第二部 松山遊学時代         

 

 

1 江戸遊学

 小説「峠」は、江戸への留学の許可をもらいに家老の稲垣家へ行くところから始まります。

継之助の江戸留学は、実際も藩庁から許可が下りなくて、なかなか実現しなかったようです。

品行方正とは、とても言えない継之助だったことが原因でしょうが、それにしても楽しまない

部屋住の日々が、長く続いたことでしょう。

友人の川島億二郎や小林虎三郎の江戸での活躍が聞こえてきたことでしょうから、負けず嫌い

の彼にしてみれば、広い世間に出てみたいという思いは相当に強かったでしょう。大きな壁の

存在を感じたハズです。

 継之助の最初の江戸遊学は、1856年26才と1857年27才の二つの説があります。小説「峠」

の最初の項の江戸遊学は、継之助32才の冬になっていますので、2度目の江戸遊学のことにな

ります。

江戸では、最初は斉藤拙堂、次には古賀茶渓に学びます。途中一時、佐久間象山にも学びます。

継之助は自分が学びたいものがハッキリしていたようで、最初の斉藤拙堂にはそれが無いので

止めているようです。ただ、個人的には斉藤拙堂に惹かれるものもあったようで、後年松山に

山田方谷を訪ねるときには、途中で伊勢に帰藩していた斉藤拙堂を訪ねて行っています。斉藤

拙堂は、自分の藩では種痘を広めたりとかなり開明的な人だったようで、このあたりが継之助

が惹かれた訳だったのかも知れません。

しかしながら、斉藤拙堂の塾では詩文の作成が講義内容であったため、古賀茶渓の塾へ移って

います。

 斉藤拙堂、古賀茶渓、佐久間象山は共に朱子学者ですが、洋学をも学び開明的な考えを持っ

ていた人であることが注目されます。

 20代後半の遅すぎた遊学ですが、江戸ではのびのび楽しんだこともあったようです。川島億

二郎や小林虎三郎と連れだって、酒を飲んだり名所を見ていて、親友の小山良運さんを、羨ま

しがらせています。

当時小山良運は、大阪の適塾で学んでいました。狭い長岡ではなくて、天下の江戸でやや遅い

青春を楽しんでいます。能力や情熱の有る若者には、封建制にがんじがらめになっている長岡

は、何かと暮らしにくかったろうと思います。

既に長岡では、先祖伝来の鎧ビツの中に、もしもの場合に使うように用意していたお金を、遊

興に使っていたようですので、遊びの方も更に磨きが掛かったのかも知れません。(^-^)

 古賀茶渓のもとで、「李忠定公集」を見つけて大きな感動を受け、貪るように読み進みつい

には全12巻を全て書き写します。丁寧に最後まで字画を崩さず写しているので、いかに感動を

受けたのかが分かります。

師の古賀茶渓は攘夷論など論外で、開国論を唱える進歩的で行動的な学者です。

当時開国論を唱える人は少数派だったことを考えると、三人の師が全て開明的な考えを持って

いたということは、継之助の意志があったと考えられます。

さらに古賀茶渓は、「王陽明全集」を持っていましたが、師を選ぶときにはそのことも関係し

ているかも知れません。

 さて当時の長岡藩の藩主は牧野忠雅で、阿部正弘とともに老中を勤めました。

この牧野忠雅が藩内の藩士から広く意見を求めたののが、1853年のことでした。

多くの若手藩士が応じましたが、継之助も歯に衣着せぬ意見を提出し、これが藩主忠雅の目に

留まり、「御目付格評定方随役」という仕事をもらいました。

当時は、士農工商という身分制のもとで、同じ武士の中でも厳格に格付けがなされていました。

従っていかに能力のある武士でも、下級にある者はその能力を生かすことは出来ませんでした。

武士の中の身分もその俸禄に応じて、上下がつけられ、それに応じて自分のやる仕事も決めら

れているという状況でした。俸禄という形式と、仕事内容という実質を一致させていたと言え

るでしょう。

自分の力を政治の場に生かすためには、藩主や家老などの重要な地位にある人の引きがなけれ

ば、能力があっても埋もれてしまう訳です。下級武士がいかに能力があっても、定年までの先

行きは、ほぼ想像がつく時代だったいえるでしょう。

 継之助の抜擢の「御目付格評定方随役」は、本当に例外だったのです。

しかしながら、継之助自身は俺にはそれは当たり前的な、自信はあったようです。

若者の自信は、他人が世間や慣習等に囚われている分、自分以外の偉い人がどうしても馬鹿者

に見えてしまいます。俺ほどの能力のあるものはそういない、というような自信過剰の面が、

継之助にも大きくあったように思えます。

満々たる自信と「御目付格評定方随役」を持って、継之助は長岡へ帰ることになります。

 さて、満々たる自信を持って長岡へ帰った継之助ですが、世の中そう甘くはなかったのです。

当然といえば当然でしょうか。(^_^;

 当時国家老として、長岡で藩政の中心にいたのは山本勘右衛門でした。

彼は、そもそも序列を乱して藩主が継之助を抜擢したことが、物事の筋目を乱すものと考えた

ようです。ものには順序があり、藩主といえども相談もなく勝手にそれを変えるのはケシカラ

ンとでも思ったのでしょう。長く国元にいると世の中の変化が分からないものですが、考え方

も保守的になります。

さらに、大目付の三間安右衛門も国家老と同じように、今回の藩主の任命を無視する立場を採

ったので、他の役人もそれに同調したようです。現在の会社の役員会なども、このようなとこ

ろが結構あるのかも知れませんね・・・。(;_;)

田舎では急激な変化は好まれませんし、その必要もないと思われます。

 継之助はそれに頓着無く、藩主から任命されたとして、出仕して自己の意見を述べたのです

が、無視され続けたようです。

世間の壁が、自分が思っている以上に厚く強固なことに嫌でも気づかされたでしょう。意見の

中味ではなく、世の中を知らない若造(?)のくせに何を言うのか等と無視され続けました。

さすがに継之助も諦めて、仕方なく職を辞すことになります(1854年正月)。

しかしこの場合も、単純に辞めたのではなく、自分を認めなかった門閥の弊害を厳しく指摘し

た書を、藩主へ提出したと言います。

簡単に諦めないところは、いかにも継之助らしいというべきでしょうか?

 国家老山本勘右衛門は、長岡の戊辰戦争で活躍し会津で亡くなった山本帯刀の養父に当たり

ます。山本家は筆頭の稲垣家と並んで、家老の中でも別格の家です。

山本勘右衛門は、昔気質の頑固者だったそうです。終生正室をめとらず、跡継ぎも作らなかっ

たと云います。家の存続を第一に考えた当時としては、かなりの変わり者だったようです。

強情と負けん気では継之助もなかなかのものですが、山本勘右衛門もまた、凄いようです。こ

の二人の勝負は、さぞかし見応えがあったでしょう。(^-^)

 ちなみにこの養父とは違って、後に家を継いだ青年家老の山本帯刀は、継之助の人物や考え

方を良く理解して、継之助の藩政改革の良き理解者となっています。

さらに後年、この山本家の養子となって家を継いだのが、太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長

官の山本五十六海軍大将です。山本五十六も、継之助を尊敬していて、ロンドンの軍縮会議の

予備交渉へ赴く際に「河井継之助先生が小千谷談判に行く時の精神をもって今回の交渉に臨む」

と言った話は有名です。

 満々たる自信を持っての藩政参加が、思うようにいかなかったことは継之助にとってもかな

りショックでした。少し後に作ったと思われる詩で次のように詠んでいます(読み下しは「河

井継之助の生涯」による)。

 十七 天に誓いて 輔国を任とす

 春秋 二十九にして 宿心たおる

 千載 この機 得べきこと難し

 世味 知り来たりて 長大息す

29才の継之助の挫折感の大きさが、分かるようであります。

 部屋住みに戻った継之助は、盛んに鉄砲の練習をしたと言います。また30才の時には、川島

億次郎と共に東北の各地を旅行しています。旅好きでもあったようです。 

 さて、継之助の身にはもう一つの事件が待っていました。

時は1855年6月のことです。

 藩主忠雅の養子忠恭(当時32才)が初めて長岡入りしました。

長岡では藩士の子弟の中から、文武の道に優れたものを選んで世子忠恭の前で披露することに

なりました。それに選ばれた者は、名誉のこととして喜んで受けました。

江戸に遊学していたこともあってか、継之助も経書の講義をするようにと選ばれました。しか

し、継之助は毅然として拒絶します。

その訳がまた振るっています。「俺は講釈などするつもりで学問をしたのではない。講釈する

必要があるなら講釈師に頼めばいいだろう」というものでした。

まさか断る人などいないと思っていた藩庁では、ビックリしてしまいます。

脅したり、すかしたり、なだめたりします。しかし、継之助はがんとして承知しません。困り

果てた藩庁では、それなら、病気の為に受けることが出来ないとして届け出を出すように言い

ます。相撲取りの休場届のようなもので、なんとか形を整えたいというところでしょう。

しかしながらここでも、病気でもないのにそんなものは出せるかとうそぶき、出そうとしませ

んでした。

とうとう藩庁は、「叱り差し控え」ということで継之助を処分します。自宅で謹慎ということ

になりました。これでおとなしく謹慎しているかと思いきや、謹慎中の生活の伺いという名目

で、皮肉の効いた書面を藩庁に出して憂さを晴らします。うーん しぶとい!!

 このことから、何が分かるでしょうか?
この当時河井家の当主は、父で藩の中堅幹部でした。
当然この父の元へも藩上層部から、お前の息子をなんとかせい、いう声が強くあり色々な方面から圧力を受けたと考えられます。
同様な藩からの圧力は、母の実家、姉の嫁ぎ先にもあったと思われます。
しかし河井家では、嫡男の河井継之助の好きにさせたのです。
継之助の言葉にも一理はあり、それなら自由にさせようと思った訳です。
河井家は、継之助をできるだけ自由にさせて育てたいと思っていた、当時としては珍しい家だったことが分かります。
この自由な河井家のなかで、問題児継之助は自由に成長していったと思われます。(2016年7月
25日追加)。

 しかしこのような態度では、藩の大人からはとうていよく思われません。

継之助の遊学の願いは、しばらくの間無視され続けることになります。意に反して、長岡にく

すぶることになります。(^_^;

 俺がやらねば誰が出来る。と思っていた継之助ですが、いっこうに出番が来ません。さすが

の継之助も、かなりイライラした毎日を送っていたようです。

継之助の妹の安子によれば、この頃の継之助はひどかったと言っています。

家族や周りの人に、内心の鬱憤を押さえかねて、爆発させたことも多かったようです。周りの

人はたまりませんナー。

大体が封建制のこの時代は、自分の出番が決まっていました。人はむやみに他人の出番を奪っ

てはいけないのです。与えられた自分の分を尽くすのが、良しとされていました。継之助の思

っていることは、そんな枠組みを越えているので、理解されません。すると、イライラが募る

・・しばらくして身近の誰かに爆発してしまう・・という悪循環でしょう。

 鉄砲の練習も盛んに行い、今までは武士の家を「弓矢の家」と言っていたが、これからは

「砲艦の家」と言うべきだと進歩的な考えを言っています。

 1857年、継之助31才の時に家督を継ぎます。

芽が出ないなら仕方がないとやや諦め、気持ちが落ち着いたように見えたからでしょうか?

