第三部 藩政改革時代          

 

1 公用人

 

 1862年閏8月、会津藩が京都守護職に任ぜられますが、同じ頃に長岡藩も京都所司代に任ぜら

れます。京都に着任したのは、長岡藩が同年の9月、会津藩は12月です。

当時の京都は、朝廷を長州と土佐がリードしていて、尊皇攘夷の過激派の志士が大手を振って歩

いている時でした。土佐藩では、土佐勤王党の武市半平太が上京しています。彼らは、幕府に攘

夷の実行を迫るために勅使を派遣しようと画策し、ついに成功します。そして勅使出発の前日に

突然、所司代の長岡藩主牧野忠恭へその旨を朝廷から通告してきます。同時に、土佐藩からは兵

200を率いて勅使に付き添う旨の通告もあります。もちろん武市半平太も一緒に江戸へ行きます。

大体、このような勅使派遣の場合には、事前に所司代へ連絡があり、所司代から幕府へ都合を伺

った上で行うのが、通常であった。ところが今回のは、幕府の権威を落とそうとしているもので

あり、何のための勅使派遣かも知らせず一片の通告で済まそうとするものです。もっとも、、江

戸の幕府でも勅使派遣については以前より知っていましたので、京都所司代への正式な連絡を突

然にして、幕府の権威を落とすことが、狙いだったのでしょう。

牧野忠恭は、家臣を集めて善後策を協議するも、有効な対策もなく結局、江戸へ三条実美が勅使

として派遣される旨の早馬を出します。

この時(10月)には、会津藩はまだ京に着任していませんので、京都所司代の牧野忠恭は、自分

の任務の困難さを思い知ったのでしょう。そのために、有能な人材の必要性を痛感し、翌年の1863

年早春河井継之助等を上洛させることにします。

 もしかすると、京都守護職の松平容保の着任が勅使派遣の前であれば、河井継之助の登場は、

もう少し後になったかもしれない・・・・。(^^ゞ

松平容保は江戸で、一橋慶喜や春嶽それに老中等と会って、勅使派遣が上手く行くように懸命の

努力をしています。

 1863年に京都へ行く前年の秋に、継之助は江戸へ行きます。

司馬氏の「峠」では、妻のおすがに「またいなくなるぜ」と言い、その理由は、殿様の京都所司

代の就任を拒むことだといいます。妻のおすがは、無役の継之助がどうして殿様の栄転を止める

のかが分かりません。継之助は「・・・この時勢に、京都所司代などとは、煙硝倉に火を抱いて

とびこむようなものだ。・・」と説明します。なにやら、会津藩の京都守護職就任に際して西郷

頼母が松平容保に言った言葉とそっくりのようです。(^-^)

 河井継之助は長岡でも、京都所司代就任に反対し、江戸へ出てからは、参政に所司代辞任を建

白しています。しかしながら、長岡でも江戸でも藩では取り上げてもらえなかったようです。

一般的には、京都所司代は老中へ出世するためのポストであり、今回の人事は、栄転ということ

になります。そうしますと、藩士達の大部分は妻のすがが思ったのと同じように、何故殿様の栄

転を素直に喜べないのか、まして、辞職すべきだなんてとんでもない、という気持ちだったので

しょう。

徳川の世が、これからも続いていくと思っている人が、ほとんど全部でしょうから、理解を得る

のは困難なわけです。

 河井継之助は、山田方谷から学んだことや、長崎などへの西遊で江戸幕府はそう長くないと思

っていました。しかしながら、現実に徳川の世に生きている人たちは、殆どそういうことは考え

ないでしょう。何を訳の分からないことを言っているんだ、と思われるのがせいぜいでしょう。

そう思った人たちも、京都へ行ってどうも何かが違うと、感じた人もいたことでしょう。藩主の

牧野忠恭が、そう感じた一人だったのではないでしょうか?

 さて、京都出仕を命ぜられた継之助は、永井慶弥・安田多膳とともに上京し、前年上京してい

た同士の三間市之進と共に、京都所司代辞任を働きかけます。この時の継之助の役職が、公用人

です。  

司馬氏の「峠」などでは、この継之助の働きにより継之助が京都にいる間に辞任が実現するよう

に書かれていますが、実際はそのようにすんなりとはいきませんでした。理由は、藩主の忠恭が、

そこまでの踏ん切りが付かなかった為です。

 継之助も色々頑張ったのですが、最後は見切りを付けて、公用人を辞任します。同様に、永井・

三間等も職を辞し、継之助と行動を共にします(継之助の藩内での影響力も、段々大きくなって

きますね。)。

結果的にはこれらの者の辞任が、藩主忠恭に京都所司代の辞任を決意させます。この京都所司代

辞任の届け書の中には、「なお、委細は、家来にて河井継之助と申す者に申し含み候・・・」

(「河井継之助の生涯」安藤英男著より)というように、継之助の働きによるものであることが

分かります。

1863年6月、牧野忠恭は京都所司代を辞任して、江戸へ行くことになります。

 なお、この間のことについて、「河井継之助」(星亮一著・成美堂出版)には興味あることが

書かれています。

それによると、会津藩の秋月が、河井継之助の京都公用人採用に一役買っているとあります。

京都において、会津藩から長岡藩に会合を求め、その席で秋月が、河井継之助は今何をしている

のか(この重大な時に長岡藩はあのような有能な者をどうして使わないのか?)と尋ね、更に追

い打ちで、同席した横山主税も、河井継之助は有能な人物だと聞いている、と出席した長岡藩人に、

だめ押しをします。

平和なときなら、「あの者は身分が違います」とか何とか言って、他藩の人事に介入するのはお門

違いだと突っぱねるのが普通でしょうが、やはり時代が動いているためでしょうか?

もちろん、この話が実際のことかどうかは分かりませんが・・・。

 長岡藩主牧野忠恭が京都所司代をしていた時は、時代が激しく動いているときです。その間の、

主な出来事を眺めてみます。

就任の前月の7月には朝廷の求めにより、幕府も一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政治総裁職に

