関ヶ原等の西軍が後詰めとして出てくる可能性が高いために、大垣城に対峙する形で陣を構えます。9月1日に江戸を発った家康軍は、9月14日に赤坂へ着き、岡山を本陣とします。なお、徳川軍の主力は家康の息子の秀忠が率いて中山道のルートで上方へ向かっています。家康が率いてきた軍勢は3万ですが、寄せ集めの兵が中心でとても精鋭と言えるものではありませんでした。
写真は杭瀬川。

 西軍の大垣城と東軍の赤坂の間にあるのが杭瀬川です。岡山の本陣に入った家康は、西軍の大垣城へ向けて家康の所在を示す金扇馬標と旗を高々と掲げます。家康の到着を知り大垣城の西軍に動揺が見られました。当初石田三成は、家康は上杉軍に牽制され上方に来るのはもっと遅くなるものと考え、それに基づき計画を立てていました。一方の家康にも誤算がありました。それは徳川軍の主力をなす秀忠軍が、まだ到着していないことであった。
 家康の到着を知った三成の武将島左近は、味方の動揺を鎮めるためにあえて一戦することとし、自ら威力偵察のために兵を率いて杭瀬川を越えて東軍に戦いを挑んだ。東軍の中村隊と戦ったが島左近は巧みに兵を指揮し、勝利します。
関ヶ原で家康が最初に本陣を構えた桃配山。

 東軍は岡山で軍議を開き、大垣城をそのままにして三成の居城の佐和山城を抜き、大坂へ向かい毛利氏と決戦することに決した。一方の西軍は毛利輝元の出陣を要請していたが、輝元の出陣はなかった。どのようにすべきか作戦を話し合っているところに、東軍が佐和山・大坂へ向かうとの情報を得た西軍は、関ヶ原で東軍をくい止めることにして夜大垣城を出て、雨にうたれながら関ヶ原に向かいます。南宮山に陣取る毛利隊等、松尾山に陣取る小早川隊等を考えた時に、非常に有利な陣形をとることが出来ることが大きい理由だったとおもいます。しかし、家康軍を追尾する方法も考えられます。深夜になって、西軍が関ヶ原に移動中との連絡を受けた家康は出撃命令を出し、東軍も関ヶ原を目指して出陣します。西軍の後を東軍が、追いかけるような形になります。
 家康の桃配山ですが、672年の壬申の乱の時に大海人皇子がこの山に陣を置き、近江に攻め入って大友皇子の軍を破ったところで、家康はこの故事を良く知っていてここに陣を構えたようです。(「日本人は歴史から何を学ぶか」小和田哲男著)
石田三成の重臣島左近の陣跡。

 石田三成は自分が4万石の時に、1万五千石で島左近を召し抱えたと言われる。島左近は文人派の三成に使えて、石田家の合戦実務を支えた人です。「三成に過ぎたものが二つあり。島の左近と佐和山の城。」と歌われた。秀吉の死後、家康の暗殺などの数々の献策を三成に進言するが、採用されなかった。関ヶ原の戦でも、三成軍の最前線を努め縦横の活躍をするが、惜しくも黒田軍の鉄砲隊の狙撃に遭い、初戦の頃に重傷を負う。
島左近の陣から関ヶ原の激戦地を見る。

 石田三成は西軍の中心人物で、しかも秀吉恩顧の大名から嫌われていたので、東軍の集中攻撃を受ける。それらを必死にかわし、むしろ押し返したり優勢のうちに戦を進めたのは、島左近や蒲生郷舎などの実践派の指揮官だった。三成などの西軍は関ヶ原の狭隘部に、臨時の防御工事を行い守りを固めていた。特に三成の持ち場である笹尾山と天満山との間は平地となっており防御が弱いところと考えられていた。ここを東軍の攻撃から守りきり、その後東軍の側面から攻撃を加えるのが三成の計画だったと思われる。そのため三成は大垣城から移動中の途中にも松尾山の小早川秀秋を訪ね、その攻撃の依頼を重ねていた。
関ヶ原の激戦地から笹尾山を見る。

 石田三成等西軍は、東軍の最初の攻勢をかわして優位に戦を進めていた。東軍の攻勢は行き詰まりの状態を迎えつつあった。石田三成は今こそがその時だと思い、側面攻撃の合図の烽火を上げる。しかし、松尾山の小早川秀秋も南宮山の毛利秀元の軍も沈黙を保っていて攻撃の気配を見せないままだった。この時点では、南宮山の西軍は東軍の側面と言うよりは、後方に位置している。家康は南宮山からの攻撃に備え、押さえの兵を残していたがこちらからの攻撃はないものと見切っていたようである。
 現在は住宅地の中にある本多忠勝の陣地跡。家康軍の中でも最も戦上手と云われたのが、この本多忠勝である。しかしながら、本多軍の主力は息子の本多忠政が率いて徳川秀忠軍にあった。徳川軍の中でこの関ヶ原にいた主要な武将は、前軍の松平忠吉、本多忠勝、井伊直政、後軍の奥平信昌、松平忠政5名くらいです。徳川家が天下取りになるかならぬかの大事な一戦だったので、井伊直政はなんとしても開戦の火蓋は徳川軍で切らねばと思い、松平忠吉(家康の4男)を引き連れ、福島隊の前面に出て、西軍の宇喜多隊に鉄砲を撃ちかけた。これが9月15日の午前8時頃である。
 陣場野。桃配山にあった家康の本陣は戦闘が一進一退を繰り返している中で、前線に近いこの地に移された。家康は予想外の西軍の健闘に次第に苛つき始める。南宮山の毛利隊等に備えていた山内一豊、有馬豊氏に前線の戦いに加わるように指示している。この際に自分の旗本を前線に投入していないのは、予備的な部隊だった為だと言われる。石田三成が東軍の側面攻撃の烽火を上げたのは、午前11時頃であるが、その時点でも松尾山の小早川秀秋は迷っていた。その小早川隊に家康は鉄砲を撃ちかけ威嚇します。これがきっかけとなり、小早川隊は松尾山を駆け下り西軍へ攻撃を始めます。西軍の大谷吉継はこのことをある程度予測しており、持ち堪えていたが、小早川隊に続いて、脇坂・朽木・小川・赤座の4人の西軍大名が裏切り大谷隊の攻撃を始めたためついに崩れる。
 東首塚。関ヶ原の合戦で戦死したものは約五千名と云われる。この戦死者を葬ったのが二つの首塚で、東首塚の他に西首塚がある。
 午後1時頃に西軍の大谷隊が崩れると、続いて隣の小西隊が崩れる。大谷吉継は自刃し、小西行長は逃走します。ついで西軍の中で最大の兵数で善戦していた宇喜多隊が崩れ、西軍は敗走を初めます。
 家康は陣馬野で午後5時頃に首実検をしたと云われます。


参考文献
      関ヶ原と戦国武将の攻防    小和田哲男監修     主婦と生活社   2000年1月15日
      歴史群像シリーズ4 関ヶ原の戦い              学習研究社    1997年1月1日
      歴史群像シリーズ  決闘関ヶ原               学習研究社    2000年1月5日
      関ヶ原合戦             藤井尚夫著        朝日新聞社    2000年9月15日
      日本の歴史・合戦おもしろ話   小和田哲男著      三笠書房


戦国古戦場跡の目次へ戻る