星亮一著の「河井継之助」によれば、1828年の越後の大地震の悲惨さを知るに及んで「自分の

不遇など大したことではない」と悟ったことになっています。

それにより、気持ちの落ち着いてきた継之助を見て安心した父は、家督を譲ったと言われます

が・・・果たして本当のところは・・・・???。

 継之助が家督を継いだ翌年の1858年、藩主の忠雅が病気で亡くなります。

忠雅の後を世子である忠恭が継ぎますが、この時に新たな人材を登用します。

そこで、河井継之助が外様吟味役に就くことになります。

外様吟味役とは、藩内の面倒な事件の裁判をする役であり、おおむね若い藩士を選びその人物

の力量を試す役でもありました。継之助は32才ですから、決して若いとは言えませんが、長い

間解決がなされないで来た宮地村の庄屋と村民の争いが、継之助に任されました。これまで郡

奉行が、何回か解決を試みたがいずれも上手くいかなかった難事件でもあります。一丁前に大

口をたたくのなら、お手並み拝見と行こうかと、思った向きもあったのかもしれません。もし

失敗すれば、継之助を嫌っていた人からそれ見たことかと言われることでしょう。

 しかし継之助は、現地に出向いて詳しく調査して、庄屋と村民を和解させてこの難事件を円

満に解決してしまいました。

 継之助は、この機を逃さず遊学を藩当局に願い出ました。藩当局も、この事件解決の褒美の

意味もあり、遊学を許可します。御用納めの12月27日に、許可がでますが、継之助は直ちに支

度を終え、その翌日に江戸へ向かいます。

一日も早く江戸へ行きたいという気持ちが、いかに大きなものであったことが分かります。し

かも時期は、厳しい冬ですから大雪を踏み分けての旅行になります。また、もう直ぐ正月になりますので、
家族や親戚などの多くの人は、一家の当主ですので、正月くらいは家にいて雪

が消えてから出立したら、と思っていたに違いありません。

これはなぜでしょうか?
彼が解決した宮地村の争いですが、彼の中では根本的な解決ではなく、それを成す為には今の彼では力不足であることを
痛感したからです。
この時に彼が書いた詩によってもそれが分かります。
彼はそれを実際に役に立つ学問(実学)に求め、それを学び直すために2度目の江戸行きを決意しました。
この思いが彼の中ではとても強かったため、冬の三国峠越えになったのです。(2016年7月25日追加)。

 さて、江戸にでてきた継之助は再度「久敬舎」にて学びます。

久敬舎で鈴木虎太郎に師事されます。小説「峠」では鈴木佐吉となっています。

鈴木虎太郎は当時16才で、足利藩の医者の子で後の筑波山の旗揚げに加わり、その後は、維新

後新政府よりの仕官話しも断り、禅の道に進みます。

この時の継之助は、かなり一生懸命勉強した模様です。大雪の中を危険も省みずに急ぐほどの

訳もあったのでしょう。

実際に仕事をしてみて、自分の進む道(勉強不足の処)が分かったのでしょうか?それもかな

り具体的に・・・そんな感じがします。

 そんな中でも、継之助らしいエピソードも、しっかり残しています。(^-^)

継之助は吉原には、よく行ったようで、吉原の情報誌「吉原細見」にそこで買った娼妓に○や

△の印を付けていたようです。(^_^;

小説「峠」にも、遊郭の稲本の花魁の「小稲」(お稲ともいう)とのことがでてきます。この

「小稲」は戊辰戦争の際の伊庭八郎との仲でも、有名です。伊庭八郎の函館までの旅費を、何

も言わずに工面するのが「小稲」です。

河井も伊庭も、同じ女性に惹かれたいうことでしょうか?

河井継之助は英雄豪傑ほど、女性の情には身を誤る危険があるとして、鈴木虎太郎にも女性に

は近づくなと言っています。

しかしやはりというべきか、鈴木虎太郎も出来るだけ河井継之助に教えられたことは守ったが、

これだけは守れなかったと述懐しているようです。


(注)これを書いた後に友人から、小稲は同じ女性ではないと云うことを教えてもらいました。

それによると稲本楼の「小稲」は名妓のみに許されて承継された名前で五代まで続いたそうで

す。河井継之助の江戸遊学の時代等から考えると、継之助が会った小稲は初代で、伊庭八郎の

出会った小稲は二代目(あるいは三代目)の可能性が高いそうです。


 継之助らしいエピソードをもう一つです。

 ある日藩からご用召しの呼び出しがあり、継之助が行きますと、英艦のための横浜港警備の

隊長の命令がありました。

当時の江戸家老は、山本勘右衛門で、国元で継之助を徹底的に無視したあの頑固者です。継之

助は、隊員の生殺与奪の権が隊長である自分にあるのかと訊きました。当時はまだ平和な時代

ですから、そんな規則も前例もありません。当然そんなものは、隊長に与えることなど考えて

もいません。藩に伺いを立てて、許しがあった時でないと、行使できないとの回答になります。

継之助は、戦場になるかもしれない処へ行くのに、一々藩に伺いを立てなければならないのな

ら、とても勤まりませんと言って断ってしまいます。

 すると3日ばかりして、また呼び出しがあり、今度は藩が折れて、生殺与奪の権を付けると

いう。継之助はそれならば受けましょうということで、支度をして隊長として出かけて行きま

した。

しかし品川の女郎屋まで来ると、馬から下り「俺はここで遊ぶから、遊びたい者は一緒に来い、

また帰りたい者は帰れ、横浜へ行きたい者は行け」と言って建物の中へ入っていってしまいま

した。

当然、後日藩からきつい呼び出しがありました。

そこで、継之助は、生殺与奪の権をも自分に与えたのだから、私の勝手ではないかとうそぶき、

役目を返上して帰りました。

 久敬舎の古賀先生が、継之助にどうしてそんなことをしたのかと訊いたところ、「英国は、

本気で戦をする気なんかはありません。何ヶ月も多数の藩士をそこに派遣していたら、長岡藩

は大変な負担をしなければなりません。幕府の申し訳程度の人を派遣しておくだけでいいので

す。」と言ったそうです。

鋭い見方ですが、藩の役人からすれば、そんなことはとても現実には出来ない、というところ

でしょうか。しかし、継之助にすれば今はこのようなことを本当にやらなければならない時な

のだ、と云う気持ちがあるためにこういう芝居がかったことをしたのでしょうか。

有名なエピソードですが、本当のことなのかは、ちょっと分かりません。(;_;)

継之助以外に、隊長になる人が誰もいなかったのかどうか・・・?

しかしこの後、長岡藩は、横浜警備をどうしたのでしょうか? 

 前回のエピソードの続きです。

「河井継之助を支えた男」(立石優著 恒文社)では、国元の家老牧野頼母が、継之助を呼び

だして、横浜警備について問い質します。

しかし継之助は、全然反省の色がありません。むしろ家老の牧野頼母を言い負かしさえします。

結局、中屋敷に二日間押し込められて、処罰は「お叱り」ということで、うやむやのようにな

ったようです。

また、長岡藩の横浜警備も、立ち消えとなり、幕府からも、特にお咎めもなかったようです。

 継之助は、久敬舎に半年ほど学んだ後に、いよいよ山田方谷に学ぶべく備中松山へ行くこと

を決めます。当時、山田方谷は松山藩の財政立て直しを成功させたとして名高かったといいま

す。

継之助は江戸の藩邸の重役に話して、松山遊学の了解を取り付け、長岡の父に対して3千字に

もなる長文を書いて、遊学が必要なわけとそのための学資50両を送ってくれるように頼みます。

この書面を江戸から持っていったのが、村松忠治右衛門です。村松は、勘定方として藩財政の

建て直しに勤めていましたが、以前から継之助とは仲が良かったようです。村松が、継之助の

父に何か土産を持っていきたいが何がいいのかを訊くと、継之助は、中に「微酔」と書いた盃

を頼みました。このわけは、継之助の父は酒が好きなので、楽しんで欲しいが、体に触らぬ程

度に加減して欲しいからだそうです。この辺りからも、父を十分尊敬している様子が、分かる

ような気がします。

継之助は、この手紙を頼んだ村松の長岡行きを、浦和まで送っています。

長岡へ帰った村松は、早速継之助の父に会い、手紙を渡すと同時に、継之助の西国遊学と山田

方谷について詳しく説明します。継之助の父も、贈られた盃で酒を飲むなど上機嫌だったよう

です。

 河井継之助が山田方谷を選んだ理由が、彼の父への手紙に書かれています。

それによると、さすが江戸は大都会で優秀な学者も多いが、いずれも学問を職業(学問のため

の学問)にしていて、才徳を兼ね実学の人は少ないが、山田方谷は学問を実践して成功してい

るので感心している。実際に役に立つ学問を学ぶとすれば、この人しかいない、と思っていた

ようです。

継之助は学者になるための学問をしようと思っているのではなく、実際の藩政に役立つものを

得ようと思っていたことが分かります。なかでも財政再建は、友人の村松忠治右衛門から話を

聞いていて、急務であることを十分認識していたことでしょう。

また、山田方谷については、以前大阪の適塾にいた小山良運からも情報を得ているようですし、

それより前には、長岡藩校の高野虎太教授にも聞いていたことでしょう。

 そうして継之助は、父から旅費を送ってもらい、塩谷宕陰から山田方谷への紹介状をもらい

江戸を出発することになります。

 

2 備中松山へ

 これから、継之助の山田方谷のもとでの西国遊学を書いていきます。

この旅行については、継之助が自分で書いた「塵壺」が基になりますが、基本的には「河井継

之助」(安藤英男著 新人物往来社刊昭和48年発行)の巻末にある、「塵壺(抄)」に依って

書いていこうと思います。塵壺については、それしか持っていませんので・・・。(^_^;

河井継之助のことを書いていますが、この塵壺の部分を読むのは、私にとっても初めてのこと

になります。(;_;)

例によってのんびり書いていきますが、頼りない書き手ですので書き違いや読み間違いなどが

ありましたら、遠慮なく教えて下さい。

 1859年6月4日、継之助(33才)は久敬舎を退塾します。

 そして6月7日江戸を発ち、備中松山へ向かいます。花輪馨之進・三間市之進・鵜殿団次郎が

見送りで神奈川まで一緒に来て、横浜を見学しています。品川で2艘の黒船を見て、城のごと

きありさまだと驚いています。

川崎で昼食をとり、神奈川から船で横浜へ向かいます。

新しい港で、色々な店が開かれていて、中でも塗り物屋が目立っています。横浜の港の整備や

神奈川までの新しい道が出来ているのは、実に公儀の勢いのたまものである、との感想を書い

ています。やはり、幕府びいきでしょうか?

しかしながら、横浜は江戸に近いのと、平地が狭いので、町の発展の先行きは、まだ分からな

いと述べています。

横浜から神奈川への帰り道で、橋の上から船に乗った外人を見ています。中にいた黒人のこと

を、「黒鬼」と書いています。当時は、そうよんだのでしょうか?外国の女性のことは、目の

色は違うが、目鼻立ちは美人なりと書いていますので、外人に対しては、殆ど偏見のようなも

のがないのが、継之助らしいです。さらにその他に、2人のアメリカ人と一緒に歩いたようで

す。

その時の外人は、少し日本語を使うということや、先ほどの船に乗った外人は神奈川に住んで

いて、見学に来たのだと書いています。もしかすると、その外人から聞いたのか、又は周りの

日本人に、あれこれ聞いたのではないでしょうか?

当時流行った攘夷という考えは、継之助には微塵もないようです。好奇心が旺盛で、頭も柔軟

性があったような気がします。

 一行4人は、神奈川の「玉川屋」に宿泊します。

しかし、江戸を出て、神奈川から横浜を見学して、神奈川に帰るといのを、一日でやってしま

うのですから、当時の人の健脚なのには驚きます。

 6月8日 雨風 鎌倉宿

 朝、花輪馨之進・三間市之進・鵜殿団次郎と別れ、保土ヶ谷から金沢八景に行くも、雨風が

強く景色を楽しむことが出来ませんでした。

鎌倉に向かう。途中切り通しとして、高さ10間あまりの岩を切り抜いたところが所々にあり、

海に開かれている南以外は、守りを堅くするためである。

 6月9日 晴れ 江ノ島宿

 午前中は案内を頼み、鎌倉を見学するが、聞きしに勝る旧跡であると非常に感心しています。

七里ヶ浜から腰越(義経の寺を見ています)にいたるところは、景色がよいと誉めています。

 午後、江ノ島に行き宿を取ります。宿より案内を出してもらい、江ノ島観光を楽しんでしま

す。特に富士山の美しさによほど感動しています。見飽きぬまでに眺めていて、さらに宿の庭

からの海と富士の眺めは、何回来ても飽きるところはないだろうと言っています。

 610日 雨風 小田原宿

 江ノ島を発って小田原へ行く。小田原では通りを曳いている車(水戸車)、のことを書いて

いますが、どんな車なのでしょうか?