おき、公武合体を進めようとしていました。これまでの幕府本位を改めようと、改革も行っていき

ます。

翌8月には島津久光の行列が、生麦事件を起こします。12月には、高杉晋作等が英国公使館を焼き

討ちにします。一方では、一橋慶喜や松平慶永等が、攘夷の不可能を朝廷に説得しようとして、翌

年にかけて上洛します。その他にも、1863年には多くの大名が上洛します(こんなことは、今まで

は幕府が許さなかったことです)。

3月には、将軍家茂までもが上洛します。不本意ながら攘夷の期日を約束させられます。そして5月、

長州藩が下関で攘夷を実行します。同年同月、姉小路公知が暗殺されます。

翌6月、米・仏軍艦長州砲台を報復攻撃。7月、鹿児島で薩英戦争。

そして、8.18の政変と続きます。

 このような時代ですので、京都に在職した長岡藩士は些かでも、時代の変化を感じ取ったに違いあ

りません。そして、河井継之助が言っていた通りに、京都所司代を辞任することになりましたので、

河井継之助の評価が藩内でも見直されたのではないかと思います。

長岡藩主牧野忠恭の後任の京都所司代には、淀藩主の稲葉正邦が就任します。この稲葉氏の次に、桑

名藩主が最後の京都所司代になります。

 京都所司代を辞任した長岡藩主牧野忠恭は、京都を去り江戸へ帰ります。

 辞任した継之助が当時長岡で詩を作っています。「良知の人河井継之助」(石原和昌著)によって簡

単に要旨を以下に書きます。

 今まで我が国が平和でいられたのは上辺のことで、内実は弊害が大きくなっている。

今や国力は衰弱しており、綱紀は緩み、財貨は不足しており、民は重税に喘ぎ、兵は弱体している。

悲憤慷慨する志士の言いなりになって、朝廷は理性を失っている。

誰かこの困難な状況を変え、国民の生活を安らかにするために、共に政策を実行していく人はいないか。

 同書では、「与に(ともに)治道を策して四民を安んぜん」というのが、この詩の結論であり、継之

助の目指している政治目標であると書いてあります(同書P120)。

 江戸へ帰った長岡藩主牧野忠恭は、程なく老中に就任し(同年9月)、12月には外国事務を管掌とす

ることになります。

 長岡にいてこのことを聞いた河井継之助は、「これではダメだ」と思ったことでしょう。所司代の辞

任の理由が、力を藩内の政治に入れ領民を安んじる為というのですから、それとも矛盾します。殿さん

の側近に任せていてはいられない、という気持ちになったことでしょう。

河井継之助の、幕府に構わず藩内を立て直すというのは、どこか高杉晋作の長州割拠論に似ている響き

があります。まずは足下である自藩の改革を進め、それを周りの藩、そして終いには日本へと拡げてい

こうというものでしょうか。

 1864年正月、河井継之助は物頭格御用人勤向・公用人兼帯を命ぜられて、江戸へ出府します。

江戸へ来て、早速藩主の老中辞任を働きかけます。前回の所司代といい、今回の老中といい、藩主を辞

任させることに力を尽くすのですから、何とも巡り合わせの悪い仕事です。藩内でも頭の固い人からは、

今回もとんでも無い奴だと思われたことでしょう。

 継之助は、当時の老中首座の板倉勝静へ、牧野忠恭の老中辞任願いを持っていきます。面白いのは、

この時には、願いを出された板倉勝静自身も、河井継之助の師である山田方谷から、辞任を進められて

いるようなのです。

この届けを出してから間もなく、牧野忠恭は病気と称して出仕を止めます。長岡藩主の様子伺いに来る

幕府の役人に対しては、全て継之助が応対し相手を鋭く論破します。

 1864年5月、長岡藩の支藩である笠間藩主牧野貞直が、幕閣の要請で辞任を止めるよう説得に来ます。

藩主忠恭は、継之助をその場に同席させました。

激しい議論となりましたが、継之助の議論は鋭く徹底的になり、ついには支藩の藩主という地位を無視し

て、やり込めてしまいます。藩主忠恭もこれには黙っているわけにもいかず、継之助を退席させ、辞表を

提出させます。

継之助は、辞表を永井慶弥に頼んで作文させ、その原稿を見た上で、辞任の理由の病気が足りないと「そ

の上胸の痛みがひどく」と書き加えて、大笑いしたとあります。

 この継之助の辞任に際しては、同士の花輪馨之進・三間市之進・植田十兵衛等も職を辞し、長岡へ帰っ

ていきます。継之助にも、ようやく若手のブレーンが出来てきたようです。

 殿様を辞めさせるために働き、その度に辞任しているところなどは、きわめて珍しいことでしょう。現

在で見ると、支店長がせっかく本店の役員になったのに、役員を辞めろと言っている社員のような者です。

当たり前に考えるなら、本店の役員として上手くやっていくように、補佐するのが有能な社員のハズです

から・・・・。

この時、継之助38才です。残された時は、あと4年という短さです。

 長岡に帰ってきた継之助は、表面的には落ち着いた時を送っているようです。しかし、激動の時に係わ

らず無役が1年以上続きますので、内心は焦りもあったでしょう。

 司馬氏の「峠」では、「(妻)おすがの好日がはじまった。」と書かれています。その中で、「とにか

くおれはよその殿様にあれほど悪口雑言をあびせたためにやめされらたが、そのためにこっちの殿様もす

らすらと老中をおやめになることができた。」それで藩費が大いに助かったのだから、大きな仕事をした

のだと妻に自慢しています。

しかし実際のところは、藩主牧野忠恭はすんなりとは辞めることができませんでした。継之助が辞任した

のは1864年5月ですが、藩主牧野忠恭がようやく老中を辞任する事が出来たのは、1865年4月です。

 継之助は遊び好きでもあります。旅館の「ますや」で一杯入れてから、芸者遊びを良くやりました。あ

んまり芸者遊びが多すぎるというので、河井家の使用人か誰かが、妻のすがに亭主がしょっちゅう遊び歩

いていますよと教えたことがありました。その時妻のすがは、すらすらと次のはやり歌を書いて相手に示

したといいます。

 ここじゃ浪人 あそこじゃいくさ

 主の浮気も 無理がない

うーん 出来過ぎでしょうか。

継之助は、親しい友人には「おすがは偉い、おすががいるので家のことは安心している」と言い、自分は

家を留守にすることが多いが、気むずかしく厳格な母によく使えていると思っていたのでしょう。

 継之助は、前回と今回の辞職で長岡に帰っています。

長岡にいる間は、読書をしていますが、相変わらず精読で、気に入ったものは書き写しも行っていたでし

ょう。

 継之助が写した写本には、吉田松陰に関する以下のものもあります。

「二十一回猛士遺文」吉田松陰の文章です。

「吉田寅次郎伝」米城浩堂撰。

継之助が吉田松陰の遺稿や伝記を写しているのは、松陰の考えや行動に何か惹かれるものがあったからで

しょう。吉田松陰は、継之助の師の斉藤拙堂や備中の三島中洲と交流があったので、その二人から松陰の

人となりを聞いたのでしょうか。継之助と松陰とを大雑把に比べると、継之助は実務、松陰は理論という

ように、お互いにかなり違いがあります。

しかしながら、松陰の行動力は凄いものがあますので、その点では継之助の信じている陽明学の知行合一

と共通点がありそうです。

「河井継之助の生涯」(安藤英男著)では、「松陰の持つ情熱・至誠・見識・文才・などには、感銘する

ところが多かったのではあるまいか。」として、もし、小千谷会談の際に、松陰門下生が新政府軍の代表

として継之助に会っていたならば、相通じることもあったのに惜しまれる、としています。

 公用人という題名ですが、ここ3回は辞職した後の無役の時の話です。 今回は、書物によっては、河

井継之助のライバルとも書かれている小林虎三郎との話しです。

江戸留学の初めの頃は、継之助も一緒に江戸見学に行ったりと仲が良かったようですが、学問が進むに連

れ、考え方の相違が目立ってきていました。

小林は、江戸で佐久間象山の門下になり、藩主に横浜開港を建言したことで、謹慎処分を受けています。

処分が終わった後は、リュウマチで体調を崩していました。

 1863年11月、この小林家が火災にあっています。継之助は身の回りのものを持って早速見舞いに行きま

した。小林虎三郎は、今回の災害で見舞いに来る人もきわめて少なく、人情の薄さをかみしめていました

ので、この継之助の見舞いを非常に感謝します。他人は、お互いに政敵とまで噂する人もいる当の継之助

が来たのです。また、この時に小山良運から借りた本も焼失してしまいましたので、継之助は自分の写本

を小林に与えたとも言われます。

とにかく、小林虎三郎は継之助に大変感謝し、今は何もお礼が出来ない。しかし唯一出来ることは、忠告

であると言い、継之助の考え方が間違っていることを蕩々と述べたと言います。

これには、言われた継之助もビックリしたでしょう。「河井継之助」芝豪著では、「それにしても、虎さ

は豪(えら)いものだ。今度ばかりは負けた」継之助は、幾度も独り言をもらしながら帰ります。火災に

あっても、気持ちが全く負けていないから出来ることですが、それでも普通の人は、とうていこうは出来

ません。

 事実かどうかは分かりませんが、有名(?)な逸話なので書きました。

ちなみに、小林虎三郎は後年「米百俵」で有名で、地元長岡では、継之助よりも人気があると言われてい

ます。米百俵は山本有三の戯曲になっている他長岡銘菓にもあります。

 

2 山中騒動

 

 

 1865年6月21日、長岡藩主は第二次長州征伐のため、藩兵570名を率い江戸を出発。7月6日、大阪に着き

そこで待機。

 その時長岡では、山中騒動が起きます。長岡藩の多くの人材は、この時藩主と共に大阪にいました。こ

のことが、継之助が登場するのに一役買っているようです。つまり、山中騒動という難問を、無事解決で

きる人材が国元で見あたらなかった。常日頃、大口を叩くあいつにやらせてみよう、そういえば、以前宮

路村での百姓騒動も解決したそうではないか、となったのでしょう。

 7月19日、河井継之助は、外様吟味役に任ぜられます。

山中騒動というのは、山中村の庄屋徳兵衛と継母「のわ」の家庭内の争いと、それに小作料に不満を持つ

村民が絡んだ争いです。

継母「のわ」は、庄屋役を自分の実子にしたいため、息子の徳兵衛が母である自分を虐待したという訴え

を、3度も起こします。それに継母「のわ」の親戚である隣村の庄屋伊惣次が、村民の不満を煽ります。

そうこうして、3年に渡って争いが続いていたようです。

 継之助は、現地へ行き調査を行い、喧嘩両成敗の形で以下の判決をします。

庄屋徳兵衛は庄屋役取り上げ、跡目は息子大五郎が相続。

村民をそそのかした隣村の庄屋伊惣次は庄屋役取り上げ、跡目は息子が相続。

山中村村民は戸締まり10日間。

継母「のわ」は御叱。

 継之助の裁断によって、無事解決を見たと思ったはずの山中騒動ですが、実は3ヶ月後に再燃します。

山中村を含む周囲の6ヶ村は、3年前に天領から長岡藩領へ交換により編入されたもので、幕府の直轄領

の頃に比べると、長岡藩の取り立ては厳しかったことにも原因があります。

 庄屋と村民の争いが激化して、庄屋側についた3人の村民が村の人たちからの圧迫に耐えかね、首吊り

自殺を図ります。しかし発見されて、2人は助かります。連絡を受けた藩では、盗賊方の役人を派遣しま

す。盗賊方の役人は実情を調べ、首謀者4名を逮捕したところ、村民は納得せず役人を取り囲み、4名の

連行を拒否します。

村民達の不穏な動きの連絡を受けた藩庁では、直ちに足軽頭の田部武八に20名の足軽を付けて、山中村へ

行かせます。しかしながら、村民はそれでも不穏な動きをします。このままでは、一揆にもなりかねない

ところでした。

足軽頭の田部武八は、盗賊方の役人を諭し、逮捕した首謀者4名の縄を解いて自由にし、その交換条件と

して蜂起した村民を解散させます。田部武八は藩庁に帰ってから、処分を覚悟の上、使命を果たせなかっ

たことを報告します。この時に郡奉行になっていた河井継之助は、田部武八の臨機応変の処置を真っ先に

誉めました。田部武八もそれにより面目を施しました。

 継之助は、田部武八をもう一度山中村へ派遣して、「河井継之助は、今多忙で手が放せないが、4、5

日中に出張して、公明の裁断を下す。一同謹慎して沙汰を待つべし」(「愛想河井継之助」中島欣也著)

