第四部 北越戦争     

 

1 建白書

 

 

 話は、長岡藩が禄高の改正を発表した1868年3月より少し遡ります。

前年の1867年10月14日、徳川慶喜の大政奉還があります。大政奉還直後に、朝廷は諸大名に上京を召命しますが、翌

11月までに上京した藩は、薩摩・芸洲・尾張・越前の大藩以外には、近畿地方の小大名が十数藩だけでした。翌月の

12月に入ってからでも、上京したのは土佐藩ほか僅かの藩でした。

多くの大名は、上京を辞退したり上京延期という具合でした。この先どうなっていくのかが全く分かりませんので、

先行きを見守っているしかないというところでしょう。また多くの藩では、藩内の意見がまとまらずに混乱していた

ことも大きいでしょう。

 この時に当たって、河井継之助は藩主の牧野忠訓に進言します。以下、「河井継之助」(稲川明雄著)から、その

進言を引用します。

「天下の大勢、まさに一変とす、この時に際し、拱手して、大勢の推移を傍観せむは、とみに徳川家に対して、義理

を欠くの挙たるのみならず、王臣たるの道にも背き申すべし、御家は閣老に就かせられし家柄にして、特に雪堂公は、

近く所司代職を御勤め遊ばされし御縁故もあれば、すみやかに御上京のうえ、公武の間に斡旋あらせらるることこそ

しかるべけれ。」

 この継之助の進言に対して、鵜殿団次郎や安田鉚蔵らは、状況は変化するので後日のことを考えると、藩主の上京

はすべきではないと反対しました。

 しかしながら、前藩主牧野忠恭と藩主牧野忠訓は、河井継之助の進言を採用し、上京することに決定しました。

 河井継之助は藩主の牧野忠訓に従って、まず江戸へ行きます。江戸で藩士を揃えて、11月25日に江戸藩邸を出発し

ます。品川沖に停泊している幕府の軍艦順動丸に乗船して品川を出て、29日朝兵庫に到着します。

幕府の軍艦を利用できるのですから、徳川幕府もこの頃は、形式に囚われずに随分開かれたものになっていたのでし

ょうか。

初めの予定では、直ちに京へ行き朝廷へ建白書を提出するハズでした。しかしながら、藩主の牧野忠訓は体が弱く、

慣れない長旅で病気になってしまいました。大阪の蔵屋敷で、しばらく療養していましたがよくなりませんので、河

井継之助に自分に代わって朝廷へ行くように命じました。

12月15日、そこで河井継之助は大阪城中で老中板倉勝静と会い、かねて用意していた建白書を見せ、さらに自分の考

えも説明しました。

老中板倉勝静は、建白書や説明を聞き大いに頼もしく思ったようで、徳川慶喜にもこのことを伝えたようです。

 そうして、河井継之助一行は12月19日に淀川を上り、20日に北野の林静坊に入り休息をとりました。

そして22日、継之助は藩主忠訓の名代として、副使三間市之進、付き添え渋木成三郎と共に、参朝しました。建白書

の内容のこともあり、この時には決死の覚悟をしていたことでしょう。

 この建白書を出すことについて、司馬氏の「峠」では、その意義を継之助に以下のように言わせています。

「・・・。こんにち殿様は義侠によって上洛あそばす。このとき御病気なるがゆえにお控えなされたとすれば、あと

百年のお命があったとしてもそれは無駄というものだ。いま徳川家は危機に瀕しておる。三河以来の譜代におわす牧

野家の御当主としては、このとき敵地へ乗りこみこのとき陳弁せねばなんのための譜代であろう。世々七万四千石の

御禄をいただいてきたのは、この一日のためにある。男子とはそういう一日を感じうる者を言うのだ。」

継之助の実際の覚悟も、これに近いものがあったと思います。そうでなければ、この時期にわざわざ長岡から上京は