 6月11日 雨風 沼津宿

 箱根の天険越えを楽しみにしていたが、晴れならば山上の芦ノ湖・伊豆の山々・富士などい

ろいろ見所があったが、天候が悪いので大変残念がっています。箱根は実に天険で、戦国の頃

北条氏が頼んだのもよく分かると言っています。

また、同行の人から聞いた話として、江戸で消費する炭の多くが、伊豆で作られていて、伊豆

では年中炭焼きをしているとの話を書いていますが、各地の経済にも目が向いているためでし

ょう。

 6月12日 雨のち曇り時々雨のち夕方晴れ 大宮宿

 大宮道の馬方から、甲州・駿河より江戸へ運ぶ荷物のことを聞き、初めて江戸で品物が無く

ならないのが分かったと言っています。

また、宿では輪島塗の椀を売る商人に、輪島から出荷する膳・椀類は一年でどの位になるかを

尋ねています。

 6月13日 晴れと雨が半々 蒲原宿

 朝宿の裏から富士の頂を見て、登山を決心して村山というところまで行き、案内を頼む。し

かしながらいざ登ろうとすると、雨が降りだして諦めます。

帰りかけますと、今度は晴れてきて、又登ろうとすると雨が降り、結局諦めます。

余程残念だったのでしょう。「富士のため、女子のごとき不決断となり、自ら嘆息す。此の心、

筆に尽くし難し。」とも「この両日は、富士のため失心す。」とまで書いています。

富士山には大きく心惹かれるものがあったようで、「富士は実に聖人のごとし。」とも書いて

います。12日・13日の塵壺の記載は、富士のことが殆どです。

 6月14日 晴れ時々曇り 鞠子宿

 昨日登山を果たせなかった富士を、残念に思いながら見ると、この3日間では今日が一番良

く見え、そのため、幾度も幾度も振り返って見て、「(富士に)登らずして帰る、実に終身の

誤りの一つなり。」とこの日も残念がっています。

 久能山へ行き案内を頼み、見学しています。その後、静岡へ行き城や町を見学して、家康や

今川義元のことを思っています。

 6月15日 雨風 島田宿

 連日の雨による大井川の河止めのため、渡れない大名や旅人が数多くいる。

昨年などは一ヶ月の内で、20日も河止めがあった時もあり、それに懲りた大名などは、大体中

山道を通っていくそうである。そのため、この辺りの江戸への品物も東海道経由のものは今年

は少なくなり、東海道は道が良いのに、不景気である、と大井川の交通規制(橋を造らない)

は、政策が悪いと言っています。後年、継之助は長岡藩の藩政を司ったときに、信濃川の流通

を改革しますが、当時の武士としては珍しく、経済と物の流れを良く理解しています。

 河止めのため多数の人が逗留していて、宿も塞がっているので、そばやのようなところへ泊

まる。同部屋には、横須賀の足軽のような者がいたが、仲間数人の予約もしていたが、その仲

間が来なかったので、宿主からキャンセルのことを責められ、自分の宿賃の他二朱を包んで渡

して言い訳をしているが、気の毒である、と同情しています。武士が商人へ、一生懸命に謝っ

て言い訳している姿は、いかにも日記風で面白いです。(^-^)

 6月16日 晴 浜松宿

 昨日一緒に泊まった、横須賀の人と大井川を一緒に渡る。河の水は渡す人の首にまで達する

ほどであるが、船で渡せば何でもないことで、実にばかばかしいことだ、と言っています。

金谷の坂の上から渡し場を眺めると、富士山も見え実に景色がよく、絵もおよばないほどであ

る、と又お気に入りの富士も見えたためか景色を誉めています。

その後天竜川を渡って、浜松へ行きます。

 6月17日 晴 御油宿

 浜松を出て、たかつかを通るが、ここは蓮が多くある。

新井は、鰻が多くいて、ここから江戸へも出荷している。ここから、岸和田の武士橋本丈之介

という人と、一緒になり御油に同宿します。

 6月18日 晴 池鯉鮒(ちりふ)宿

 朝同宿した橋本丈之介と一緒に出ます。しかし岡崎を過ぎた辺りで、この人は体力切れのた

め遅れます。

矢作川を渡りますが、大きな橋は殆ど落ちていたため、船で渡ります。橋は幕府の普請で行う

とのことだが未だ工事は始まっていない。大井川は10日間の足止めでしたので、橋はこの時の

長雨で流されてしまったのでしょうか?

 6月19日 晴 名古屋宿

 この日は桶狭間の古戦場へ行き、今川義元や家老の墓を弔いますが、墓のあるところは狭く

窪地なのでとても大将のいるところではないのに、此処にいたのは運であろうか。信長は熱田

へお参りしてから、山沿いに進んで襲ったことは、感心しています(現在では、桶狭間合戦の

このような説は見直されています)。

有松というところでは、鳴海絞りを売る家が数件あったが、実に見事なものであった。その後

熱田新宮へ参詣してから名古屋へ入りますが、熱田から名古屋までは家続きとありますので、

栄えていたのでしょう。

名古屋では、天守閣はじめ城が立派なことに感動しています。天守閣の鯱を望遠鏡で見てもい

て、日に映えて輝いて見事であるとも言っています。

また、町の賑やかなことは小江戸のようでもあり、大きい商店や川端の材木の多いことなどに

も目を留めています。

夜は、広小路へ出て夜店を見物して、賑やかなことであると書いています。

 6月20日  晴 桑名宿

 朝発って、若宮の寺の敷地中に芝居小屋があったが、なかなか盛んであった。

桑名へ渡るときは、景色も良いのだが、口の悪いことで有名な船頭の話しぶりも一つの慰みに

もなる。船の終わりに桑名の城際を通るが、知多郡の先や伊勢の山々が遠くに見えて実に良い

風景である。

 6月21日 晴 津宿

 追分けを通り津について宿を取る。

此処には、江戸での師斉藤拙堂がいるので、夕方であったが書を遣わしたところ、早速継之助

と一緒に学んだ用助がやって来て夜遅くまで色々な話をした。

この「用助」というのは、小説「峠」では、用助どんという愛称の拙堂の内弟子で斉藤塾の名

物男でもあったと紹介しています。

 6月22日 晴 逗留

 朝、斉藤拙堂氏の屋敷へ訪ねていき直ぐに一緒に山荘へ行く。そこで一日色々な話をする。

師の斉藤拙堂は3〜4日前に隠居となり家督相続も済んだばかりであった。斉藤拙堂は継之助の

遠慮のない話を聞いて心配になったのか、しきりに、諸葛孔明の「謹慎」についてを継之助に

話した。上の者をも上の者と思わないような継之助の話しぶりや、江戸湾防備のことなどを聞

いて、藩という組織の中での仕事に非常に不安があったのではないでしょうか?

夕方宿へ帰る。宿には用助どんと秋月藩の神吉(斉藤拙堂のところへ学びに来ていたのでしょ

うか)が来ています。夜は質崎というところで船に乗って遊んでいます。

江戸時代には照明もそれほどないので、夜遊びなどは吉原等のごく限られたところというイメ

ージを持っていたのですが、当時から盛り場は結構何処にでもあったようですね。(^-^)

 6月23日 晴 逗留

 昼前は宿にいた庄屋風の二人と話をする。あまり領内の政治をよく言わずに、批判するよう

な口振りであった。

午後、また神吉氏が来て一緒に斉藤拙堂先生の屋敷へ行く。書画などを見せてもらい色々な話

しもする。継之助が明日出発する予定だと聞くと、もう少し居たらどうかと引き留められた。

先生の家を出て、神吉氏の案内で学校(有造館)を見学する。この有造館は経常収入のことも

考えてつくられたのか、「入用の所計りて拵え方面白し」と書いてあります。

その後、土井氏を訪ねています。この土井氏は、司馬氏の「峠」では、津の名物男であり、非

常に暑がりのため裸でいることが多く、継之助が訪ねたときにも素裸でいたと描いています。

 6月24日 晴 久保倉宿

 朝津を発ち、松坂を通る。津に勝ると思うほど栄えている。三井の家元の構えは格別立派で

ある。山田の町も栄えていた。

恩師と夜に会う。奇体の美男なり。この恩師が誰なのかが分かりません。(;_;) 場所的には、

斉藤拙堂が近いのですが、ここで
わざわざ「奇体の美男」とは書かないでしょうし・・・。

 6月25日 晴 小俣宿

 朝案内の人と一緒に伊勢神宮の外宮へ参詣する。他の神社とは違っているところがあり、遷

座の仕方などはどのような訳からそうなるのかが分からない。間之山を過ぎて古市に至る。古

市は聞きしに勝る繁華である。

内宮へ参詣して、二見の浦へ行く。鳥羽から紀州の海を回って大阪に出ようと思ったが、風が

悪いため止める。

古市へ戻り山田を通って小俣に宿をとる。

 6月26日 椋本宿

 朝発ってもときた道を帰る。大和回りで紀州路をとるか考えたが、津より上方往来へ入る。

この道は追分けより来る道より良いが、人通りは少ない。

 6月27日 晴 石部宿

 朝発って関へ出る。

鈴鹿山を越すときに、小笠原侯の行列に会う。付き従っている藩士達が、バラバラと勝手に歩

いている。鈴鹿山を登って坂を下りた後までも、お供の藩士に会うほどバラバラである。小笠

原侯の駕籠脇も同じ様で、御小姓もいない状態である。

街道で大名の往来を多く見たが、その中では松山侯の供の人数は、大勢いたが、桑名侯はごく

少なく、簡素なものであった。また、諸藩の槍持ちは、脇差しのみで二本差しの者はいない。

 伊勢路や近江路は、稲穂の付きがよいので豊作になりそうだ。

 この小笠原侯の行列は、映画やテレビで見る、「下にー、下にー」と整然と進む大名行列と

はかなり違います。今まで見たのに比べ、あまりにも藩士達がそれぞれ勝手に行動していて団

体行動になっていないので、継之助も驚いたのでしょう。

 

