賤ヶ岳の戦い

訪問日 2004年7月10日(土) クラブツーリズムのツアーに参加。

 織田信長を討った明智光秀を山崎の合戦で滅ぼした羽柴秀吉が、織田家重臣の柴田勝家と争ったのが賤ヶ岳の戦いです。織田信長の後継者争いとしてこの戦いを見ていくと、単に賤ヶ岳における柴田勝家と羽柴秀吉の戦いではなく、近江(長浜)、美濃(岐阜)、伊勢を含む広範囲の戦いで、羽柴秀吉・丹羽長秀・堀秀政・池田恒興・織田信雄等の羽柴陣営と柴田勝家・佐久間盛政・柴田勝豊・織田信孝・滝川一益等の柴田陣営の戦いでもありました。
また、外交戦も活発でありました。外交戦と云えば秀吉の得意とするところですが、柴田勝家も活発に行っていたようです。その相手先は、四国の長曾我部氏、中国の毛利氏、備後にいる足利義昭、徳川家康、高野山、甲賀の山中氏等と多方面に渡り、書状を送り味方になるよう説いています。
結果を知っている私達から見れば、秀吉は圧倒的に有利で勝つべくして勝ったと思いがちですが、当時は必ずしもそうではありませんでした。当時の大勢力の本願寺も秀吉・勝家双方に使者を送っていますし、また中国の大勢力の毛利氏も秀吉に送った使者に現地で良く情勢を見るように言い含めています。更に秀吉が柴田勝家の後方(越中)を攻めるように申し合わせた越後の上杉氏も動いてはいません。このようなことから、当時の人達の間では、どちらが優勢なのかは判断が難しい状況だったと思います。そのような意味では、この戦いも天下分け目の戦いだったのです。


 写真は福井市の柴田神社にある柴田勝家の像です。 

 1582年12月、秀吉は柴田勝家が動けない雪の時期を狙って大軍を率いて行動を開始します。柴田勝豊の守る長浜城を攻めたのです。長浜城の城主柴田勝豊は、柴田勝家の養子でもありました。秀吉は以前は長浜城の城主だったこともあり、長浜城の防備については熟知していました。それに加えて、城中の多くの者にも得意の工作を行ったようです。柴田勝豊は、味方の救援が全く見込めない状態でしたので、やむなく人質を出して秀吉の元に降ったのです。これで、秀吉は柴田勝家に対して有力な拠点となる長浜城を手に入れました。
 秀吉は岐阜城の織田信孝の陣営の切り崩しを以前から行っていましたが、着々と成功し、西美濃衆の多くの武将が秀吉の元へ人質を送ってきていました。こうのようにして、秀吉は織田信孝の岐阜城を囲みます。秀吉と決戦を覚悟でいた織田信孝でしたが、思うように部下が集まらないために、秀吉に人質を出して降伏することになりました。
 写真は賤ヶ岳の麓からのリフトを降りて、古戦場跡の碑まで行く道です。リフトで行けば7分位ですが、歩くと40〜45分かかる思った以上に急斜面でした。

 織田信孝を下した秀吉は、続いて大軍を率いて伊勢の滝川一益の攻略に当たります。1583年2月に秀吉軍は3方面から伊勢へ侵攻します。そして、峰城・亀山城等を開城させます。
秀吉の意図は、柴田勝家が雪のために出陣出来ないでいる時に、勝家方の有力な味方を各個に撃破しようとするものです。柴田勝家は、このため予定より早い3月3日から近江へ出兵を開始します。それはまだまだ残っている雪をかき分けての大変な出兵になりました。
 有名な賤ヶ岳七本槍古戦場跡の碑です。写真で見るとおり大変見通しの良いところに建っています。