と言わせます。

 さて、4、5日中に出張すると言った翌日の11月14日、河井継之助は大崎彦助など2名の伴を連れただ

けの軽装で山中村に向かいます。その日の夕方、山中村に着き、庄屋徳兵衛の屋敷に入ります。

やがて、そのことを知った村人達が庄屋の屋敷へきて、騒ぎ始めます。庄屋の家に泊まるということは、

庄屋の味方をすることになると思ったからです。

しばらくして継之助が出てきて、騒いでいる村人達を大喝します。

「お前達の騒ぎ方は何のつもりだ!庄屋の屋敷が広いのは、こういうときのために藩が許可しているのだ。

大体俺が、庄屋の屋敷へ泊まったから庄屋を依怙贔屓すると思うのか!とんでも無い了見違いだ!」「明日

は裁断を下すから、皆早く帰れ!」継之助の気迫にすっかり押されながらも、それでもまだ帰らない者がい

ます。

継之助は、今度は部屋のふすまを取り外し、灯りを付けさせ、外から丸見えにしました。これで、残ってい

た村民も家へ引き上げます。

 翌15日朝、村人達は庄屋の家に集まってきます。頃合いを見計らって継之助が村人達の前へ出て、皆をあ

の鋭い目で睨み付け、突然首謀者4名の名前を呼び、開口一番一喝しました。反論しようとすると更に、お

っ被せて鋭く叱りつけたのです。御奉行様が、まさか自分の顔と名前を知っているとは思わなかった首謀者

達は、すっかり毒気を抜かれて圧倒されます。そこで継之助は、今度は皆に解るように諄々と説きました。

「道理があっても徒党を組んで不穏の行動をすれば、道理もなくなり一揆と言われ、処分を受けるようにな

る。そうなったら残された妻子はどうなるのか。そこのところをよく考えよ。」と情愛のこもった言葉で説

くのです。こうして、村人達が詫びを入れたところで、庄屋の徳兵衛を呼び出し、皆の前で論説し、双方が

誓約書に署名して解決します。

 継之助の鮮やかな気合い勝ちです。この気合いは、見事なものです。

河井継之助は人間的な迫力が巨大で、他人に有無を言わせぬところがあったことが分かります。

 さて、無事に解決した後に、継之助はいくつもの包み金を取り出しました。

この金は前回の裁判(7月)の時と今回の時のお礼だとお前達が持ってきたものであると告げ、裁判をする

側がこういうものを貰ういわれはないとして、その金で酒と肴を運ばせ庄屋や村人達と飲み明かしています。

当時は賄賂が公然と行われていたので、村人達は驚いたことでしょう。この辺りは、騒動の根が残らないよ

うにとの心配りですが、心憎いところです。

 また、庄屋の今井徳兵衛は継之助に感謝し、この日を記念日として毎年継之助の肖像と好物の桜飯を供え

ました。今井徳兵衛の曾孫の語った話では、「戦前は11月15日に、書院の床の間に、河井さんの肖像を掲げ、

好物だった味噌漬飯を供え、父常栄が子供たちに、騒動の経過、その処理について、落涙絶句しながら話し

てくれたのが印象に残っています。」(「愛想河井継之助」中島欣也著)として、継之助に非常に感謝して、

子供に伝えていったことが分かります。

 「良知の人河井継之助」(石原和昌著)では、このような継之助の解決策には、いくつかのポイントがあ

ると書いています。

1 行動第一主義

   自らが先頭に立って行動する、率先垂範型のリーダーである

2 誠心誠意を以て事態に立ち向かう

   単身で事件の現場に行き、誠意を以て対処する。しかも彼の身辺は清廉であるので、誰にもおもねる
 
 ことも遠慮することもない。

3 解決に当たっては、あえて罪人を作らない

   儒教の「仁」の精神を持っていたことの証であろう。

4 最初に相手方の不意をつく

   相手の心理状態を読んで、機先を制するやり方を採っている。

 4については、著者は後年の北越戦争の長岡城奪回作戦に、この戦法を駆使すると書いています。

成功した事例が長岡城奪回なら、失敗した事例が小千谷会談かもしれません。

 

3 郡奉行

 