 6月27日 晴 三條宿

 朝発って草津に行く。ここの中山道の追分けがあり茶屋で少し休む。聞いたところでは、東

海道は昨年賃金の値上げがあり、そのため今年は大名や旅人のうち3分の2は中山道を通るよう

になった。

大津に渡ってから、瀬田の橋や膳所の城、唐崎の松、石山寺、三井寺など名高い風景を望遠鏡

などで見る。

三條大橋を過ぎて、ます屋に宿を取る。

宿を出て、阿州藩の合田繁之丞に会い夕方まで語る。夜は四條の夕涼みを見る。

宿に帰ったところ、御姫様のお供とかで、雲助30人あまり宿へ泊まるが、隣の部屋でバクチを

はじめ夜中の二時頃発って行ったが、うるさくて寝られず、その有り様にはあきれ返ってしま

った。

 小説などのイメージでは、こんな場面では鋭い目で雲助を睨んで、黙らせてしまいそうな継

之助ですが、実際は自分が寝不足になっているとことが何となく笑えます。

 6月29日 晴 逗留

 終日出ないでいた。

 6月30日 朝晴夕方大雨 逗留

 7月3日まで京にいますが、特に記事はないようです。

司馬氏の「峠」では京都では、西本願寺門跡の異母妹「織部」さんと知り合うことになり、そ

の話が進められます。しかし、どうもそんなことはなかったようです。好奇心の旺盛な継之助

のことですから、実際の所は京の見所を色々回っていたと思われます。

 7月4日 朝大雨のち晴 船中宿

 朝雨が降っていたが晴になってから発つ。次信・忠信(源義経に従った平泉の佐藤兄弟でし

ょうか)の墓に詣り泉涌寺へ参詣。東福寺へ行き通天橋を見る。また、種々の神社を参拝する。

桃山御殿の跡を訪ね、宇治平等院を見る。

船で伏見まで下り、伏見から夜船に乗り、朝6時頃大阪に着く。

 このスケジュールや以前の行程から見ても、継之助は体は相当丈夫であったようですね。

 7月5日 晴 藩の蔵屋敷宿

 長岡藩の蔵屋敷を訪ね、大阪を見学して蔵屋敷に泊まる。

 7月6日 晴 大阪宿

 一日中見学。竹式という宿屋に泊まる。

 7月9日 晴 生瀬宿

 不親切な宿のため洗濯もできないとこぼしています。

伊丹の造り酒屋は剣菱はじめ大きいものがあり、一軒で千石も二千石も造るというが、それで

も灘の酒屋には及ばないそうである。

神崎、伊丹を経て中山の観音へ詣る。裏の山へ登って四方を眺めると、市中も尼崎の城の中に

ある。六甲山の麓に当たり、海上の船の帆も見えるほどに見晴らしの良いところである。

 剣菱は既にこの頃からあったのですね。私が会社勤めを始めた頃(昭和40年代)は、剣菱と

いえば美味しい日本酒の代名詞でした。今はどうか分かりませんが、何時の頃から桶買いが多

くなった時期があったようで、
そのころ少し評判が落ちたようです。

 7月10日 晴 有馬宿

 生瀬を発って、川の中に沿ったような処を48丁ばかり行く。難路であるが、回りの景色は見

たことがない奇山や風景で楽しめる。湯治場は、何処も皆道が険しい。昼前に有馬について、

奥防へ宿を取り、5回ほど入浴する。

夕方鼓の滝を見る。

 7月11日 晴 兵庫宿

 有馬は有名な湯治場で、家の数が四五百もあるという栄えているところである。

朝二度入浴してから発つ。

六甲山を越えて行くが、高く険しい。途中案内(板)があり、数十カ国を見ることが出来る山

だという。景色も又良い。

下りの10分の7位のところで、水車のついた家が数十軒あり、水の勢いも良く水車が早く回っ

ている。灘の酒造りのためのものだという。

生田明神を拝し、湊川の楠公の墓を詣で、兵庫に宿す。

 7月12日 一日中風強く曇り 高砂宿

 兵庫を発って築島を見て、平清盛の墓を訪ね平敦盛の墓へ詣で、一ノ谷を通り、舞子の浜を

通る。明石に行き平忠度の墓を見て、人丸の社(神社か?)に登る。

城の堀際まで降りると、淡路島が前に見え、望遠鏡が無くても家並みまで見える。淡路島の大

きいことは、思っていた以上である。

明石より浜辺へ出て、手沈松を見て、尾上の松と鐘を見て、高砂に行く。

 継之助は、合戦場や歴史上の人物の墓などは、興味を持って色々見学しています。

それらの人から学ぶという面もあったのでしょう。

 7月13日 晴 正条宿

 高砂は姫路領で、家の数も多く、船着き場もあるため賑やかである。船着き場の様子を見て、

曽根の天神を拝し、松を見る。その古いのは実に神代のものかと思われる。播州は実に松の名

所である。名のある松は言うまでも無く、その他の松林も実に綺麗である。

そこから姫路に行く。遙かに城の天守を見る。城下は随分良いところで、摂津や播州は石の産

地か、石橋の綺麗なものが多くある。書写山を右に見て山へ登る。

宿の部屋では、故郷を思い出して、磁石で方角を見て、遙か北を拝すると、山の上の月が照ら

したので、ふと歌を口ずさんだ。

 ふるさとの こし地は遠し はりま山

   すめる月こそ かはらざりけれ

 継之助も、長岡で見るのと同じ美しい月明かりのする座敷で、ふと故郷が恋しくなったので

しょうね。


 7月14日 晴 片上宿

 正条を発って赤穂へ回る。赤穂の手前2里ばかりの処に坂があり、下りかかると遙かに城が

見え、その後ろには海や船の帆も見えて眺めがよい。元禄の赤穂事件のことを思い出して、事

件を知らせる使者がこの坂へ来た時は、この景色を見てようやく赤穂へ着いたと悲しみの中に

も、少しほっとしたのでは思われる。

城下に義士の寺があり、寺の横には浅野長矩公の墓を始め、47士の墓がある。

 ここから塩場(塩田)へ行くが盛んである。焼き所に入って釜を見ると、深さ5寸、横6尺縦

9尺の石釜である。

 その他塩の製造には興味があったようで、従事する人の働き具合や一日の製造量や塩の値段

等を見たり聞いたりしています。賃金についても、焼き場・砂を干して水をかける・砂を寄せ

る人等あって、その職種によって賃金が異なっている

等詳細に見ています。継之助が、経済的な視点が優れていることを伺わせます。

 赤穂を出て備前路へ入る。険しい道であるが、山間の中へ堤が数多くあり、わずかな土地も

田圃になっている。稲が良くできていて豊作である。田に石垣があり、地元では獅子垣と言っ

ている。段々畑のようにして、田圃を造っていたのでしょう。

 7月15日 晴 妹瀬宿

 伊部を通ったときに「備前焼」の品物を出している店を冷やかした。

岡山に達す。岡山は開けているが山が思いの外多い。

水の引き方は十分に工夫されており、干ばつの心配は無いようである。川の水を田へ引くのに

も、板と竹の輪で工夫してある。

水利の行き届いているのは熊沢蕃山の遺徳と思われる。稲はいずれも良くできていて、しかも

その後には菜種か麦を植える。

以前、伊勢にて聞いたところでは、一反にて米も7俵も採れ、その後で麦も5〜6表も出来る。

そうであれば値段も下がるだろうが出荷先をよく考えているためか、総じて高値である。岡山

まで来る間に、百姓家で休み、米の値段のことや暮らし向きのことを聞く。暮らし向きはよい

はずと思うのだが、貧しいのは、殿様・家中の政治の仕方が悪いと思われる。4年ほど前には

地震のためか、藩札が10分の1になり皆困ったそうである。

岡山の町はさすがに大きい。四国には毎日船が出て、大阪には一と六の日に船が出る。

昨年来コロリがはやり、大阪はじめ姫路・岡山・倉敷までも死んだ人が多い。このような病気

の流行しているところを、わざわざ行くことはないので、讃岐に渡る予定で、妹瀬に宿す。

 716日 大雨時々晴 松山宿

 前日に書いたように讃岐に渡るためにここへ来たのだが、朝大雨が降って悪気を洗い流した

ように思われた。また備中松山は山の中にあってかえって悪疫も無いようなので、先に松山へ

行って讃岐は帰りに寄ることにした。

妹尾より右に吉備の神社を見て、板倉へ出る。板倉より松山道であるが、城下まで8里ほどで

あるが、2里ばかりは平坦であるが、後はみな山道である。途中の休み処で藩札の話が出たが、

松山は信用が一番であるという。ある時に、松山の5匁の藩札が信用無く流通にされにくい時

があったが、その際には日にちを限って持参の札を引き替えて、皆の前でその引き替えた5匁

札を燃やしてしまった。

皆感心して札を信用することになった。

その他にも、文武を励まぬものは山へ上げて屯田をさせると言う等、他国の者まで松山藩の善

政の話をする。松山まで来た甲斐があったと思った。

 松山までは山の中であるが、稲は良く出来、竹も諸処にある。お盆のことでもあるので道中

の宿は迷惑だろうと思うので、夜ではあるが松山まで行く。

昼過ぎは大雷雨だったが、夜は晴れて月も冴え左右絶壁の中の正面にある山の上の月明かりは

清流を照らし、絶景である。

夜8時頃松山へ着き泊まる。思っていたとおり、コロリの流行病はこちらでは無かった。

 司馬氏の「峠」では、松山では旅籠を一軒一軒訪ねたが、お盆の期間中で何処も満員だった

と書いてあります。近在の村々から城下のお盆を楽しむために泊まりがけでやって来るのだろ

うと書いてありますが、松山藩の善政のおかげで、豊かだと言っているのでしょう。

 備中松山城は現存する12天守閣のうちの一つでありまた唯一の山城(3大山城のひとつ)で

もあります。また、城のある高梁市は城下町が良く保存されているところでもあるそうです。

私は、まだ行ったことはありませんが、その内に訪れてみたいと思っています。

伯備線の備中高梁駅から3つ目の駅が方谷駅だそうです。司馬氏の「峠」では、人名を駅名に

する例はここだけだと紹介していますが、「河井継之助の真実」(外川淳著 東洋経済新報社

刊)では、JR鶴見線の浅野駅や智頭急行線の宮本武蔵駅等人名を冠した駅は何例かあるが、方

谷駅のように下の方の名前では類例がないそうです。この駅名は地元住民の熱心な陳情による

ものだそうです。

 山田方谷は豪農の生まれで、河井継之助より22才年上で、この時55才になっています。この

頃方谷は、藩政改革の一環として武士の帰農を進めていますが、それに伴い自らも、城下の屋

敷を引き払い長瀬に移り開墾事業を推進しています。

その長瀬の屋敷跡が、現在の方谷駅になっているそうです。

 7月17日 晴 山田方谷宅宿

 松山から3里ほど川に沿って奥に進んで、昼頃山田方谷宅へ着く。

途中の道には、開墾中の土地が見られた。昨年こちらに引っ越してきたばかりで、家の大工工

事もまだ終わっていないところがある。

先生は間もなく見えて、色々話がありましたが、自分の胸の中で思っているところを話して頼

んだところ、良く聞いてくれて、この分なら留学の願いは受けてくれるだろうと思った。随分

親切に話をされ、夜は先生の家に泊まった。

 山田方谷とその日に話したことは、

佐久間象山に温・良・恭・謙・譲のうちどれか一つでもあるのかとの論、封建の世では、(見

いだされて)人に使われることが出来なければ、志も実現できない、一村に一丁づつの新規開

墾を実現しようとしている

と書き、さらに山田方谷が主君から(安政の大獄の処分?を)尋ねられた書簡のやり取りの文

書まで内々に見せてもらっています。 

 佐久間象山の話といい君主に使われる為には、の話を、山田方谷があえてしたのは、河井継

之助にもそういうところがありそうだと感じたためでしょうか?  

 7月18日 晴 松山花屋宿

 午前中は先生と話をする。まず一端城下に引き取って、20日に先生が松山へ行くので、その

際に留学のこと等話すといわれたので、昼過ぎに松山へ帰る。先生よりの書を持って、進昌一

郎のところへ行き、文武宿「花屋」へ宿を取る。宿には先に会津藩士の土屋鉄之助が泊まって

いた。また松代藩士でホラ貝・太鼓・采配を持った男も後から来て泊まった。夜は、進昌一郎

も来て土屋鉄之助等と話す。

 会津藩士の土屋鉄之助はどういう人だったのでしょうか?