 賤ヶ岳七本槍は有名ですが、賤ヶ岳の柳ヶ瀬における活躍で感状を貰った人のことを云っていますが、実は七人ではなく以下の九人です。福島政則、脇坂安治、加藤嘉明、加藤清正、平野長泰、片桐且元、糟屋助右衛門尉、桜井左吉、石河兵助の弟長松(「賤ヶ岳の戦い」高柳光壽著P194)。多くは秀吉の旗本にいた若者でした。そして戦った相手は、佐久間盛政の弟で柴田家へ養子に行った柴田勝政の部隊です。
七本槍の激戦があった地は、碑がある賤ヶ岳の頂上ではなく下の写真の余呉湖の左側真ん中から後方にかけての場所です。
 写真は賤ヶ岳古戦場から見た余呉湖です。

 柴田軍の先鋒部隊の佐久間盛政は行市山(右翼)に陣を敷き、勝家の本隊は北国街道と敦賀街道をおさえる要衝の地柳ヶ瀬背後の内中尾山に陣をとります。更にこの二人の部隊の前には、前線に前田利家と原彦次郎、中段には不破勝光と金森長近・徳山秀現がそれぞれ天険の要地に陣取り、堀や塀等を設け守りを固めました。
 伊勢にいた秀吉軍は、織田信雄等の部隊を滝川一益の押さえとして残し、3月17日木ノ本へ到着し柳ヶ瀬で柴田勝家軍に戦いを挑みますが、勝家軍は守備を固くして応じませんでした。羽柴秀吉は柴田軍の防備が固いのを見て、こちらも守りを固めることにします。秀吉軍は陣地を構築し、柴田軍が出てこなければ、兵を分けて伊勢等の攻略に当てるつもりだったようです。
 柴田軍の佐久間盛政は秀吉軍に調略を行い、柴田勝豊の将である山路将監が秀吉方から寝返ります。この山路から、秀吉は柴田軍と連動して再び兵を挙げた織田信孝を討つために大垣に向かうこと、更に秀吉方の最前線の防備は厳重だがその後方の賤ヶ岳・大岩山・岩崎山の砦は未だ工事中であること等、秀吉軍の最新情報を得ます。この情報を元に、佐久間盛政は秀吉軍の前面を迂回して、秀吉軍の防備の薄い後方を奇襲する作戦を立てます。柴田勝家は、この作戦に不安を持ちますが相手を叩いたら直ちに撤収することを条件に許可します。
こうして4月20日、柴田軍は全軍が一斉に行動を起こします。佐久間盛政軍8000は行市山を降り、秀吉軍に悟られないように大きく迂回して、写真右側の大岩山の砦へ向かいます。途中の賤ヶ岳砦を牽制するために、切り通しを挟んだ山の上に佐久間盛政の弟で柴田家に養子に行った柴田勝政の兵3000を配備します。こうして早朝6時に大岩山の砦に襲いかかります。この砦を守っていたのは中川清秀1000ですが、両隣の砦に援軍を求めますがつれない返事でした。中川清秀は独力で戦うことになりますが、午前10時頃ついに落城し自刃します。
 写真は賤ヶ岳のリフトです。
 大岩山の砦が奇襲で落ちたとの連絡を、秀吉は大垣城で聞きます。本来なら織田信孝の岐阜城を攻撃中の筈でしたが、豪雨のため揖斐川を渡れず待機していました。このことが秀吉にとっては、結果的には大変幸運でした。秀吉は直ちに、木ノ本までの沿道の農民達に「米を炊きたいまつを用意するように」言います。そして5000の兵を岐阜城の押さえとして残し、15000の兵を率いて午後2時に木ノ本まで向かいます。その距離52キロを、一気に駆け抜けるように重装備を捨てて走ります。兵達は沿道の農民が用意した握り飯を食べながら走ります。秀吉得意のスピード感溢れる「大返し」です。明智光秀との戦いの「中国大返し」を思い出させます。
 この時佐久間盛政は、大岩山の砦を落とし、更に岩崎山砦も攻略した。そして賤ヶ岳の桑山重晴に両側から圧迫を加えたところ、砦を放棄し退却を始めます。予想以上の大勝利に佐久間盛政は、秀吉がいないこの間に柴田勝家本隊に更に前進を求めます。しかし柴田勝家は当初の予定通りに撤収を求めます。佐久間盛政は万が一の場合は、弟柴田勝政の守りがある限り退却道は確保されていると安心して、大岩山に野営します。しかしその夜佐久間盛政は大岩山からおびただしいたいまつの明かりを見ます。大垣から秀吉の大軍勢が帰還していることを知ります。盛政は直ちに全軍に退却を命じます。敵に位置を悟られないように明かりを禁じ、余呉湖畔に出て来た道を整然と引き返します。秀吉軍は大岩山と賤ヶ岳の中間に登りますが、佐久間盛政の見事な退却に手を出せませんでした。佐久間盛政は余呉湖西北の権現坂まで整然とたどり着きます。その上で退却を援護した弟の柴田勝政の軍に、賤ヶ岳隣の山を下り自分の軍に合流する要に伝令を送ります。これにより柴田勝政は下山し退却を始めます。その柴田軍に対して朝8時秀吉軍は攻撃を開始します。後ろには丹羽長秀や羽柴秀長の軍も控えています。圧倒的数のな秀吉軍の攻撃の前に、柴田勝政軍は押され崩れかけます。これを権現坂で見ていた佐久間盛政は、弟を見捨てるわけに行かぬと湖畔に引き返します。
 余呉湖西側ですさまじい白兵戦が展開されました。柴田勝政軍は多くの犠牲をだしながらも佐久間盛政軍と合流し、権現坂まで引き返そうとしたその時に、その権現坂の防備を後方を固めていた前田利家の軍2000が突然戦線を離脱します。前田軍がいなくなったため神明山砦の秀吉軍が、余呉湖の北側から佐久間軍を攻撃し挟み撃ちにします。また、前田軍の戦線離脱は柴田勝家本隊から見ると、前線の佐久間軍が秀吉軍に敗れ、それにより前田軍も敗れて敗走するように見えます。更に前田軍の戦線離脱は、金森長近・不和勝光の敵前逃亡をも誘引しました。これにより柴田軍は全面的に崩れ敗走します。前田軍の戦線離脱は、まさに賤ヶ岳の戦いのキーポイントでした。これにより戦局が一気に変わったのです。
 写真は柴田神社にあるお市の像です。柴田勝家の元に再婚したのですが、亡くなる時まで大変若々しく綺麗だったと言われています。