 1865年10月13日、河井継之助(39才)は、郡奉行に就任します。実質的にはこの時から、彼の藩政改革が

始まります。

 そして、まず最初にやったことは賄賂の禁止です。

彼が郡奉行に就任したときに、そのお祝い(御役成祝儀)として藩内の色々なところから、品物の付け届け

がありました。当時このような付け届けは、慣習化されていたものですが、継之助は一つも受け取らずに、

全て突き返しました。そしてこのようなことを断然止めさせるべく、就任後8日目に、庄屋と代官一同を奉

行所に集めました。

 まず皆の前で、彼の政治の基本方針を読み上げ、その後に賄賂を禁止することを言い渡しました。

しかも、この時にそれが通り一遍ものではないということを、強く念押しします。具体的には、「皆は、下

々より様々な名目で付け届けを受けているようだが、これは代官などのお手当が低すぎるためであろう。決

して皆の欲得からそうしているわけではないだろう。それでは、どれくらいの収入があれば、役を務めるの

に不足がないのであろうか? わしも努力するので、遠慮なく申し出よ。」と言い、ギョロリとした目で皆

を見回します。しばらくした後で、下を向いていた誰かが「今まで通りの収入で結構です。」と言った。継

之助は、皆もそうであろうなと皆の確認を取った後に、それでは今後は一切の付け届けなどの贈り物の受け

取りの禁止しを、厳命しました。

 同時に、農民が庄屋になったときの奉行や代官へのお礼回りの禁止や、田地売買の際に、百姓が代官に、

庄屋が奉行に治めていた裏書き料も禁止しました。

 長年習慣となっていることを止めるのは、非常に大変なことだったでしょう。ショック療法と、彼の率先

垂範がなければとうてい出来ることではありません。しかしかなり上手く行ったと言いますので、感心しま

す。

  長岡藩では、藩内の437の村を7つの組に分け、各組に数人の庄屋の代表(割元)を置いていました。この

割元が、藩と庄屋(農民)を結ぶ大事な役割を担っていましたので、河井継之助は、割元の見直しを行います。

 継之助は、鈴木訥叟(とつそう)を熱心に説いて、北組割元とし、更に問題の多かった栖吉村庄屋を兼任と

しました。

この栖吉村は、庄屋と村民の仲が悪く紛争が絶え間なく起こり、庄屋が更迭されたことが過去20年の間に10回

以上もあったそうです。鈴木訥叟(元々割元であったが当時隠居)は、その名の通り訥弁であったが、至誠で

公明な人であったので、継之助が是非にと頼んだものです。

そして割元を引き受けるという時には、割元の委任状の他に、継之助が大事にしていた山田方谷の詩編(松山

を去るときに贈られたもので「春風詞」と題してあるもの)を贈っています。いかにこの役割を大事に思って、

鈴木訥叟を熱心に口説いたのかが分かります。

鈴木訥叟は継之助の見込んだとおり、よく庄屋と割元を勤め、栖吉村の村民の紛争も収まったといいます。

 継之助が、割元や庄屋のことまで良く知っていたのは、継之助の若い時分から、彼に師事している庄屋(当

時は庄屋の息子)がいたからだと思われます。

外山脩造や大崎彦助(山中騒動で継之助に同行しています)がそれで、庄屋の息子時代から河井継之助に師事

して、この頃には割元になっているようです。この二人は、学問も相当行っているようです。継之助が身分に

囚われずに、能力で人を見ていたからでしょう。

 また継之助は、彼らから得た情報を大事に活用しています。例えば、農作業に一生懸命に努めた人達を、精

農家として表彰しています。このことは継之助が、上っ面だけではなく、農民層まで見つめた本格的な改革を

しようとしていたことの現れであると思います。

 水腐地の見直し

 長岡はご承知の通り、日本一の大河信濃川沿いにあります。当然水害には悩ませられました。

 水腐地とは、大きな水害を受けた土地のことで、水腐地の指定を受けると5年間は免税とされていました。

また、場合によっては逆に、藩から御手当米を出すこともありました。制度としては社会保障的なものである

が、これが当時は慣習化して、一度水腐地の指定を受けると、5年の期間が来ても担当の代官等に賄賂を贈り、

まだ土地が十分回復していないとして、延長されるものが多数ありました。制度は良いものでも、長い間には、

少しぐらいなら良いだろうということで、役人や村人がお互いに甘えてしまいがちになります。その甘えが、

次第に日常的に習慣化してしまいます。

現在でも、租税特別措置法等で一度減税をすると、期限が来てもなかなか廃止するのは難しいのと似たような

ことでしょう。

また、水腐地の指定の実際としても、当時は村ごとの課税が原則だったため、村全体が水腐地となります。し

かし、村の全部の田畑が水害に遭うことはまれで、被害のない土地もあるので実体に即していないわけです。

 そこで河井継之助は、水腐地の実体を調べ、贈収賄の甚だしい代官・元締め等数名を罷免処分としました。

こうして、今までとは違うと宣言してから、藩吏を水腐地へ派遣して、詳しく検査させました。こうして、水

腐地の指定を厳しくやり直しました。

この水腐地の指定のやり直しと御手当米の廃止により、年間6千俵の増収となりました。石高にすると1万3

千3百石にもなったそうです。

このことは、長く長岡藩の勘定方にあった村松忠治右衛門(継之助のブレーンでもあります)をして、河井継

之助のことを「非凡の英才と言うべし」と書いています。

 社倉の設置

 御手当米を廃止したことにより、新たに社倉を設置しました。

御手当米は水腐地の際にも少し書きましたが、災害や不作などの際に1年間又は5年間等にわたって、年に幾

らかの手当を出す制度です。これも水腐地と同様に、運用面で実際にはそれほど困っていない村が、毎年のよ

うにお願いをするなど悪影響が出ていました。

更に、お手当米を貰った村々が、盆暮れ節句などの際に、御家老以下の担当の諸役人へ、土地の産物などを付

け届けすることが当たり前の慣習となっていました。当然御手当米の期限が到来するときには、庄屋が村人へ

割り当てを決め、集めた金品を期限の延長のために、藩の重役や担当役人へ配って挨拶回りすることも慣習と

なっていました。これでは本来支出しなくても良い藩のお金を、皆で不正支出して、盆暮れ等に役人が貰って

いるのと同様の結果になります。

 実際上は、上記のように適正に運用されていないばかりか、むしろ弊害が大きいと判断して、御手当米の制

度は断然廃止にします。長い間には、少しずつ制度が歪められていき、毎年行っている内に、誰もがそれが当

然だと思ってしまうのです。

 そして、各村に収穫時にその作物の一部を納めさせ、凶作の際には、それらを供出する貯蔵のための倉を造

ります。これが社倉ですが、藩の助けの前に、まずその村の中で助け合う制度です。河井継之助は、その制度

は各村村で状況にあった任意の掟を作るようにしました。

 水腐地の見直しや御手当米の廃止については、勘定方の村松忠治右衛門が以前から実施を主張していたので

すが、いずれも長い習慣となっていることなので、なかなか実行されずにいたものです。河井継之助が藩政に

参加するようになって、素早くしかも適正に、実行されたことになるでしょう。

 河川の改修工事

 信濃川の支流で、三条から信濃川から分かれ、下流の黒崎で再び信濃川と合流する中之口川というのがあり

ます。信濃川から、分かれるところの川幅が大きいのに比し、下流の合流地点の川幅が小さいこともあり水害

の基になっていました。従って工事は、上流の信濃川との分岐点の川幅を狭めて平均的にし、水の流れる量を

一定にする工事でした。

河井継之助は、この川に関係のある村上藩と協調して、改修工事を行いました。

この普請奉行は、長岡藩では河井継之助、村上藩では夏目吉兵衛でした。河井継之助は幕府から工事の許可を

取り付け、工事に入りますが、総工費7千6百両の内約7割の5千6百両を幕府から補助させています。

また近くにある、やはり水害のために、江戸時代に排水用に新たに造った新川と、それに交差して流れる西川

の補修工事も行っています。

 毛見の廃止

 当時田畑に対する年貢は、検地帳に登録された土地や家屋敷等に対して行われていました。そしてそれは、

登録された各個人に対して行われていたのではなく村を単位として行われていました。藩は年貢を村に対して

課し、その村の村人に連帯して責任を負わせるというやり方でした。

具体的な年貢の決め方は、過去の平均的な取れ高を参考にして、決めていたようです(定免法)。しかしなが

ら、農作物は天候や害虫等によってもかなりの影響を受けます。そのため、不作の時には藩へ願い出て、役人

に実際に収穫を調べてもらい、年貢を減免すること(毛見法)も採られていました。

毛見は検見とも言い、稲の収穫直前にその年の作柄や収穫量を、現地で坪狩り等により調べることですが、時

代や場所(藩)によっては、毛見取法が原則のこともあります。


 長岡藩ではこの毛見についても、数々の弊害が出ていました。

役人が毛見のために出張すると、その応接は村々が行いますので、少しでも収穫高を低く見積もってもらおう

として、色々な贈答を行います。また奉行等の検見役人の出張先での、食事は朝昼晩と出張先の村が出すこと

になります。ここでも上記の理由から、午前午後のおやつや茶菓子、そして夕食の際の酒と肴を出すのが当然

となっていたようです。さらには、検見役人の自宅へ付け届けをすることも慣習となっていきました。

凶作で苦しい村が、凶作を認定してもらうために、このような出費をするのはまさに理屈に合わないわけです。

 河井継之助は、藩内での反対を押し切り、毛見の全廃をしました。不作の場合の年貢の減免は、過去の実績

を調べて行うことにしました。そして、徴税作業の現場を不正が生まれやすい庄屋屋敷から、代官所で行うこ

ととしました。

 

4 町奉行

 

 1866年11月、継之助は町奉行も兼任することになりました。郡奉行の際の仕事ぶりが評価されたものでしょ

うか、この頃は、ますます藩主からは信頼されいったようです。

長岡藩の町奉行がどういうものか知りませんが、おなじみの江戸の北町奉行の遠山の金さんや、南町奉行の大

岡越前のテレビドラマ等で見る限りでは、町奉行は非常に大きな力を持っているようです。

現代に置き換えて見ると、役人を使って犯罪者の取り締まりを行うのは警察、犯罪者を裁くのは司法(裁判所)、

更に町民に対して御触れを出すのは市長と市議を兼ねたようなものになるでしょう。

地域的・限定的ではありますが、司法・行政・立法いずれの権限もありそうです。

 河井継之助は郡奉行の時と同じように、矢継ぎ早に改革を押し進めていきます。また、そのやり方は、人を

驚かせるような派手さがあります。しかしながらその内容は、あくまで武士の中でという枠組みはありますが、

制度の基本的なところまでも変えていくという、最も困難を伴うものです。 

 