 7月19日 晴 花屋宿

 朝、土屋・稲葉隼人(松代藩士)と話す。稲葉は取るに足らない人であるが、ホラ貝の方は

非常な腕をしている。昼過ぎに、案内をしてもらい学問所へ土屋氏と共に行く。大勢が座って

いる中で、色々な話をする。夕方宿に帰り、夜は同宿3人と話す。

 720日 昼晴夜雨 花屋宿

 昼前に山田先生の出先の家に招かれて、土屋氏と共に行く。進昌一郎と神戸謙次郎も来て話

をする。

土屋氏は諸藩を訪ね、学校の様子や、沢山の人に会っていて、色々めずらしい話も聞けた。淡

路の兵士、オロシヤの船に乗った話し、小浦惣内の話し(?)、水戸の話、姫路の学校の話し

等面白い話が数々あった。

10時頃帰宿。

 土屋鉄之助は、色々なところへ訪ね歩いているようですので、貴世さんが#6839で

書いてあるように、会津藩の公費で旅行したのでしょう。

また、師の山田方谷氏のことを書く際に、河井継之助は前日までには、単に「山田」

と書いていますが、この日は「山田先生」となっています。以後では「山田先生」の

方が多いような気がします。色々な話を聞くにつけても、師として教えを請うに相応

しいと思ったのでしょう。

 7月21日 晴 花屋宿

 朝、土屋氏と稲葉氏は出発した。

約束なので山田先生のところへ行ったが、今日(藩)に留学の許可の願いを出す予定だが時間

がかかるので、それまでは宿に逗留するようにいわれる。

昼過ぎにまた山田先生のところへ行き、色々話す。

頼母子講の話が出たが、武士は武士、百姓は百姓、町人は町人、それぞれの仲間の他は堅く停

止しているが、改革の一つであるという。

 夕刻より、進昌一郎宅へ招かれ、山田先生と行き、色々話を聞いた。

当町には学問所があるが、町人もそこで会読輪講を受けている。第一山田先生からして百姓の

出身であり、弟子の、林富太郎は玉島の商人、進昌一郎は庄屋より油屋へ養子、三島貞一郎は

他領の庄屋の子である。

進昌一郎のところでも、百姓の子で12才で「八大家文」を読めるまでになっている者がいる。

教育のやり方は、感心するところがある。夜10時頃、宿に帰る。

 財政と文武と富国強兵であるが、山田先生の話では、財政に係わると文武が廃れてしまう。

倹約も良いが、文武が振るわなくなってしまってはいけない。上杉(米沢藩)は、そうなって

しまっていないのか?

 後年、河井継之助は米沢の上杉藩をあまり期待してないような気がしますが、この辺の話し

も影響しているのでしょうか?

 8月3日 晴 水車宿

 夕方「水車」(藩侯板倉氏の別邸)へ移る。それまでは花屋へ逗留。

夜、進昌一郎が来る。

 ようやく藩庁から、許可が出たので「水車」に移ったのですが、この「水車」は山田方谷が

長瀬から月に3度くらい城下へ出仕してくるときに数日泊まるところでもあります。継之助は、

山田方谷が長瀬にいる間は「水車」から長瀬に泊まりに行っていたようです。

また、7月28日から8月1日までは、会津藩士秋月悌次郎と会っていました。秋月とはお互いに

気が合ったと思いますが、塵壺(抄)の松山には何も書いていないようです。

 塵壺(抄)は実際の塵壺を省略して書いてありますので、どうも塵壺には秋月悌次郎のこと

が書いてあるようです。

そこで、もう一度お断りしていますが、私は雑談河井継之助の西遊については、「河井継之助」

(安藤英男著 新人物往来社刊 昭和51年第2刷発行)巻末にある塵壺(抄)に基
づいて書いて

います。これは(抄)となっていますので、省略している部分もあるようです。

ですから、日にちはあくまで、巻末の塵壺(抄)に載っている日だけを書いています。

なにせ、塵壺を読んだこともないのに書いていますので、ご了解下さい。m(..)m 

 8月16日 晴のち雨又晴れ 山田先生宅宿

 明け方より藩士7・8人、豪商2人と山田先生のお宅へ行き、そこから船で不動滝という処ま

で行く。奇岸絶壁は言葉で言い表しにくい。川は小さいが急流であるので、船頭の心労や働き

には感心した。このような急流は、初めて(船に)乗った。

又先生の処へ戻るが、私以外の人は夜になって松山へ帰って行った。

 8月17日 晴 山田先生宅宿

 夜は澄み切った満月であり、その月のもとで先生の話を聞く。

 

 山田方谷との、良い関係が分かるような書き方です。(^-^)

若いときに、さんざん教師を手こずらせた人とは思えないです。

 823日 一日雨 水車宿

 山田先生も水車へ逗留。この日、山田先生が江戸出府の藩命を受ける。

 9月9日 雨 先生逗留

 朝早く地震あり、夜明けに又地震があった。

山田先生の話として、改革は、古老は老いて死に、若年の者は成長し、15年位して始めて結

果が出る。急激に行おうとしても同僚の誹謗に会い、急には出来ないものである。そうだか

らといって最初から手を抜かないのは当然のことである。

これは、板倉公から松平定信公(板倉勝静は孫に当たる)の話しとして、聞いたことである。

また先生は、改革が10箇条あれば、し易いものより始め、段々に行って行くのがよいと言っ

ていた。

この夜、林にての話(?)。

 山田方谷は、9月20日頃江戸へ出府し往復約50日の予定であったので、河井継之助もこの

期間を利用して、さらに西へ行くことに決めます。9月18日に出発しますので、8月3日から

山田方谷に師事していますので、この間1月半です。

司馬氏の「峠」では、長崎へ行って世界の動向を察したい為であるとしています。

 9月17日 晴 花屋宿

 先生、朝8時前に「水車」を発って帰る。北海の小鯛という大きな鯛を下される。

先生を送って飛石まで行き、昼頃「水車」へ帰る。

これより掃除、あつらえものを終えて「花屋」へ来る。

 河井継之助も旅立ちの準備で、「水車」の身の回りの整理をしたのでしょう。

「花屋」は、松山で最初に泊まったところで、入門許可が下りて「水車」へ移るまで

半月ほど泊まっていたところです。「愛想河井継之助」(中島欣也著)によれば、文

武宿花屋といい、「文武宿」というのは松山へやって来る文武の修行者や藩政の視察

者などが泊まる宿だそうです。

 夜、進昌一郎、暇乞いに来る。扇子に詩を書いたものを、もらう。進昌一郎が帰っ

てから栄太郎(?)が来る。夜10時頃まで、話をしてから帰る。昼、三島貞一郎(中

洲)が来て、花屋に泊まる。

 いよいよ旅立ちになりますが、項を改めて書きます。

山田方谷の留守の間の旅行をするということは、山田方谷の日常を通してまだまだ学

ぶべきことがあると思っていたのでしょう。反対に山田方谷がいなければ、学ぶものがない

又は学び難いのでしょう。河井継之助は、どうも一から型にはまった教え方をされるのを好

まないようですから、この日常生活の中から自分で学びたいものを学ぶということが継之助

にとっても合っていたように思います。

必要なものは勝手に自分で学ぶ、必要でないものは教えてくれなくても良い、というところ

でしょうか。

 

 