 柴田勝家は、その日の夜に自分の本城の北の庄城へ戻ります。急いで防戦の準備をしますが、勝家の元に集まった兵は非戦闘員も入れてもわずか3000名でした。そのため柴田勝家は総構え(城の外郭)の守備をすることが出来ず二・三の丸だけに兵を配備するしかありませんでした。早くも23日、羽柴軍は前田軍を従え北の庄へ来ます。その夜、柴田勝家は股肱の臣80人あまりと死での宴を開きます。
翌24日、本丸の戦いとなり柴田勝家は天守閣に攻められるまで戦います。天守でお市の方を切り、自刃します。時にお市の方は37才、柴田勝家は62才でした。戦国時代、本城の攻城戦では天守まで戦う例はあまり聞きません。さすがに柴田勝家の最後の戦は彼らしい猛将振りでした。

 一般的には、佐久間盛政が敵中に中入りをして大岩山砦を落とした後に、直ちに引き返さなかったことが敗因として掲げられていますが、実はその時が柴田勝家本隊の絶好の攻撃のチャンスだったという見方もあります。現地を詳しく探査して、このような視点から見た賤ヶ岳の合戦を書いているものに「フィールドワーク関ヶ原合戦」(藤井尚夫著朝日新聞社)があります。

参考 「賤ヶ岳の戦い」(高柳光壽著 学研M文庫 2001年1月18日)
    「戦国佐久間一族」(楠戸義昭著 新人物往来社 2004年4月15日)

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