しません。「進退は義をもってすべきもの」という、継之助の考えが表れているところだと思います。

 長岡藩の建白書の内容は相当幕府寄りで、部分的には薩長や朝廷を非難しているようなところもあります。幕府の

立場を申し開きして、場合によっては朝廷をも説き伏せようと、覚悟していたことだろうと思います。継之助は、議

論には絶対の自信を持っていました。この時期に朝廷へ、このような極めて幕府寄りの意見を陳べることはかなりの

勇気が必要です。場合によっては朝廷に不敬なりとして、処罰されることも考えていたことでしょう。その場合は、

責任は一身に背負う覚悟は出来ていたハズです。

 さて、議定所に向かった継之助は、いよいよ長谷三位と五辻少納言の前で、建白書の趣旨を説明します。

 この建白書は2千5百字にもなる長文ですが、今回はこの文の紹介です。

以下はその要旨です(「河井継之助」稲垣明雄著の書き下し文を元にしました)。

 朝廷よりお召しがあったのはありがたいことであるが、牧野氏は徳川家の臣下で朝廷から見ると陪臣であるので、

朝廷からの直接の命令は礼儀上からも問題があり、迷惑であります。

徳川氏が大勢を奉還したのに対して、朝廷がすぐにこれを許したのは、この上ない大事件で皆ひどく驚いており、天

下の乱れや万民の苦しみも、皆このことが原因で起きています。さればこそ、上京して建言申し上げます。

 そもそも保元以来、政権が武門に移ってからも色々ありましたが、徳川氏になってから天下が治まりましたので、

朝廷も全て政治のことは委任されたのであります。徳川時代になり、世の中が良く収まり太平なのは、徳川氏の功績

であります。しかしながら、長年の太平に慣れてしまうのも世の常で、特に嘉永以来外国船が来るようになってから

は、公武の間にも、議論が様々でてきました。

この世情を悪用し、尊皇の名を利用して私憤で世を乱すものが現れ、以来世に中が不安となり、長州征伐等の事件も

起こったのは実に悲しむべきことです。

外国との付き合いも色々な考えがありましたが、既に先帝の時に交際することは許可されています。現在では、初め

攘夷を唱えていた藩でも外国と親睦を深めていて攘夷など出来ないのは明らかであります。さすれば、朝廷もこの点

においては、先後の命令は一貫しておりませんので、恐れながら反省すべきであります。このように、攘夷抗戦を唱

えた者が自らの先後の反復を恥じないで、徳川家のみに責任を取れということが正しいことと言えるでしょうか。

 徳川家は天下の尊敬を受け、宮殿にて生活していたため下々の生活に暗いところはありましたが、現在はそのよう

なことをしているわけには行かず、必死に政治をしています。また、親藩や譜代大名も追々発憤することでしょう。

また、いまの混乱が続いて世の中が四分五裂になってしまえば、人々は今までの徳川氏の恩を思い出すでしょう。

富国強兵や皇国治安のご命令は、先年より度々出されているが、平和で安眠している者には、なかなか急には効果が

上がりません。内外多難の現在では、国の方針も定まらないときに、ありがたいご命令が出たとしても、タイミング

が悪ければ天下の諸侯は無益の奔命に疲れてしまいます。同じように公武の齟齬より生じる、皇国一の徳川氏の疲弊

は、徳川氏だけの疲弊にあらずして皇国の疲弊となることを理解しなくては、外国より侮られることになります。

任せて疑うのは乱の元となることを考え、これまで通りに全てを徳川氏に委任することにより他には、治安の道はな

いものと思います。

大政奉還をいったん受け入れてから直ぐに改めると、かれこれうるさく言う者もいるでしょうが、その場合は朝廷よ

り訓戒すべきであります。