検断3人を蟄居にする

 河井継之助は町奉行に就任して3日目に、3人の検断を奉行所に呼び出しました。

当時の長岡城下の町の行政は、村の場合の、割元(大庄屋)ー庄屋ー百姓と同じように、検断ー町老ー町代ー

書役ー町人となっています。

長岡の城下には20の町がありましたが、それを表町組、裏町組、神田組の3つに区分けして、それぞれを統

括するものとして検断を置いていました。いわば町奉行の基に、町人の自治のトップとして検断がありました。

この検断には豪商がなっていましたが、藩から禄が与えられ、旅行の際には帯刀を許されるという特権もあり

ました。またその役割は、藩の税金の徴収や戸籍の変更、家督の相続、風俗の取り締まり、犯罪の予防等と町

民の生活に直接関係するもので、しかも広範囲に及んでいました。

江戸時代は貨幣経済が進むに連れて、商人の力が大きくなってきますが、長岡の検断は、豪商が世襲制でなり

ますから、自然に力が大きくなっていきます。そうすると生活も、金に任せて派手で贅沢なものになったので

しょう。さらには、豪商ですから藩財政にある程度の寄与をしていたと思われますので、そういう驕りも出て

きます。

 呼び出した3人の検断には、そのものたちは驕奢で身をわきまえず、いかがわしき所業もあるように聞こえる。

重々不埒のことに付き、死罪にも申しつけるところ、旧家(いままでは良い行いもあったの)であるので、検断

の職を取り上げ、蟄居を命じました。3人ですから、全ての検断を処分したということになります。一般の町人

から見れば、凄い権限を持った人が、一挙に処分されたのですから、大変なショックを受けたことでしょう。

 さらに翌月、検断の処分にも係わらずに、相変わらず派手な生活を送っていた町人を捕らえて、追放の刑にし

ました。

割元と庄屋にご馳走をする

 ある日、河井継之助は割元と庄屋を自宅へ招待しました。割元や庄屋が、町奉行から招かれ、ご馳走を振る舞

われるなどということは前代未聞のことでした。この予想もしていなかった招待を、単純に喜んだものも居たで

しょうが、何となく変に思った者もいたことでしょう。

集まった皆に料理を出す際に、河井継之助から挨拶がありました。

今日お集まりの各々は、常日頃から美味しい者を食べ慣れているようだから、今日は特別に、我が家の手料理を

ご馳走しようと思う。遠慮なく食べていってほしい。

そして、出された料理は、豆腐のおから汁と大根の煮付けだけでした。町奉行の日頃の食事がこれであるからよ

く見て置け、というのでしょう。

あとは皆が食べるのを、あの鋭い目で見回していたのでしょう。過度の贅沢は許さないという、継之助の決意を

知らしめるための一種の脅しでだと思います。何をしでかすか分からないといわれていた、継之助のことですか

ら、それなりに効果はあったことでしょう。

 ちなみに、河井継之助は大根飯(さくら飯)が好物だったと言いますから、上のような献立はごく自然だった

のかもしれません。

寄場(よせば)を創る

 罪を犯した者でそれが軽い人用に、新たに寄場を造りました。

一般的に、江戸時代の牢屋はその環境が劣悪で、その為に受牢している間に病気になり、死亡する者が非常に多

かったといいます。

継之助は寄場を、罪を犯した者に教育を行う場として考えていました。収容者は、髪を五分刈りとし着物も紅殻

染めのものを着せ、直ぐ分かるようにしたうえ、日中は、自分の得意な労働をさせ、一般のところからの求人に

も応じました。労賃は通常の半値となっていて、寄場を出るときまで積み立てていました。

夜は収容者を集め、寄場長が心学本を読み聞かせて、道理を説きました。心学とは、「江戸時代の中期から末期

にかけて、庶民のあいだに行われた道徳教育。儒教・仏教・神道の教えを巧みに融和し、平易なことばやたとえによっ

てその実践をといた。」(学研国語大辞典)ということで、読み書きの出来ない人にも分かるようにと、採用され

たものでした。

また、収容者には特に刑期を決めずに、改悛の情が現れれば、放免しました。

さらに、寄場の出入りも比較的に自由にし、夜は自分の家や親戚の家なら出かけても良いことにしました。しか

し翌日の朝(午前4時)までには必ず戻るようにしました(戻らない者は打ち首)。


 この寄場の長には、当時25才の外山脩造が任命されました。脩造は領内の庄屋の息子ですが、かつて江戸で塩

谷宕陰(継之助の山田方谷への紹介状を書いた人)のもとで学びました。そこで三島中洲と知り合い河井継之助

の話を聞き、帰国してからは継之助の教えを受けるようになったものです。

この寄場の近代的な制度は、場長の外山脩造の若い考えと働きとが大きく寄与したものと思います。

賭博の禁止

 河井継之助の性格から考えると、勝負事は相当強いようです。対人折衝を見ても、気合いで一気に行きます。

勝負事に強い人に、多いパターンです。

しかしながら、継之助は正業でないとして賭博を嫌っていました。

もちろん長岡藩でも賭博は禁止されていましたが、賭博を取り締まる役人(目明かし)は俗に言う、二足の草鞋

をはくものが多かったので、一方では公然と博打をやっていました。そんなわけで、賭博禁止令はあるものの、

実行されていませんでした。

 しかし、継之助は断然賭博禁止を決意します。領内の博徒に対して賭博を禁止することを伝え、ついてはサイ

コロや花札等の賭け道具を、指定した日に奉行所へ差し出すことを命じます。

当日集まった博徒の前に、村松忠治右衛門と共に顔を出し、賭博がいかに世に中を悪くしているかを説き、持っ

てきた賭け道具を取り上げ燃やしてしまいました。そうして、今後賭場を開くようなことがあれば、厳罰に処す

る旨を言い渡しました。

一方で、目明かしなどが博打を禁じられたために、生活が出来なることの無いように、目明かしやその子分に手

当米を支給するこにしました。

 そうはいっても、長年行ってきたものです。直ぐに止めるのは難しいものです。

継之助はさらに、自分で実地にそれを確かめに回ったと言われています。

栃尾の在に、勇蔵という博徒がいました。ある日一人の旅人がやってきて、賭博をやらせてほしいと頼みました。

しかしこの勇蔵は、賭博禁止令を境に賭博をきっちり止めた人でしたので、断りました。しかし、旅人はそれで

も執拗に粘ります。勇蔵は少しムッとしたが、草鞋銭としてお金を包んで渡し、よそでやるように言いました。


実はこの旅人が河井継之助で、後日、この草鞋銭と共に町奉行のお褒めの言葉が、勇蔵に届けられました。中に

はこの継之助の手に見事に引っかかって、捕らえられた博徒もいて、その噂が博徒を恐れさせ、賭博から手を引

かせたと言います。まるで、テレビの遠山の金さんのような活躍です。

妾の禁止

 継之助は、妾を持つことも禁止しました。華美な生活になってしまうのを、防ぐという意味があったのでしょ

うか。

これにも又、遠山の金さん並のエピソードが伝わっています。

 禁制を知りながら、それを無視して古志郡のある庄屋が長岡の女郎の身請けをしました。その噂を聞いた継之

助は、今度はその女郎の引っ越しの当日に、荷物運びの人夫として働きます。引っ越しの仕事を終えると、雇い

主の庄屋は上機嫌で日当を払い、さらに振る舞い酒をもご馳走しました。継之助も何食わぬ顔で、日当を貰って

帰ります。

 そして後日、庄屋宅には奉行所から呼び出しがきます。

奉行所の、妾禁止に違反したとの取り調べに対して、庄屋は知らぬ存ぜぬを繰り返して白をきります。お上には

確かな証拠でもあるのかと、不貞不貞しい態度をとったその時です。継之助の御奉行様の登場となります。

そして、とぼける庄屋の前で、先日貰った日当を見せつけ、「これでも白をきるのか!」と凄まじい気合いと共

に鋭い目で睨み付けます。

正に遠山の金さんが、入れ墨を見せるのと同じようです。

 継之助にはこういった逸話が多いといいます。何をするか分からぬ、とんでも無い男との印象が強かったから

でしょうか?

 

5 御奉行格

 

 1867年3月10日、河井継之助は寄合組に列し、江戸詰となります。当時長岡藩では、武士は大きく分けると12階

級になっていました。寄合組はその一番上の階級で、家老、中老、御奉行などがこの中に入っていました。

ついで河井継之助は、翌月の4月に御奉行格になりました。河井継之助41才のことです。

これでようやく継之助も、藩政の全体を行うところまで出世したことになります。現在の会社でいうと、会社経

営に参加しその責任も負う、取締役になったというところでしょう。

公用人から始まって役員にまでのスピード出世は、もちろん藩主の信頼が厚かったことが一番でしょうが、時代

の早い動きも大きく関係しているようです。

遡れば、前年の1866年7月には、将軍家茂が大阪で亡くなっています。当時、長岡藩主は長州再征を行うための幕

府の命令により、前年より大阪に藩兵を率いて待機していました。しかし翌月の8月、将軍の死により一橋慶喜が

徳川宗家を相続し、同時に休戦の沙汰を出しましたので、長岡藩主も長岡へ帰ります。藩主等が大阪で、急変する

世の中を感じたことも大きかったのではないでしょうか。

さらにもう一つ、長岡藩が抱えている問題があり、それを継之助に解決させるために、相応しい資格を与えた一面

もあったようです。

 河井継之助を待っていた問題とは、小諸騒動です。

長岡藩には、次の4つの支藩がありました。

1 常陸笠間藩 8万石(日向延岡より入封)