3 山田方谷

今回は、山田方谷の河井継之助に関するエピソードを少しばかり書きます。

 山田方谷が幕府をどう見ていたかについては、面白い話があります。

安政の初年(1854年)、方谷が諸藩の人々と時勢を論じたときに幕府について、それを「衣」

にたとえて話しています。

「家康が材料を整え、秀忠が裁縫し、家光が初服した。以後は代々襲用したので、吉宗が一

たび洗濯し、松平定信が再び洗濯した。しかし以後、汚染と綻びが甚だしいので、新調しな

ければ用にたえない。」(「河井継之助」安藤英男著)。中で聞いていた一人が、それなら

もう一度(3度目の)洗濯したら良いだろうと言ったのに対して、方谷は、布質は既に破れ、

もはや針線にも耐え得ないであろうと答えたと言います。

1854年といえばペリーの再来の時ですが、その時既に徳川幕府は、そう長くないことを予見

していたことになります。

河井継之助も山田方谷から、同じ様な話はきっと聞いたことでしょう。また弟子の人たちと、

徳川幕府について話し合ったこともあるだろうと思われます。

 山田方谷が行った藩政改革の基本は、「河井継之助の生涯」(安藤英男著)によれば、次

の6項目だとされます。

1 上下節約

2 負債整理

3 産業振興

4 紙幣刷新

5 士民撫育

6 文武奨励

 当時ほとんどの藩は、財政悪化に悩んでいたようです。そのため、上記の藩政改革の内1

〜4までは財政再建そのものと言えるでしょう。

山田方谷は、まだ遊学中の書生の時に、「理財を論ず」とした論文で、財政再建の対策を起

草しています。後年その対策を自ら実践して、成功を収めています。

河井継之助は、その方谷のやり方を実地に見て学んだのでしょう。長岡での継之助が行った

藩政改革は、ある意味では山田方谷の松山での藩政改革の真似であったともいえるでしょう。

 継之助が山田方谷のもとを去って2年後に、江戸勤務を命じられた方谷が江戸へ出て来ま

す。継之助の義兄(妻おすがの実兄)梛野嘉兵衛は、継之助が世話になったお礼のために一

席を設けて方谷をもてなします。その際に、継之助から聞いた松山藩の藩政について色々話

すのを聞いて、方谷は大変驚いたそうです。

継之助が知っているはずのない事柄が、次々に出てきたからです。藩政のことですから、あ

えて教えていないことや、藩内でも秘密にしていたことまでが継之助には分かっていたよう

です。山田方谷は、そんなことまで知っていたのに驚くと「河井の才じゃ」と呻いたそうで

す(この場には、河井継之助もいて、自分で話したとしているものもあります。)。

河井継之助の洞察力の深さを、伺える話です。

 河井継之助が旅行へ出発した直ぐ後に、山田方谷は江戸へ向かいます。

山田方谷の江戸行きの理由ですが、安政の大獄と関係があります。当時備中松山藩の藩主板

倉勝静は、寺社奉行を罷免させられています。

井伊直弼の行った弾圧政策(安政の大獄)に対して、山田方谷の意見に基づき、断罪は一、

二に止め、その他は不問にすべきであると申し入れたのが、大老の不興を買ったためです。

板倉勝静は方谷へ手紙を書き、大いに時勢を嘆いたといわれます。これに対して方谷は、

「進退は義を以てすべきもの。大老に意見した以上は、用いられるか、そうでないかは、拘

るべきではない」と言ったといわれています。

「進退は義を以てすべきもの」は、後年継之助が薩長と戦うときのキーワードになったよう

に思います。

鳥羽伏見の戦いの後の1868年3月、江戸の長岡藩邸を処分して海路長岡へ発つ直前に、長岡

の分家の小諸藩の江戸詰重臣を呼んで、今後の小諸藩の採るべき道について言った言葉があ

ります。

「今や世情紛々、情偽図りがたいが、願わくは大儀に依って事に処せられよ。大義親を滅す

を忘れないように。」と言っています。

この場合、大儀は朝廷、親は長岡藩のことを指すそうで、暗に小諸藩は大勢(朝廷)に順応

するように言ったとされています。しかしその裏側には、長岡藩は義を以て行動するので、

あるいは薩長と戦うかもしれないと言っている訳でもあります。そうすれば、長岡藩は滅ぶ

かもしれない。しかし牧野家(長岡藩)の血筋は、何とか残したいという気持ちを伝えたこ

とになります。 

 後年、山田方谷が河井継之助が亡くなったことを聞いたときの話は、「河井継之助の生涯」

(安藤英男著)から引用します。

 のちに戊辰役で継之助が戦没したことを聞いた方谷は、自分のもとで陽明学を学んだこと

と関連があるのではないかと、沈痛な面持ちであったという。門下生が、このことを尋ねる

と、「お前の考えはどうか」と反問するばかりであった。

しかし、その後長岡の藩情と、開戦のやむを得なかった事情を詳細に知って、ようやく安堵

の色があったという(P103)。

 ここでの山田方谷の判断基準は、前回書いたこと、すなわち「進退は義を以てすべきもの」

であったはずです。戦えば悲惨な戦争になり、その結果人々が苦しむことは分かっていたは

ずです。また、武士が亡くなるのも、そう先のことではないと理解していた継之助です。

そうであればこそ、方谷は「どうして戦ったのか?」が、疑問であったのでしょう。しかし

ながら、開戦の事情が分かれば、その方谷としても理解できたのです。

ちなみに備中松山藩は、藩主不在の山田方谷のもとで西軍には開城しています。

 今回は山田方谷の弟子の三島貞一郎(中洲)の話です。

河井継之助が備中松山へ居る頃、三島貞一郎とはよく会っています。当時三島は継之助より

も3才年下で年齢も近いということもあり、お互いに気があったようで交友を深めています。

JR伯備線の「方谷駅」が地元住民の陳情により決まるときに、山田方谷は知られていなかっ

たが、あの偉い三島中洲の先生だからということで、決まったといわれます。

 三島貞一郎は伊勢で斉藤拙堂に学んでいます。河井継之助も、江戸で斉藤拙堂に学んでい

ますので、二人とも斉藤拙堂門下ということになります。今回の旅の途中にも、伊勢の斉藤

拙堂の処に寄ってきていますね。

三島貞一郎は、長州の吉田松陰とも面識がありました。河井継之助も吉田松陰の話を、三島

から色々聞いたと思われます。

そのためでしょう。河井継之助は長岡藩へ戻ってから、松陰の遺文集「二十一回孟子遺文」

を書写しています。この松陰の遺文集がどういうことを書いてあるのかは全く知りませんが、

継之助も松陰の考えや行動には、惹かれるところがあったのでしょう。 



4 九州遊学

 河井継之助は、山田方谷が江戸へ行っている間に、九州まで旅行しますが、それを書きま

す。例によって、「河井継之助」安藤英男著の塵壺(抄)に基づいて書いていきます。

 918日 曇小雨時々 玉島宿

 朝、進氏より詩を書き直したものを頂く。8時頃「花屋」を発つ。川に沿って出て、みな

ぎより川を渡って山へ掛かってから、久々に広々とした処へ出た。備中松山の四方山で狭い

ところに居たためか、面白く感じる。

山陽道の本道へ出てから、2里ばかり入って玉島へ着く。林氏を訪ね、夕食をいただく。娘

の琴を聞く。林氏の弟の源三郎が来る。

小島屋へ宿す。この夜、天気が悪く船が出ないためである。

 林氏とあるのは、方谷の弟子で玉島に住む商人ですので、前もって寄ることは連絡してい

たのでしょう。

 9月19日 晴 逗留

 円通寺へ行く。禅寺にて、庭に大石や古松があり、遠くは讃洲の山々、近くは瀬戸内の小

島が見え、嘗て見た富士のように景色がすばらしい。

12時頃に船が出た。少し眠ろうと思ったが、早くも丸亀に着く。10里の海路も随分早く着

くので、感心した。丸亀の船宿に入ったが、ご飯の準備もないようなので、支度して直ちに

出かける。

 円通寺は今の倉敷市にあり、かつて越後の僧良寛が20年も修行していたところです。

 9月20日 晴

 朝早いので月があるが、港の様子が分からない。城を左にして金比羅に向かう。

この辺りは土地も開けている。左に讃岐富士が小さいが形は良い。その他にも形の良い小さ

な山が、数多くある。砂糖が道の両側に植えられているが、黍に似ていると聞いたが、スス

キの穂のようである。茎を採って砂糖を造るという。金比羅の手前5・6町のところでようや

く日が出てくる。さすがに街道も広く、所々に堂や茶を沸かす処がある。町の入り口に川が

あり、屋根の着いた橋が架かっている。色々見物して、坂の下の「とら屋」という宿に入り、

朝食を食べる。宿の広さや、造りや庭はすばらしいが、食事は至って悪い。

 宿に荷物を預け、山に参詣する。本堂は実に立派で、紺青の画、柱の朱塗り等見事である。

眼下に町を見る、下からは8町ばかりの山である。生い茂っている木は、大部分は樫の木で

あるが、椋の木もあり初めて見る。

 下りて宿により、直ちに多度津へ出る。

途中善通寺へ寄るが、名前だけで良くない。多度津は、城下でかつ船着き場なので賑やかで

ある。昼頃船宿にて食事をして、船宿の指示で直ぐに船に乗り込んだが、船が出たのは夜に

なってからであった。その間中、賭博をしているのがいてうるさかった。

 前夜に続いて、今夜も船中泊ですが、河井継之助は体力がありますね、本当に。

 

 9月23日 晴 四日市宿

 昨夜は夜半過ぎより雨強く、心配したが今朝は晴で、本郷を発ち山へ掛かる。

芸洲領は道に松の並木があり道は整備されているが、往来がさみしく山道故、退屈である。

自分の身なりがあまりに身軽の支度なのであろうか、三原より広島への飛脚かと尋ねるも

のがいた。

 飛脚に間違えられるのですから、武士らしくないカッコもそうでしょうが、健脚らしく

見えたのでしょう。

 9月24日 晴 これより後は黒崎にて記す

 四日市を発ちて、長山、原を通って午後4時頃広島へ着いて、所々見物する。

御笹川という川があって、城の左右に堀のように回して、城際まで船も入る。城や市は広

くて賑やかであるが、綺麗ではない。城の外郭等もはなはだ手入れがなされていない。広

島は領地も広大で、町は人口も驚くほど多く繁華であるが、豊かではない。国の貧富は、

実に政治によるものであろう。

 夜、宮島へ渡るために船に乗ったが、潮が満ちないので12時頃まで船を出さない。よう

やく出しそうになったが、又砂につかえて動かない。乗客と共に陸へ上がって(船を軽く

して浮かびやすくするため)しばらく歩いたが、やはり動かない。乗客の中には、横着者

が多くて陸へ上がらない者も多かったが、自分が皆を先導して全員船から降ろした。しか

しそのかいも無く、潮はますます引いてしまった。乗客も迷惑、船頭も骨折り損であった。

仕方なく小舟を雇い草津と言うところへ着いたが、もう夜も明けてしまった。寒くもあり、

また眠ることもできないで、今宵は馬鹿馬鹿しい目にあってしまった。



 9月25日 晴

 小舟より草津船に移ると、間もなく船が浮かび厳島を指して行く。天気は良く、島々の

好景色を眺めると、昨夜の不快も吹き飛んでしまう。間もなく厳島へ着く。

宮島には、富くじがあり年に6回開催される。朝食を食べに入った宿では、富くじに当た

った者の名前を書いて貼ってあった。一緒に宿へ行った者の中にも、富札を6・7枚持って

いる者もいた。1枚当たると2朱で買った札が、2両や3両、時には百両あまりにもなる

という。宮島は、この富札で成り立っているということであるが、感心したものではない。

 継之助は、以前にもバクチをやる人がうるさい等と書いていますが、バクチや富くじの

ようなものは、やるべきではないと考えていたようです。後年長岡藩では、バクチ禁止令

を出します。

 朝食を食べて、直ちに見物に行く。案内人を進められたが、以前奥州旅行で金華山へ行

ったときの案内人に呆れたことがあるので、断った。

弥山(海抜530メートル)へ登ると、この島一番の山であるので、四方の見晴らしが良く、

中国・四国・九州の山かと思う遠くの山まで見える。頂上は大きな石が多く大変険しい。

 山を下り、厳島神社を見学する。本堂の額は古画が多くあるが、すすけており惜しい。

堂の広く大きなことやその造り方は目を驚かすほどである。千畳敷といって小高き山に堂

がある。これも又大きいものである。

鹿が多く、家の数も多いが、土地は狭い。戦国時代に陶晴腎がここで戦って破れたのも、

もっともなことである。

 夜になり船を出し、朝方周防の新湊に着く。

 以前に見た桶狭間の合戦場跡もそうですが、今回も厳島の合戦跡などは、戦の様子を想

像しながら見学しているようです。

しかし、また今夜も船中泊ですから、継之助の体力は凄いようで、日中の見学に何の支障

もないようです。

 9月26日 晴 呼坂宿

 岩国の城下に着く。領内の家や城下の家の様子は、いかにも豊かである。土着している

武士(土地を耕しているのでしょうか?)も多くあるという。

法は厳しく、人々は驕らず、人柄も穏やかに見える。場所は近いが宮島とは偉い違いであ

る。賭博や米相場については、厳しく取り締まっている。現に米相場で2・3人牢屋へ入っ

ているとのことである。武士は少し貧しくなれば、土地を耕して勝手向きを助ける。

錦帯橋は城の大手にあり、聞いていた以上に趣がある。錦帯橋を見学しているときに、剣

術の道具を持って往来する人を多く見た。木綿縮み、松金油の大きな店が数多くあり、名

産である。

岩国の6万石は、陪臣では過ぎたものであるが、吉川元春の功を考えれば、周防の国全部

でも足りるものではない。吉川元春の武功は、それほど大きいものである。

 9月29日 晴 長府宿

朝発って舟木を通る。ここは櫛が名物で石炭の産地でもある。朝鮮征伐の時に、この山の

木で船を造ったので、舟木という名前が付いたという話を聞いた。また赤間石硯も、この

辺りより出る。石工も数件ある。この辺りの宿は、いずれも良い、山が多くあるが開墾さ

れていて、人情も穏やかで、長州路は(政治が)良いように思える。

村々に高札があり、年貢は4割であり、不作であれば年貢の率を下げ、豊作であっても率

は上げないとある(安政3年春○○・・と昔の文体で書いてある)。こに高札の文は、帰

りでも写そうと思ったので記録しなかったが、今日写しておくべきであった。

賭博は厳禁であり、破ったものは島流しで、見ていた者も40・50日の牢屋入りであるとい

う。そのため近頃は賭博をする者はいないという。さすがに毛利氏の領土は、良く治めら

れていて、中国往来中では一番と思われる。賭博の禁止は、実に風俗の良し悪しに係わっ

てくるのだと思われる。

長府に宿す。この辺りの島々は皆、萩(毛利本家)の領地であり、広大である。

藩札の流通も、非常に上手くいっているようである。

 幕末の長州というと、そうせい公の毛利敬親の印象が強いためか、上下の秩序が無く乱

れているように思っていましたが、内政は非常に上手くいっていたようです。

そういう下地があったからこそ、奇兵隊などの諸隊が生まれ、そして活躍できたのでしょ

う。

 10月2日 晴 博多宿

 畦町を発ち、香椎宮の前を通る。道は黒田侯の往来になっているため、広く並木に松が

生い茂っている。筥崎八幡へ参詣する。社殿の造りは立派である。境内は海辺まで馬場の

ように伸びていてその先に鳥居がある。そこの海の砂は、病を治すといわれている。傍ら

の船見櫓に登って、しばらく見物する。志賀島という3里の松原が内海になり、その風景

は有名である。これより松原を通って博多へ宿を取る。

 博多は、福岡と城近くの橋で分かれているのみで、博多も城下町といえる。

見物に出かけ、城の外郭を入る。天神町と大名町の二つの町は、大きい家ばかりがあると

ころで、仙台の大名小路のようなものである。しばらく行くと、海辺の山上に東照神君の

社があるので、登って礼拝する。この山より城下が一目で見えるが、広大であり、風景も

良い。しばらく町を通り、宿へ帰る。城の濠へは海水が入っているようである。場所も良

く賑やかなのは、この旅行の九州では一番であろうか。

 人吉の同宿の藩士と一緒に夜出かけて、柳町という女郎町を見るが、店は僅か10件ばか

りしかないが、木戸があり厳重な管理をしている。上玉は奥にいるとしきりに勧められた

が、言い方が可笑しく大笑いした。

また、同宿に加賀の人がいたが、町人の格好をしているが、町人ではなさそうであった。

その人は日本中の諸藩の様子、家の数や産出するのもの等よく知っていて話をする。何者

かと思って尋ねると、葉商人でぶらぶら遊び歩いている等と言って答えなかった。以前に

加賀藩では、他国の観察者を出していると聞いたことがあるので、あるいはそうかと思っ

た。

 加賀藩のこの人物は、謎の人物のようですね。隠密ほどには秘密ではないが、藩命で他

国の情報を得ている人だったのでしょうか?