 以上は、卑賤の身でありますが、天下万民の安危に係わることなので、及ばずながら恐れを顧みずに申し上げまし

た。不肖の身で天下の事情も全て知っているわけではありませんが、どうかご採用下さればありがたき幸せでありま

す。

 この建白書は、継之助が推敲を重ねて苦心して書き上げ、決死の覚悟で提出したものです。長岡藩の藩主牧野忠訓

は、継之助が朝廷へ建白書を出しに行く際には、「今日の名代容易ならず」として、手ずから脇差しを与えています。

藩主の牧野忠訓は、純真で徳義を重んじる気骨ある人物であったと言われます。上京した長岡藩の藩士達に「万一暴

徒に襲われても、決して騒いではならない。斬られれば黙って斬られよ。それが長岡藩が朝廷へ誠意を見せる態度だ。」

と戒めた人でもあります(「河井継之助」稲垣明雄著)。ちなみにこの言葉は、継之助が藩士達に言ったとしている

本も多いです。

 しかし朝廷では、拝見するのでしばらく控えているようにと言い残してその場を去り、その後、承知したので引き

取るように伝えてきました。徳川家のために朝廷を動かしたいとの目的は、朝廷により無視された格好になりました。

朝廷には無視されたのですが、長岡藩が建白書を提出したことは在京の藩では割合知られていたようです。米沢藩の

雲井龍雄は、全文を写し取り国元へ送っています。

 こうして一大決心をして提出した建白書も、取り上げてもらえないままに、12月28日に淀川を下り大阪へ行きます。

大政奉還直後のこの時期は、朝廷方と幕府方がすさまじい駆け引きをしていた時であり、朝廷にはこのような幕府寄

りの建白書を取り上げている余裕など全く無かったことでしょう。しかし戊辰戦争に入ってからも、朝廷と長岡藩の

接触では、この建白書が持ち出されたことは無かったようです。

 12月28日大阪へ着いてから大阪城へ行くと、城内は主戦論一色になっていました。江戸で、薩摩藩の三田屋敷を焼

き討ちしたことが伝わったことによるものです。翌年の1868年元旦、徳川慶喜はついに「討薩の表」をあらわし、上

京することとして諸藩に対して出兵を命じます。

 河井継之助はこれを聞くと大変心配となり、板倉老中を訪ねて、この局面を平和理に解決するために、もう一度藩

主と共に上京して幕府のために斡旋しようと提案しました。さらに現状で、幕府のために考えれば大兵を率いて上京

するのは朝敵になり断じて行うべきではない。今は、一日も早く関東に戻り内政を整え、来るべき時期を待つべきで

あると説きました。

しかし板倉老中は、ことここに至っては、もはやどうにも止めることは出来ない、と匙を投げている状態です。

継之助はそれでも諦めきれずに、更に主戦派の平山図書頭を訪れ、同様の意見を述べます。このような継之助の行動

を見ると、彼が単なる幕府擁護を考えていたのではなく、日本という国を意識していたのが分かります。

それでも埒があかないので、主戦論で沸き立つ会津・桑名の諸将に面会して、出兵上京の名分のないこと論じます。し

かし、どうしてもあえて君側の奸臣を取り除くというのなら、京都へ通じる要路を絶つべきであり、そうすれば京都

は食料が欠乏して、自滅するに違いないと述べました。

しかしながら、「討薩の表」で沸き返る強硬派の人々は、薩長など鎧袖一触と考えていましたので、誰も耳を貸しま

せん。

「河井継之助の生涯」安藤英男著P198によると、会津藩の南摩綱紀は、後にこの当時のことを回想して、「継之助、

真に東北の一豪傑、若し慶喜をして、その説に従わしめば、兵を伏見に出さず。則ち内乱起らず。人民死傷せず、財

貨濫費せず、国力衰耗せず。而れども其の説行われず。嗚呼命か、惜しいかな」と書いています。

 