2 丹後田辺藩 3万5千石

3 信州小諸藩 1万5千石

4 越後三根山藩 1万1千石

 笠間藩主とは長岡藩主の老中辞任をめぐって激論し、その為継之助は辞任したこともあります。笠間藩と田辺藩

は徳川氏より、別に取り立てられたものであるが、小諸藩と三根山藩は、長岡藩の初代牧野忠成の次男と三男が、

分地されたものです。そういうこともあって、小諸藩と三根山藩は宗家である長岡藩に見習うことが多く、政治向

きについても、色々伺いを立てたようです。

 この小諸藩に、世継ぎをめぐって内紛がありました。

1863年6月、9代小諸藩主牧野康哉が亡くなります。長男の康民は既に世子となっていましたが、長男の康民と次男

の信之助を担ぐ派があり対立しました。結局、10代目藩主は順当に長男の康民が継ぐことになりますが、対立の根

は残りました。

その後、次男の信之助派が、藩主となった康民の夫人をも取り込んで巻き返しに動きます。

 信之助派は家老の真木要人を仲間に入れ、反対派の家老の牧野隼之進、家老の加藤六郎兵衛、要人の村井藤左衛

門を中傷する噂を流し、又夫人の口からも藩主へ同人等の讒言が囁かれたことでしょう。

藩主康民も、讒言を信用してしまいます。ついに、上記3名の出仕差し止めにします。出仕差し止めにして置いて、

本格的な処分を行うつもりなのです。

しかしながら、上記3名は小諸藩の重役ですので、重役3名の一時の処分ということになれば、当然宗家の長岡藩

へお伺いをたてねばなりません。

信之助派の牧野十郎兵衛、太田宇忠太、真木要人等は処分の了解を長岡藩に願い出ます。しかし長岡藩主牧野忠恭

は、不審に思ったのでしょう。追って沙汰すると言ったきりで、決定をしないでいました。そうこうしている内に、

幕府の2回目の長州征伐が始まり、長岡藩も小諸藩も幕府から出兵を命じられます。

処分が何時になるかも分からないと見た信之助派は、自分藩の責任で処理したいと許可を願います。宗家長岡藩は、

なるべく寛大に処理して災いを残さないようにするならば認めることにしました。

 しかしながら、恨みのある反対派の処分です。寛大とは、ほど遠いものになりました。重役3名は役職を免ぜられ

た上に、禄まで削られました。さらに牧野隼之進、加藤六郎兵衛の二人は隠居させられました。加藤六郎兵衛は、最

も恨まれたと見え、その上に蟄居と面会制限、屋敷は没収され、替わりに与えられた屋敷は崩れかかったあばら屋と

いう、見せしめにされました。

これにより小諸藩内の空気は、更に悪くなり、宗家の長岡藩へ訴え出る者も出る始末になります。

 このように混乱してきた小諸藩の内紛ですが、その解決を任されたのが継之助です。

実は、継之助が任命される前に、花輪馨之進に話があったようですが、「自分では上手く解決できる自信がない」と

言って辞退し、河井継之助こそ相応しいと推薦しました。花輪は継之助の仲間ですので、継之助を長岡藩の中枢の役

員にする良い機会だと思ってのことでしょう。

河井継之助は、もめ事も解決には、それなりの実績もあります。こうして継之助が解決に乗り出します。

 最初に文書で、今回処分した重臣について本藩で再調査したい旨を伝えました。それに対して小諸藩主の牧野康民

は重臣と相談の上、「今回の処分については本藩から任せられて処理したもので、適正に行っていて何の問題も起き

ていません。したがって再調査の必要はないかと思います。」と答えてきました。

しかし、藩主の牧野忠恭は、自分が言ってやったような寛大な処分が行われていないと不満でした。

そこで、1867年6月2日長岡藩主の牧野忠恭は、小諸藩主を呼び出します。牧野忠恭の側には河井継之助が座っていて、

小諸藩主の牧野康民に鋭い質問を浴びせます。かつて、笠間藩主にも言いすぎて役を外す羽目になった程の継之助で

す。この時には、藩主の公認でもありますので、ずけずけとものを言ったと思われます。

しかしながらただ話すだけでは、埒があかず、また、いったん行った処理を覆すことのは出来ませんでした。

そこで継之助は、藩主から全権を任せられた上で、直接自分が小諸まで出かけて行って処理することにしました。

 出発する前に、小諸藩の太田宇忠太を藩邸に呼び出し、事情聴取をしました。

継之助の鋭い質問があり、太田宇忠太の弁明もボロボロになったようで、処分された3名は、冤罪であることが分かっ

たようです。

 1867年9月14日 河井継之助は江戸を出発します。従者は二人だけという身軽さです。

同月17日小諸に着き宝蔵院を宿所として、早速、調査を進めます。

 やがて、23日に謹慎中の牧野隼之進から事情聴取をして調査を終えます。

そして当日に、早速処理を行います。

前に処分された3名の重役については、禄高も役職も元に戻します。その上、牧野隼之進には、20石の加増をします。

しかしながら、3名を処分した真木要人派の処分については不問とし、処分は行いませんでした。

そうしておいて、継之助は元に戻した家老の加藤六郎兵衛、要人の村井藤左衛門の二人には、藩主の面目を立てるた

めに自ら辞職するように説得します。二人は、継之助の説得を理のあるものとして聞き入れ、10月3日に辞職します。

筋は通すが、双方ともに、面目が立つようにしたと言えるでしょう。

 しかし、人間の恨みや妬みはそう簡単には消えません。この解決が根本的なものではないことは継之助も知ってい

て、後日にキチンとするつもりでした。しかしながら、翌年始まる戊辰戦争のため実行はされませんでした。

 これまで見てきた継之助の紛争の解決方法は、今回のと大体同じようなやり方です。他の人には出来なくて、継之

助には何故出来るのでしょうか?人間的な魅力と、物事を押し進める迫力が違っていたのでしょうか。公明正大に理

屈を説き、その処分は情によるとも言えるようです。

 次の文は、継之助が小諸で書いたものを書き下しにしたものです(「河井継之助の生涯」安藤英男著より)。

昇平 たぐい無きは これ神州

飽食 暖衣 患優を忘る

考課 賞刑 道を失うと雖も

疑わしきにしたがいて 此に至る 亦何ぞとがめん

 継之助は20日間ほど小諸にいましたが、いくつかの逸話を残しています。

自分は観相学を学んだ訳ではないが、人を見る目はあるとして牧野隼之進に対して、小諸藩の何人かの人物の未来を

予言しました。「河井継之助の生涯」によれば予言とその結果は以下の通りになります。


西岡五郎左衛門  理財の才があるので任用するように

長沼半之丞    理財の才があるので任用するように

角田良之進    才知は乏しいが、長者の風があるので人の上に立てると万

         事が円くおさまる

高崎郁母     学問があるが才気が過ぎているので、非業の最期をとげる

         かもしれない

そしてその結果は次のようです。

西岡五郎左衛門  伊那県の会計課長となり、その後小諸町長となる

長沼半之丞    警視庁の会計課長となり、庁内に信用が厚かった

角田良之進    異例の抜擢を受け藩の大参事となり、その後富山県の大参

         事となる   

高崎郁母     脱走囚を秘匿して、浅間山麓に刑せられた

 その他に藩政改革についても、藩の重役に具体的な提言を行っています。その中でも御牧ヶ原の開墾については、

開墾の方法等を藩主康民に力説したと言われます。明治に入って同地は、水田500町歩、畑600町歩等を有する村とな

り、継之助の着眼の正しさが証明されました。

 後年、牧野隼之進が自分の子供から、河井継之助の人物を尋ねられたときに、彼はしばらく考えた後に「神様のよ

うな人であられる」と語ったそうです。 

 

6 中老

 

  河井継之助は1867年10月、御年寄役(中老)に任ぜられます。中老は家老に継ぐ役職で、それまで2名の定員のと

ころを1名増員しての任命でした。

 中老になってからも、何かに急がせられたように様々な改革をしていきます。しかしながら、翌年の5月には、不

幸にも西軍と開戦となります。

これから、しばらく河井継之助の藩政改革を見ていくことにします。

様々な藩政改革は、急ぎに急いでやったことでしょうが、結果を出すためには、時間があまりにも残っていなかった

と言うべきでしょう。なにしろ、後一年もしない内に河井継之助自身が非業の死を遂げるのです。

河井継之助と共に、藩財政の改革に力を振るった村松忠治右衛門は実務面での財政改革の実行者です。その村松忠治

右衛門が晩年に書いた「思い出草」に、非常際の備え金も日に月にと増え、後三年も経てば富国強兵になるのは、は

っきり分かっていた、と言っています(「河井継之助を支えた男」立石優著 恒文社)。

はたして、もし3年前に河井継之助が長岡藩の藩政を握っていたら・・・・どうなっていたでしょうか?