 10月4日 晴

 神崎というところで、値を付けたところ負けてくれたので蓑を買う。しかしながら、松

山へ帰るまで一度も使用しないでずっと背負っていた。馬鹿馬鹿しいと一人笑いをする。

 昼過ぎに、佐賀へ着く。城は町の西南に当たる。武士や町の人の家の造りは、綺麗であ

る。中国産のものを、取り扱っている店も多くある。少し寄り道して、兼ねて噂に聞く反

射炉を見る。中をみたいと思って、番所で頼むが色々手続きがあって、見ることが出来な

かった。外から見ると、高さは8・9間で鉄のタガがしてあり、石灰塗りで、水車にてキ

リを入れ、音がいつもうるさい。一本の軸に車が二つあり、軸は鉄であろうか、車の拵え

方などは丁寧である。通りには銃の台を造る店があり、数十挺のゲベール銃が並んで、職

人も数人いた。

うどん屋で休んで、亭主から色々話を聞く。さっき見た反射炉の大砲は、公儀の注文の品

であるという。佐賀は平野が広く、実に良いところで逗留したいと思った。

 これより町続きで本庄へ行く。船に乗るつもりが、出発は夜10時頃というので船宿で休

む。夕方何か音がするので表へ出てみると、先に見た反射炉で造った大砲を引いて行くと

ころであった。それに付いていったところ、川端の小屋に36ポンド、24ポンドの砲が合わ

せて7門あった。いずれも見事に出来ていた。感心してみていると、役人が咎め立てした

が、名前を名乗って感心したので拝見したいと答えゆっくり見物した。公儀の注文の大砲

で、江戸へ運ぶものである。船に積む準備が大変で、4・5百石の船に積むようだが、沖で

さらに大きい船に積み替えて、江戸まで運ぶことが出来るという。

 陸を行って大村もみたいと思うが、道も悪いので船で諫早へ行く。夜10時頃出発し、諫

早には朝8時過ぎに着く。船は小舟で数艘出発したが、中には丸木船もあった。

 継之助が買って使用しなかった蓑ですが、長岡の郷土資料館の河井継之助コーナ

ーに展示されているそうです(河井継之助の生涯 安藤英男著)。

大砲にはさすがに高い関心を示して熱心に見学していますし、反射炉は塵壺にスケッチま

でしています。

 10月5日 晴 長崎宿

 諫早は鍋島家の家老の城下で良きところであり。4日に同宿した佐賀人は、諫早の眼鏡

橋は日本一だと自慢したが、なるほどそうである。二年前に出来たそうである。石橋も色

々あるが、このようなものは見たことがない。これより段々山へ登る。

山上より望遠鏡で見ると、大村やその他も見える。遙かに遠くへ見えるのは、平戸であろ

うか。矢上の宿を通り抜けたところで、会津藩土屋鉄之助に会う。秋月悌次郎は長崎にい

るという。土屋は、親が亡くなったためであろうか、用事で急に帰るところである。しば

らく話をしてから、別れる。

矢上の先は、道がいよいよ険しく、月見峠は石ばかりで、佐賀まで平地が続いていたのと

は全然違う。峠よりは、温泉はもとより天草を前に見て、景色がよい。

山を下って、1里ほど行けばもう長崎で、午後5時頃着く。銀屋町の「万屋」へ宿を取る。

中国を渡ってから、この長崎街道は往来も大変賑やかである。

 街道を歩いていて、会津へ帰る土屋鉄之助に会ったのは、本当に偶然で良く会えたもの

だと思います。彼から、会津藩の秋月悌次郎も長崎へ来ているときいて喜んだでしょうね。

長崎では、秋月とも同宿しています。

 10月17日 曇 逗留(長崎滞在中のことをまとめて書いてあります)

 「万屋」では、長州舟木の人、二本松の画工、薩摩の人、肥後の人等色々な人が同宿し

た。

 同宿と書いていますので、これらの人とも色々な話をしたことでしょう。

 「山下屋」へ移ってからは秋月悌次郎と同宿する(同間ではない)。秋月は薩摩藩や諸

藩のことに詳しい。夜長崎の町を散歩して、商店の品物をあれこれ聞いたりした。何を見

ても面白いのは、長崎が商売交易の土地であるので、そうなってしまうようだ。中国人の

館やオランダ人の館を見ることや通訳と懇意になれたことは、皆秋月のおかげである。江

戸へ帰ったら、一杯ごちそうをしよう。

 中国や西洋の品物を扱う店は数多くある。筑前藩士がオランダ人を斬ったこともあった。

町にある橋は、石造りの眼鏡橋が多い。また、道に切石を敷いてあるところが多くある。

秋月と丸山へ見物へ行き、あちこち回り、山の上にて名月を見る。

 ある日、通訳の石崎方へ秋月と行く。庭は大きく綺麗であり、高いところにあるので座

敷より見た景色が綺麗である。朝10時頃より書画を見たが、夕方まで掛かっても見きれな

かった。ゆっくり楽しめば、1年でも飽きないだろう。中でも欲しいと思ったのは、建隆

帝の書である。林則除も良い。後日、他の中国の書画を見ても目移りはしないだろう。午

後2時に広東人の馮鏡如唐が尋ねてきたが、これは我々のために招待した人である。この

人はイギリス船に雇われて、日本に来た来た人である。秋月が彼に詩を作って贈ると、彼

は直ちに机に向かい、口の中で声を出して吟じ、直ちに書き付ける。午前2時過ぎまでそ

んなやり取りをしていたが、全然退屈そうな感じではなかった。別れて帰るときに、私が

提灯を持っていなかったので、しきりに送っていくと言ってくれたが、あえて遠慮したと

ころ、それでは丸山にでも行こうかと誘われた。お金があったなら、唐人と一緒に丸山へ

行き、女郎を買っても良かったのだが、無益と思ってそうしなかった。

 長崎の町は、商売交易の地なので何を見ても面白いというのは、結局は城下町と違って

自由に振る舞えることだったのではないでしょうか?

 石崎氏の家へ行き、そこから唐人の家へ行ったのでしょうか?中で見た品物の数から思

えば、石崎氏の家というよりも貿易に来ている中国人の館のようです。また、継之助も、

父の影響でしょうか書画を見る目はあったようです。一日見ても飽きないと言っています。

最後の丸山の話は、お金があったら余程行きたかったのでしょう。(^-^)

「後にて聞けば(誘った馮鏡如唐は)丸山へ行きし由」と書いています。無益と思ってそ

うしないと書いたのは、どうも悔し紛れの言葉のようです。

 「河井継之助」安藤英男著の塵壺(抄)には、10月17日の他に長崎の話は書いてありま

せん。しかし河井継之助関係の本には、他にも興味あることが出てありますので、それら

のことに簡単に触れてから、先に行きたいと思います。

 長崎では、幕府の軍艦奉行の矢田堀景蔵が、咸臨丸に乗って江戸から長崎までやって来

ていました。河井継之助は矢田堀は江戸の古賀塾で同門だったこともあり、3回に渡って

彼を訪ねて蒸気船を見せてもらっています。江戸から長崎までたった4日で着いたと聞い

て驚いています。そして、帰りには江戸まで乗せていって欲しいと頼んでいるようです。

これは実現しませんでしたが、西洋人や西洋の文明に対しては、当時珍しいほどアレルギ

ー等を持たず、旺盛な好奇心を示しています。西洋のことを学んでいない人としては、攘

夷が叫ばれている当時を考えると、実に驚くべきことのように思われます。

またイギリス軍艦の前を通ったときに、数十名の水兵がマストに登ったり、船腹を洗うキ

ビキビした動作に感心しています。

さらに幕府のこの度の、長崎への航路は、1804年のロシア使節が長崎へ来航したときの海

図に依って運航していると聞いて、日本の遅れを嘆いています。これなどは、継之助は蒸

気船というハード面だけでなく、航路というソフトにまで気が付いていてその重要性を認

識していたということになるでしょう。

 この長崎滞在中に、継之助は秋月から直言を受けている。強情で負けず嫌いの継之助が

それを認め、かたじけなく思っていることには驚かされる。二人は、よほど気が合った親

友というべきでしょう。継之助が長崎を発ったときには、秋月は唐八景の山の上まで送っ

てきて、卵と酒で送別しています。

 10月20日 朝晴 学領宿

 朝5時頃船出。雲仙や天草が見え景色は良い。しかし天気は荒れそうで、船出には悪そ

うである。船頭はこのような話を嫌うのだが、嵐が来そうだと言ったところ、船頭は返事

もしなかった。船も中古の物を買ったので、造りも悪いので気になった。

強い順風の中で凄い勢いで走っていったが、間もなく風が止み雲と霧が出てきた。船頭も

色々やったがなにぶん風のことで、上手くいかない。もう一人の船頭などは、今日は船を

出す天候ではなっかた等と言って、全く役に立たない。頑張っていた船頭もやむを得ず、

碇を降ろし帆をたたんだが、その内に船内にしきりに浸水してくるようになった。風もま

た段々強くなり、船が左右に傾くようになった。引き返すか、風に任せて肥後の方へいく

ほかないという。

同行の増子氏は、怖くて物も言えずにただお経を読んでいた。可笑しいと思ったが、こち

らも船酔いで難儀をしているので笑うこともできない。しかしながら、いざとなった場合

に働けるように、手足に気を使い横になった。しかし、君命とか父母の命とか戦とか、そ

の大儀(名分)があれば、いかなる暴風大波にも気持ちが目先の嵐に囚われずに済む。し

かしながら此の遊学は、個人の遊びでは無いものの公のものではないので、自然に心も不

安になってきて、腹や胸の具合も悪くなり、手足までも影響が出てきてしまう。

 海はややしばらくして船頭の言うとおり、風が変わって肥後の方へ向かって走る。

熊本の川筋は船着き場であるが、南風が強く入ることが出来ない。長い石垣の脇に着いた

のは、夜の9時少し前であるが、同行の増子氏は私を起こし、着いた着いたと頻りに喜ん

でいた。船が出たのも日が暮れたのも知らなかったので、よほど長く寝ていたのだろう。

着いた場所は肥後の新田で学領というところである。4人とも無事に着いて、良かった。

それから芋飯を炊き、皆で食べる。この晩は火を焚いて、皆休んだ。

 しかし、大儀でもって行動しているときには、どんな嵐でも肉体(体調)の具合は、精

神で克服できるとは・・・、これは凄いとしか言いようがないが、現代の私から見るとど

うしても眉につばを付けないと・・・・。(^_^; この辺りも、同時代の人からも嫌われ

るところなのでしょうか?

