関東の戦国の始まり


室町時代には幕府は京都で政治を行った。それまで武家の政治の中心だった鎌倉には、
一族の足利氏を鎌倉公方とし、関東のみならず東北、越後までを管轄させました。鎌倉公
方には関東管領をつけ補佐させることとし、重臣の上杉家がその任に当たることになりま
した。関東地方の豪族は鎌倉へ出仕し、鎌倉公方・管領に仕えます。

 歴代の鎌倉公方は、将軍と同じ足利氏であるので京都の将軍と勢力を競い合うような動
きをし、それに対して関東管領上杉氏は京都の将軍の意向を踏まえブレーキを掛けること
が多く、お互いの仲はうまくいっていませんでした。

 そしてついに、1454年享徳の乱が起こります。関東公方足利成氏が鎌倉にある上杉家の
屋敷を襲い、関東管領の上杉憲忠と上杉家の家宰長尾実景を謀殺します。ここに鎌倉公方
と関東管領が全面的に対立し、その結果関東各地で戦が起こり関東地方の戦国時代が始ま
ります。実に応仁の乱の
13年前のことです。

1455年、京都の将軍家は、関東管領上杉氏を支持し、駿府の今川家等に鎌倉公方の攻撃
を命じます。これにより今川軍が鎌倉へ攻め入り、鎌倉公方の足利成氏は下総古河に逃れ
そこを本拠としたため、これ以降古河公方と称されます。

1457年、京都の将軍家は古河公方に対抗するため、将軍足利義政の弟足利政知を関東に派
遣しますが、関東の現地の支持を得られないため鎌倉に入ることが出来ずに、伊豆の堀越
に留まります。そのため足利政知は堀越公方となり、この時以降、関東地方に公方が二人
いると云う状態になります。

この争いが基になり、関東各地の同族同士が公方方と管領方とにお互いに別れて戦うよ
うになります。

 例えば、関東管領の上杉家自身も、山内上杉家と扇谷上杉家に別れて争い、上杉家の家
宰(家老)である長尾家も一族の家督をめぐり争います。扇谷上杉家では、有名な太田道
灌がでます。また後には、古河公方も親子兄弟で争うようになり、古河公方足利基の弟,
足利義明は、小弓公方(千葉県千葉市)を称します。このような状態が続き関東各地で、
各地の豪族を巻き込んで戦いが続いていきます。

小田原北条氏は、関東の公方や関東官領などがお互いに争いを繰り返している中で、着々
と関東に勢力を増していきます。

1491年、堀越公方足利政知が亡くなり、その後を足利茶々丸が継ぎます。その混乱に乗じて
北条早雲が
1493年堀越公方を攻撃します。さらに1493年には小田原の大森氏を攻め相模国進
出を開始します。

 北条早雲を継いだ二代目北条氏綱は、相模の三浦氏を滅ぼし扇谷上杉氏を圧迫して、相模
を制圧した後、
1524年には江戸城を奪い武蔵国に進出します。1537年には扇谷上杉氏の本拠
地川越城を攻め落とします。

関東の戦国時代の後半は、関東に勢力を伸ばした小田原北条氏とその反対勢力の争いになり
ます。北条氏により関東を追われた関東菅領の山内上杉氏が越後の長尾景虎を頼り、山内上杉
氏の名跡と関東菅領の地位を譲ります。ここに上杉謙信となり関東官僚となった彼は、越後か
ら出兵し北条氏と関東各地で争うことになります。
反北条方の代表的な関東の戦国大名としては、房総の里見氏、常陸の佐竹氏などがいます。

 

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