 上記のことはともかくとして、これから河井継之助の藩政改革を見ていきたいと思いますが、改革をしている際に

も歴史が動いていますので、書き込みの順序が時系列的には逆の場合もあると思いますが、ご了解下さい。

また、繰り返しになりますが、改革の時間が少ない関係で一般的に言われているほど効果の上がらなかったものもあ

ると思います。

 

遊郭の廃止

 1867年12月 長岡の貸座敷業者を呼びだし、遊郭の廃止を告げました。実際に告げたのは、継之助の意を受けた花

輪馨之進でした。

 この遊郭廃止についても、継之助は彼自身のやり方をしています。すなわち、遊郭廃止の噂を前々から流して、廃

業準備をさせる期間を置くと同時に、廃止を告げる際のショックを少なくしています。

さらに一方では、長年やってきた商売の転廃業には困難が伴うので、救済措置も併せて行っています。商売をやって

いた者でそれなりの事情がある者には、転廃業のための資金の貸し付けを行い、転廃業をやり易くします。また、そ

こで働いていた遊女等については、親元へ帰しますが、その為の帰宅旅費を支給します。

さらに、この女性たちがキチンと戻っているかも後日確認することにしています。また、帰る当てのない遊女等につ

いては、長岡で生活が成り立つようにその更生を助けました。

河井河井と今朝までおもひ今は愛想も継之助

 河井継之助は自分も遊び好きで、遊郭にはよく行きましたのでこのような落首をされています。

なにせ、司馬氏の「峠」では、「良運さんが驚くほど継之助はその世界の表裏に通じており、ひょっとしたら女郎屋

の研究では日本の武士階級で継之助におよぶ者はあるまいとさえおもわれた。」とまで書かれています。

株の廃止

 株は、商売をする権利のようなものです。当時は、大体何処の藩でも、特定の職業に就くには、株を持っている人

に限られていました。その職業とは、藩によって色々でしたが、長岡では10の職業が株の制度になっていて、職業選

択の自由が制限されていました。継之助は、自由な経済こそ商売が活発になり、結局藩財政も富むとして、

船乗、肴屋、湯屋、髪結、鬢付油、青物問屋の6業種については、「無株の者においても勝手次第に致すべきこと」

として、株制を廃止しました。 

河税の廃止

 長岡藩では、信濃川の水運に関しては、決めておいた船問屋に船を着けさせ、船問屋が藩に代わって通行する船か

ら、通行料と繁船料を取っていました。この収入は、年に1千両にもなっていました。

しかし継之助は、「河川は一国全部で共有すべきものである。長年の慣習とはいえ、ひとり長岡の問屋連が不条理な

特権を有して交通の妨げを行い、また、長岡の商人たちがその陰に隠れて不当な利益を占めている事は、心得違いも

甚だしい。特に藩庁がこのような不条理な収入に腐心するとは以ての外である。」(「良知の人河井継之助」石原和

昌著)として、河税を廃止しました。

毎年千両もの収入が無くなるというので、関係する船道組合を始め反対する声が非常に強かったのですが、継之助は

あえて押し切りました。

これも、交通の自由化により船の交通量をまして、藩経済を活発化しようとしたものです。

またこの河税廃止は、前もって幕府に届けて了解を得ますが、届け出を受けてそれを了承したのは勘定奉行の小栗上

野介です。

 株や河税の廃止は、経済面では規制を廃止するという非常に進歩的な考えを持っていたことが分かります。長岡や

江戸だけにいたのでは、このような考えは出てこなかったに違いありません。継之助の資質にも寄ると思いますが、

長崎をはじめとする西国の遊学の経験が有ったからこそのような気がします。

財政再建1

 河井継之助は藩政に参加してから、重要な課題である財政再建に取り組んできました。

「河井継之助の生涯」安藤英男著には、1865年10月〜翌年9月期の長岡藩の一般会計の財政収支が出ています(鈴木訥

叟の役所日記からあげています)。当時は、米の収穫から一年間が、会計年度(9月期)だったのでしょうか?

それによると、収入が合計で2万1千308両に対して、支出は合計5万8千861両となっています。単純に見ても、

3万6千両もの赤字になります。しかも年間の収入を上回る金額が、借入金の返済や利息の支払いに充てられるといっ

た有様になっていました。こうなりますと、連年赤字になりますので当然借金総額は、多額なものになっていきました。

この多額の借金が目に付くようになったのは、天保期からのことで、藩主が幕府の要職に就いたことが一番の原因のよ

うです。継之助が藩政に登場すると直ぐに始めたのは、藩主の辞任運動だったということは前に書きました。

 財政再建には、長年の慣習となっていることを見直しして、必要でないものは思い切って廃止し、必要なものも有効

に機能するように改めていくことが必要です。その為には、今までとは違うということを分からせるためにも、綱紀を

引き締めて清潔な人材を用いることが基本となります。藩自らも襟を正し、自ら苦しまなければ、藩内の領民の協力が

得られないことになります。

継之助の財政再建策は、村松忠治右衛門という良き実行者がいましたが、他にも改革派の中から、有能で清潔な人材を

適材適所に配置しました。郡奉行時代や町奉行時代にも、このために色々やってきたことは、これまで見てきました。

継之助は当時としては、きわめて優れた経済感覚を持っていたということになります。

財政再建2

 長岡藩は、「良知の人 河井継之助」石原和昌著によると、1849年の時点で借金が23万両もあったそうで、それ以後

も増え続けたということです。現在でいう一般会計の収入が2万1千両と少しですから、きわめて多額の債務を抱えて

いたことになります。

このような多額の債務を抱えている場合の、財政再建は、借入利息の免除や、返済金の長期分割による棚上げ、更には、

債権の放棄をしてもらうことが考えられます。しかし、どれも相手があり難しいものですが、中でも債権の放棄は簡単

にいくものではありません。債権者に苦しみを負わせるだけではなく、藩当局も真剣に努力しているということでなく

ては、とうてい納得してはもらえません。

 継之助はその為、財政悪化のための非常措置として、藩侯の持っている什器・書画・骨董類を売却して藩の収入に入

れました。今でいうと、会社の借金に対して代表者家族の持っている個人財産を藩のために提供することになります。

さらに、全藩士に対して当面の間、救米から人数分の食料を残して、全部を借り上げることにしますした。

こちらは、全社員の給与の減額ということでしょうか。

そうして、債権者に対して、債権放棄をしてもらうことにしました。最大の債権者、今井孫兵衛に対して継之助が熱心

に説き、3万両の債権を放棄してもらいます。その上新たな献金までさせることに成功しました。同時に今井孫兵衛を、

藩の会計方に任命して上士に取り立てました。

こうして、最大の債権者の協力を得た上で、他の債権者に対して交渉を始めました。

 また、藩内から広く献金を求め、献金者には藩侯の名前で役所に招待して、酒や肴をふるまったこともあり、予想以

上の献金を集めることが出来たといいます。

臨時の御用金やこれらの献金については、その金額や使途についても領民に知らせています。1867年3月には、前年の

御用金や献金総額は、10万2874両1分で、その内7万3482両は非常時の出金と軍器新調費で、残金は準備金としていま

す。当時藩内に、このような発表をすることはきわめて希なことだったと思います。継之助が、領民のことを念頭に置

いて改革を進めていたことの表れではないでしょうか。

 このようにして長岡藩は、きわめて順調に財政再建が進むことになります。

財政再建3

 河井継之助の財政再建は、すこぶる上手く行きました。しかしながら、戊辰戦争直前には、数十万両におよぶ藩のす

べての借金を返済して、なおかつ、十万両の余剰金を生んだと書いてあるものもありますが、どうでしょうか?

このように思われたのは、継之助のもとで財政改革の実務を担当した村松忠治右衛門が、晩年に書いた「思出草」によ

るものと思われます。確かに、1867年の末には、10万両近い余剰金があり、領民の前でそのことを発表したようです。

しかしながら、「河井継之助 稲川明雄著」(恒文社)では、「・・かくも急激に財政を安定させたとするいままでの

史書には、はなはだ疑問を覚える。」(P64)とあります。

 前回と繰り返しのようになりますが、直接的な借入金政策の成功例を考えると

1 借金の棒引きに成功したもの・・・債務はなくなります。

2 利子の免除に成功したもの・・・・元本だけの返済になります。

3 返済期間の大幅な延長に成功したもの・・・負担額が減少します。

となります。1〜3までの組み合わせもあったことでしょうが、何れも大きな効果を持ちます。

 しかし、当然の事ながら、すべての借金が、1の棒引きになったわけでは無いでしょう。返済期間の長期繰り延べの

結果、長期間の返済となったものも当然あったはずです。

そのように考えると、「すべての借金」を返したのではなく、その会計年度に返済期限のきたものだけを返したと考え

るのが、常識的と思われます。交渉の結果、長期返済に変えて貰ったのを、使わない手はありません。

そのようだとしても、河井継之助が行った財政改革は、きわめて短期間に赤字財政を克服した、まれにみる成功例だと

思われます。

 

7 兵制改革

 