 10月21日 晴 熊本
 

 朝天気不順で風が止まず、その上潮は2、3丁も引いてしまい、船の下は水が無くなっ

てしまった。そのため今日は昼過ぎまで、船を出すことが出来ない。そのため、増子氏と

話し合い陸に上がって熊本まで歩くことにした。

ここの石垣の新開地はたいそうなもので、2段に畳み上げ、高さは2間半か3間にもなる。

ここの地名の「学領」という名前の由来を、船頭へ聞いたが知らなかった。後で聞けば、

学校(藩校)の費用を賄うために、開拓された新開地なので「学領」というのだそうであ

る。さすがは熊本である。

 昼過ぎに熊本城下へ入る。町中をかなりの距離を歩くと、城の脇の高台に社があったの

で、その下で昼食をとる。その後、城の西を通り真っ直ぐに清正公社へ行く。その道では

藩士に多く会った。毎日お参りする人も、何人もいるという。御百度参りをする人もいる

し、藩士の家内と見える人もいる。内院には、木の矢来があり、堂の前には石灯籠があり、

全てが見事であった。田舎の熊本でもこのように賑やかなので、江戸の地にあったら浅草

と比べられるくらいになるであろうか。

 この「学領」という新開地は、文化文政期から干拓され、天保期には96町歩

という広大なものになったそうです。また継之助が感心した高さが2間半以上の石垣は4

キロにも及ぶ丈夫なものであったが、昭和2年の大津波で、決壊してしまったそうです。

熊本に入ってからは、真っ直ぐに清正公の社へ行っていますので、清正公には感じるとこ

ろがあったのでしょう。 熊本では、加藤清正は現在でも、「せいしょうこうさま」と言

って大変人気があるそうです。

 10月22日 晴 

 木下犀潭宅へ行く。山田方谷の話を色々したところ、久しぶりに聞いて嬉しそうであっ

た。その後は、私のことを聞いた。家の中の様子を見ると、畳はもとより、衣服や木下犀

潭自身や家族も万事質素である。

秋月悌次郎や土屋鉄之助の話も出た。山田先生への手紙の返事をお願いしたところ、直ち

にその場で書き始めた。木下犀潭は温和で、丁寧であり儒学者らしくなく、初めて会った

ような気がしなかった。いかにも実学のような人のようで、100日や半年も一緒にいて学

んでみたいと思った。山田先生の息子の遊学を頼まれたことを私に話して、人の師のよう

にはいかないかもしれないが、子供の世話のつもりでやります。お子さんがお出でになれ

ば、出来るだけのことはするつもりであり、そのことは手紙にも書きましたので、よろし

くお伝え下さいとのことであった。その言葉は、謙譲で実のあるものであった。もっと長

く留まって、その場所の風俗や制度の様子や色々なことを聞きたいと、呉々も思った。塾

は、読書をしている声が盛んで、よほど人もいる様子で、数十人もいるようである。色々

な塾も見てきたが、家塾でこのように大勢の人が学んでいるのは、初めて見た。

 木下犀潭は農民出身であるが、山田方谷と同じに佐藤塾で学んでいます。山田方谷は子

息の栄太郎を、この木下犀潭の基で学ばせようとして、依頼の手紙を河井継之助に頼んだ

ものです。河井継之助は、この木下犀潭を非常に良く思ったようで、その基で学びたいと

いう気持ちになっています。しかし、木下犀潭が大変忙しそうなのと、お金のこともあり

諦めています。 

 10月29日 晴 船

 下関より船に乗る。江戸へ剣術修行に行く薩摩藩士が、朝鮮征伐から帰って来るときに

歌った歌を歌う。そして、私に豊後の刀を見せたが、見事な品物であった。この薩摩藩士

は、質朴で、優秀な戦士である。私が蘭画の話をしたところ、頻りに見せてくれと言うの

で見せた。

細川家の人や江戸、大坂、中国の人も数人、そうかと言えば27日には、船が出るまで女郎

2、3人も来ていた。大勢の人だったので、うるさいのみで面白い話しもないので、風景

を楽しむこと以外にはやることがない。その中に肥後で、俗謡が流行るのことの由来を話

すものがいた。

越前福井の医学生と豊後の出家は、私の名前を聞いてきた。

乗り合いの人数が少なければ、商人に面白そうな男がいたが、人数が多くてざわざわとし

て話もできない。

 継之助は熊本から帰路に入ります。小倉へ出て小倉からは船で鞆津へ行っています。こ

の旅行で薩摩と萩に行くことが出来なかったのは残念だったようです。もし行っていたら、

後年の小千谷会談はもっと違ったものになっていた可能性があります。

松山には11月3日に着いています。


 

5 江戸へ帰る

 「塵壺」は、河井継之助の唯一の著述で美濃紙121枚に気楽な気持ちで書いた日記です。

12月6日には、「他日ご両親へお話のつもりと思い付きし事を記すのみ」と書いていますので、

お金を出してくれた両親への土産話しという意味もあったのでしょう。

 備中松山に、山田方谷が江戸から帰ってきたのが11月28日頃です。継之助は再び方谷の基

で学びます。

そして翌年の春いよいよ江戸へ帰ることとします。

 帰るのに際して、山田方谷が愛蔵していた「王文成公全集」を4両で譲り受けています。

その際に方谷は、1700字にも及ぶ一文を河井継之助に与えています。

その内容の要点は、「河井継之助の生涯」には、「長岡の河井継之助氏を見ると、経世・済

民の志は堅く事業と政策に深い関心を抱いている。なので不用意にこの全集を譲ると、王陽

明の功業の跡のみを追い求めることになり、返って害を招く心配がある。そのために、王陽

明の事績を学ぶには、その事績の末に囚われずに本質をよくわきまえて、運用を誤らないよ

うにして欲しい。」となっています。

山田方谷も、河井継之助の妥協の無い性格等を見ていささか危ういところがあり、かなり心

配だったのでしょう。

 松山を発ったのは、1860年の3月頃といわれています。司馬氏の「峠」では、1860年の正

月となっています。

 さて方谷との別れの日です。

方谷と門下生の見送る中、継之助が高梁川を船で渡ります。この日の継之助の持ち物の中に

は、例の「王文成公全集」と方谷から贈られた「長生薬」一包みがあります。河井継之助が、

川を渡って少しいったところで振り返ると、師の方谷はまだ対岸で見送っています。継之助

は笠を取り、その場に正座してお辞儀をしました。そして、また少し歩いては、そうし、こ

れを幾度か繰り返しました。

方谷の基で学んだ期間が、継之助にとって非常に充実したものだったからと、それに対する感

謝の気持ちが強かったからでしょう。山田方谷も、河井継之助が遠くで小さくなるまで見送っ

ていたのですから、心の通い合った良い師弟関係だったのでしょう。

 後年方谷は次の歌を残しています。

題「河井家より蒼龍窟の碑文を頼まれし時」

  碑文(いしぶみ)を 書くもはづかし 死に後れ

 山田方谷が、河井継之助の死をいかに悲しんだのかが、伝わってくるようです。

 さて、この3月7日付けで江戸にいる梛野嘉兵衛(継之助の妻の兄)へ書いた手紙がありま

す。これは、梛野氏が継之助に天下の情勢を尋ねてきたものの返事のようです。3月7日です

から、山田方谷のもとを去る時になりますので、ちょうどこの頃に、書いたことになります。

手紙の要旨を「愛想河井継之助」(中島欣也著)から書きます。

1 天下の形勢は早晩大変動が起こる。攘夷等は馬鹿馬鹿しいこと言うまでもない。海防も大

 事だが、隣国との交際はなお大事である。

2 朝廷と幕府の関係は心配でならない。薩長などが、その間に入って私心で朝幕の関係を乱

 しているので、軽率の処置はしないように。

3 外国との交際は免れない。今は心を一つにして、富国強兵が必要なときである。現在の政

 治が永続するように思うことは愚かなことである。

4 長岡は、現在は実力を養うときである。大勢を予測して大事を誤らないようにするしか策

 はない。

5 どうせ後10年も経てば、洋風・洋式は当然のことになるだろうから、藩内の若者などには、

 良く教え諭していただきたい。

 この3月には、3日に桜田門外の変があり、井伊直弼が水戸藩の浪士により殺されています。

しかし河井継之助がこの手紙を書くときには、その変事はまだ知らなかったはずです。

時勢を見る目が、実に的確であったと感心します。

 なお、この手紙の日付ですが、「河井継之助の生涯」(安藤英男著)では、同年の4月7日

となっています。同じ安藤氏の「河井継之助」、「愛想河井継之助」「河井継之助」(星亮一著)

では、3月になっていますので、3月7日として書きました。 

 継之助は、江戸へ戻ると再び久敬舎に入塾します。司馬氏の「峠」では、鈴木少年から、再

び久敬舎へ来た理由を尋ねられと「ひとつは女、もうひとつは人である」と答えています。

「人」というのは、当時の学塾には、諸藩の一流の人物が尋ねてくるので、自然に耳と目が肥

えると言っています。

 おそらくこの頃に、横浜へ行き、そこに住んでいた外国人のスネル兄弟やスイス人のファブ

ル・ブラントと親交があったようです。

掛川藩士の福島住弌氏が晩年に物語ったところでは、ファブル・ブラントの店へ度々行った際

に、主人のファブル・ブラントと大変に親しそうな日本人がいたので、ある時に名乗り会った

らそれが、河井継之助であった。ブラントは河井継之助のことを「私を保護して下さるお方です」

と、大変に丁寧に接していたそうです。後年、河井継之助と言えば、真っ先に想像されるガッ

トリング砲ですが、このファブル・ブラントより購入しています。また、長岡藩の軍政改革で

の元込め式の西洋銃は、ヘンリー・スネルより購入したものと思われます。

継之助は、ファブル・ブラントの店には寝泊まりしていたのですから、そこで外国の話を色々

聞いたことでしょう。藩命とか外国語や西洋医学等を学ぶ学生等ではなく、個人の意志で外国

人と色々交流が持てるということは、身分などに囚われずにきわめて合理的な考えを持ってい

たからでしょう。そのことが、彼らから信頼されていた原因でもあったのでしょう。

 前回、継之助がファブル・ブラントの商館で居候をしたことを、1860年の事として書きました

が、この年月日については必ずしも確かではないようです。

「愛想河井継之助」(中島欣也著)では、スネルと知り合ったのはこの時期だろうとしてありま

す。理由としては、継之助が江戸にいた中で比較的自由だったことと、長崎に行って西洋人への

目を開いてきたことをあげています。スネルの方は、この時期に横浜へ居たのは間違いがないの

ですが、ファブル・ブラントの方は、まだ日本に来ていないようなのです。

「河井継之助の真実」(外川淳著・東洋経済新報社)と「愛想河井継之助」では、ファブル・ブ

ラントは1862年にスイス公使に従って来日していると書いてあります。そうしますと、この時期

には横浜でスネルと知り合い、親しくなり、後年ファブル・ブラントが来日したときには、スネ

ルから紹介して貰ったことになるでしょうか。

ただ、1863年となると、河井継之助も忙しくなってきており、掛川藩士の福島住弌氏の話のよう

に、ファブル・ブラントの食客となり、夜回りをして拍子木を叩くような余裕があったのかどう

か・・・・・。

 

 河井継之助は、1860年の夏頃に長岡に帰ります。

司馬氏の「峠」では、妻のおすがを連れて芸者遊びをしたりして、平穏な日を送っています。妹

のお八寸との会話では、自分には下級官僚の才はない、適しているのは家老だ等と言って、いず

れ必要となるときまでは、本でも読んでぶらぶらしているしかないと言っています。

この時、継之助34才の働き盛りです。この34才の夏より、36才の秋まで約2年間、長岡にいます。

この間、色々な事件がありますが、長岡藩は彼を必要とはしませんでした。

 「越後長岡藩の悲劇」(磯部定治著・新潟日報事業社)は、北越戦争の際に河井継之助と対立

した長岡藩の和平派の立場から書かれたものですが、その中で河井継之助の人物について、以下

のように書いてあります。反対派から見た継之助像と言えるでしょう。

河井継之助と家が隣にあった藤野友三郎の言葉として、

一 衆人とかけ離れた大志を抱き、何事にも拘束されずに、人に屈せぬ強い心は衆に抜きん出て

 おり、最も議論に優れていた。

一 妬み深くむごく、自分に勝つものを嫌い、ために学友で彼と交際を絶つ者が多かった。

一 どこまでも自分の考えを押し通し、道理に逆らって人の判断を聞かない。

一 規則実行には非常にむごく、無能者を退け有能者を重用するに愛憎を以て行い、わがまま独
 断が多かった。

 こう書いてきますと、山田方谷が心配したことも、このようなことだったのではないかと思わ

れます。ただ継之助のために弁護すれば、山田方谷のように15年を目途とするようなゆっくりし

た改革は、時が許さなかったと言えるでしょう。

36才の河井継之助には、あと6年の時間しか残っていないのです。

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