  長岡藩も、藩主が幕府の要職を努めるなどしていますので、軍備の近代化には無関心であったわけではないのですが、

殆ど進んでいませんでした。原因は、藩士達の意識改革が出来なかったからでしょう。藩士が皆、子供の自分から、武

器の代表としての刀を稽古してきた時代ですので、難しいことです。この点は東北・北陸という風土にも、関係があり

そうです。

司馬氏の「峠」では、江戸へ出て義兄の梛野嘉兵衛が、「刀は武士の魂ではないか」と言うのに対して、「わしわな、

長岡藩の武士どもには刀を差させまいと思っているのだ」と言い、武士は両刀を捨て世界最新の兵器で武装すべきだと

言います。

 継之助は、西国を旅した経験もあって、兵制の洋式化には積極的に取り組みました。

第一は、銃や砲などの新しい武器の購入です。長岡藩が利用するのは、新しく開港した横浜です。当時イギリスは、主

に薩摩・長州等の西南諸藩と取引をし、遅れてきたフランスは、幕府に食い込んでいました。横浜でも、イギリスやフ

ランス商人の勢いが盛んでしたが、継之助が選んだのは、その両者ではなくスネルやファブルブランドでした。

継之助は、彼らから主にミニエー銃を購入し、長岡に送りました。「愛想河井継之助」(中島欣也著)には、「長岡の

郷土史家、高島一男さんの調査では、戊辰の2、3年前から、三国峠を越えて長岡へ送られた新兵器の量は、おびただ

しかった・・」とあります。この頃の殆ど全ての東北諸藩は、まだこういった新しい武器を買う余裕はなかったようで

す。

ただ、ミニエー銃といっても、長岡藩が購入したものの大部分は先込式のものですが、それでも武器については、一応

薩長と同じようなレベルになったものと思われます。

  武器を購入しても、使い方を知らなければ役に立ちません。軍隊となるためには、使い方を教え、さらに集団として

の訓練も必要になってきます。

継之助はそのことも考えていて、1867年9月12日にファブルブランドが発行した領収書をみると、歩兵操練書、銃砲マ

ニュアル、辞典なども購入しています。後年になりますが、掛川藩士の福島氏は、継之助がファブルブランドの家で、

フランスの兵器や兵制を熱心に研究している姿を見たと言っています。

 購入した銃は、藩士へ安い価格で譲り渡そうと思ったようですが、一部の裕福な藩士しか買えなかったようで、その

後は希望者に貸与することになりました。更に、1867年12月18日には、銃の取り扱いに早く慣れるように、全ての藩士

に1挺ずつ預けることにしました。この銃の中には、当時最新鋭の、元込め式で標準器付きの螺旋銃であるエンフィー

ルド銃もあったようです。

以前NHKの番組で、河井継之助を紹介している番組で、畑から出てくる当時の銃弾を見て、銃砲の専門家がエンフィール

ド銃であると言っていました。

 また、大砲も新式砲31門を揃え、その上に河井継之助を一躍有名にした、ガットリング砲も2門揃えました。ガット

リング砲は、スネルから1台五千両(一説には六千両)で購入したもので、当時の日本には3台しか無かったと言われて

います。

 次に藩士の訓練ですが、継之助は、藩校の隣にあった藩主の別荘を、洋式の訓練所としています。又以前からあった中

島の教練場を大幅に拡張したうえに、射的場を改築して新たな兵学所を造りました。

この練兵場で訓練を受けるのは、14才から65才までの藩士全員でした。

家老や参政といった重役も、訓練を免れませんでした。司馬氏の「峠」でおなじみの継之助の親友である医師の小山良運

さんも、この訓練には参加させられたようです。この訓練の参加を免除された唯一の人は、小林虎三郎の弟の雄七郎だけ

だったといいます。雄七郎は秀才の誉れが高く、ために学問に専念するように言われたそうです。継之助はどうだったの

でしょうか?やはり、訓練には参加したことでしょう。後年の北越戦争で、長岡城が攻撃されたときには、継之助は自ら

ガットリング砲を操作したといいますから、もしかするとガットリング砲の操作の教授方として、教えていたのかも知れ

ません(妄想モード)。(^-^)

 教授としては、かつて、江川・下曽根のもとで学んだ、森一馬・森源三・稲垣才七・九里孫次郎等が当たり、兵の進退

等の集団行動は主にフランスの陸軍操典によって行われたそうです。

 兵制改革については、鵜殿団次郎が1866年7月付けで藩主に対して、兵制改革の意見書を提出しているが、今回の河井

継之助の兵制改革も、鵜殿の意見書の良いところは取り入れて行われたようです。

 1868年3月、長岡藩は兵制を洋式に改めました。藩士を銃隊で組織し、8小隊で組織された4大隊としました。小隊は

全部で32となり、1小隊は36名で編成されますので、全部で1152名の軍隊となりました。

 兵制改革をした結果、洋式の軍隊となってみると、これまでの身分と一体となった家禄がどうも不都合に感じられる

ようになりました。そこで、家禄の改革に取り組む必要性を痛感しました。しかしそのことは、徳川時代に続いてきた

身分制度を、一変させることになります。北陸の小藩が、このことを考え実行したと言うことは、驚くべき事といえる

でしょう。

司馬氏の「峠」では、河井継之助は良運さんに「武士の石高制を止めようと思うのだ。西洋の軍人官吏のように俸給制

にしたいと思うのだが、どうだろう。・・・(中略)・・・・平時ならとてもできぬ。いまならできる。」と言ってい

ます。石高制の廃止までは行きませんでしたが、禄高の平均化に取り組みます。

この禄高の平均化は、河井継之助と村松忠治右衛門が考えて、実行したものだと言われます。

 1864年の長岡藩家中分限帳によると、当時の藩士の知行は以下の通りです。

(「河井継之助を支えた男」立石優著より。石高の階級区分は一部変更しました)

1000石以上       4家

400石〜999石     10家

200石〜399石     40家

100石〜199石     135家

 50石〜 99石        104家

 25石〜 49石     239家

 25石未満       50家

合計は、582家で52313石になっています。1家当たりの平均は、89.9石となります。100石未満の家が、全体の67.5%

を占めています。

ちなみに、昨年の年末のドラマ「最後のサムライ河井継之助」では、家老の稲垣平助の2000石は現在の貨幣価値に直す

と1億3600万円と言っていました。

番組参加者の皆さんが、一様に「エーそんなに多いの」と言っていましたが、この点は誤解があります。

2000石の筆頭家老の家は、それ相当の家人を雇わなければなりません。それは単に家事使用人というだけではなく、戦

になったならば、連れていく家来の人数、持参する武器の数や馬等まで、家禄によって決められています。したがって、

全て自分が自由に出来るお金が、1億3600万円とは全く違うものです。

したがって、この改革と同時に、大身の者の家来(陪臣)は、これを契機として直参となり、士分や足軽に取り立てら

れることになりました。

 長岡藩の行った改革は、藩士の禄高の基準を100石にして、100石以上の者は高禄な者ほど大きい率で下げ、100石未

満の者は100石に近づけるように禄高を増やすことにしました。100石というと、先ほどのTVの計算を採用すると、現在

の貨幣価値では680万円になります。  

 禄高の改正は、村松忠治右衛門がまず大幅に禄高が減る家老の説得に当たりましたが、家老の山本帯刀が真っ先に賛

成してくれたようです。さらに山本帯刀は、やはり家老の稲垣主税や牧野頼母の説得にも当たってくれたようです。

最後に、最高の禄を貰っていた家老の稲垣平助を説いてから、前藩主の牧野雪堂の了解を求めにいったところ、雪堂は、

重役一同同意していると訊いて、大変喜びました。このあたりは、前藩主雪堂も、なかなかの人物のようです。

 江戸から藩主が戻って直ぐの1868年3月1日、全藩士に登城を命じて禄高改正を発表しました。この時には、河井継之

助は江戸にいて不在でした。

この禄高の改正により、藩士の禄高は最高は500石、最低は50石となりました。この禄高の改正は、実力主義の人材登

用にも道を開くことになり、これにより、軍隊の近代化も進むことになります。

この時に、家老の稲垣主税が趣意書を全藩士の前で読み上げました。その現代語の要約が「河井継之助を支えた男」立

石優著に出ていますので、以下にそれをそのまま書きます。

「当今は容易ならぬ形勢に立ち至り、感慨にたえない。今こそひたすら人心一和して忠勤に励みたい。これまで先祖の

功労によって俸禄に厚薄あり、その分限に応じたご奉公により軍制も成り立っていたが、この度の改革ですべて銃隊に

編成されることになった。われらますます強兵の実をあげるべく決意を固めねばならない。事に臨んで身命をなげうつ

に貴賤はなく、上下苦楽を同じくせねば、一和の筋もこれ亡きことになる。大身の面々の難渋は気の毒であるが、家風

を一新せんとなされる主意をよくわきまえて、忠勤いたすべきである。」

 河井継之助は、兵制改革の他に学制の改革にも着手しました。

1、藩校の嵩徳館で講義するのは、朱子学としました。

  従来嵩徳館では、古義派と朱子派とを場所を分けて教えていましたが、両派は、 仲が悪く反目し会っていました

ので、他派の本を読むことを禁ずるなど排他的な古 義派は採用しませんでした。藩内の人心の一致が大切との思いが

あったのでしょう。

2、寄宿制度を設けました。

  従来は通行生のみであったが、広く藩内から優秀な人材を求める必要があるとし て、藩校の寄宿寮として「造士

寮」を造り、小山良運さんに額を書いてもらいました。
 小山良運さんは大阪の適塾で、河井継之助は江戸で、それぞ

れ寄宿舎生活をしていますので、その時のことが参考になったのでしょう。寮生活で寝起きを共にしながら、切磋琢磨

するということは人間形成の上で効果があったのでしょう。

  この嵩徳館「造士寮」の寮長には、酒井貞蔵を抜擢しました。しかし後年この酒井は、河井継之助の政策の反対者

の中心人物の一人になります。



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