 河井継之助の、兵を率いての上京阻止の働きも効果が無く、とうとう鳥羽伏見で1868年正月3日から、戦闘が開始

されます。

長岡藩には、大阪玉津橋の警護が命じられました。藩兵を部署して警護していると、幕府軍の敗報が、次々に飛び込

んできます。しかしながら7日になっても、幕府からは何の指示もありません。継之助は、どうなっているのかと大

阪城へ行きますが、そこで既に、徳川慶喜が密かに城を脱出して、江戸へ向かっていることを知ります。大阪城内は、

てんやわんやの大混乱です。

そこで河井継之助と長岡藩兵も7日夜、大阪から大和路へ行き、伊勢の松坂から、海路で三河の吉田へ行きます。藩

士の中には、勝手に持ち場の大阪玉津橋を離れてあとで幕府からお叱りを受けることを心配する者もいましたが、命

令をする人が帰ってしまったのだから構うことはないと、継之助は当然のごとく押し切りました。

 当時長岡では、京阪で戦争が起きそうだとのことで、藩主を助けるためにと、花輪馨之進率いる1小隊を派遣しま

す。この花輪は西近江まで行ったときに、幕軍の敗報を聞きます。そこで小隊は長岡へ返して、自分のみ藩主を捜し

ます。そして遠州の掛川で、藩主一行に追いつきました。

花輪から出兵の様子を聞いた継之助は、国をしっかり守っているべきで、僅かな兵を率いてもし薩長とでも戦かった

らその時には朝敵になり、取り返しが付かないことになると言い、非常に立腹したといいます。一緒に藩政改革もや

った重役でもある花輪が、慌ててどうするのだ、との思いだったのでしょう。

 継之助は状況を把握するために、一足早く花輪と江戸へ急行し1月18日に着きます。そこから国元へ、状況を知ら

せると同時に指示もしているようです。藩主一行は、2月1日に無事江戸藩邸へ到着します。

 1868年の1月に江戸へ帰った徳川慶喜は、当初抗戦か恭順か態度をハッキリさせませんでしたが、2月に恭順と決

めると、同月12日江戸城を出て上野の寛永寺で謹慎します。しかしながら幕臣の多くは、恭順を不満として抗戦を叫

び、情勢は混沌としていました。

翌月の3月13・14日に有名な西郷と勝の会談により、江戸城総攻撃は中止になりました。

 河井継之助は、情勢がまだまだ流動的であるため、江戸へ留まります。しかし長岡藩が騒然となっている江戸にい

ては、無用な争いに巻き込まれる恐れありとして、藩主一行に腹心の三間市之進を付けて2月20日に、長岡へ出発さ

せます。

藩邸の引き払いの準備を進め、藩邸にあった書画・什器や骨董品をファブル・ブラントやスネル等の外国人へ売り、

その代金で銃砲や弾薬を購入しました。また、江戸では藩邸の人員を縮小する藩や藩邸を引き払う藩もありました。

さらに間もなく開戦するとの噂により、戦争を避けるために疎開する者が多く出てきて人口が大幅に減り、その為米

価が大きく下がりました。継之助は、この大幅に下落した米も大量に買い込みました。

 1868年3月3日、河井継之助は江戸の藩邸を引き払い長岡へ向かいます。長岡藩士約150名(50名とするものもあり)

と一緒ですが、帰りはスネルの汽船コリア号に乗ります。ペリーが黒船で浦賀へ来て、江戸中(日本中)が大騒ぎをし

たのが1853年ですから、それから僅かに15年後のことです。北陸の小藩の長岡藩士150名もが、その黒船に乗って長岡へ

帰るとは、藩士の殆どの人が想像もできなかったことでしょう。

このスネルの汽船には、長岡藩士の他に、会津藩士約100名と桑名藩主と桑名藩士約100名も乗っていました。狭い船内

ですから、各藩士同士でも色々な話をしたことでしょう。

 人間の他には、有名なガットリング砲2門その他の銃器類、江戸で下落していた大量の米と2万両もの銅銭も積み込

んでいました。

安値で買った米は、値段の高い蝦夷地の函館で売却し、銅銭は江戸と新潟の相場価格の違いに目を付けたもので、新潟

では早速両替商を呼んで売却し、1両で約3貫の利益があったといいます。

緊迫の中で帰国するのにも、途中でこれだけのことをやってしまいます。当時の武士としては、珍しいほど経済の仕組

みをしっかり理解していたと言えるでしょう。また彼の学問が、彼の言う実学であったことが分かります。

 

2 武装中立

  

 継之助が江戸から長岡へ帰ってきたのが、3月28日であります。しかしながら、北陸道鎮撫使はそれより前の3月15

日に越後の最大藩の高田に着いていました。北陸道鎮撫使はあらかじめ、越後各藩に高田へ集まるように命令していま

した。

長岡藩ではとりあえず、植田十兵衛を代表者として派遣しました。

 当時の長岡藩は、藩論が抗戦派と恭順派に別れていました。藩内では、河井継之助は、朝廷に対しては抗戦するだろ

うと思っているものが多かったので、朝廷と戦うべきではないと考えた恭順派は、継之助がいないこの時を、絶好のチ

ャンスと考えたようです。長岡藩論を一気に和平へと持っていくための、運動を始めました。

恭順派は、藩主の意向や長岡という土地柄の影響もあって、数の上では少数でした。

主な人としては、家老の稲垣平助や安田父子、酒井貞蔵・本富安四郎等の長岡藩校の教授達がいました。恭順派の長岡

藩校の教授達は、藩主へ、徳川家が既に恭順しているのだから、長岡藩も王臣であるので天朝へ従うべきであると伝え

たり、政庁へも意見を述べたりしました。

しかしながら長岡藩の壮士達は、薩長の暴慢に我慢できない気持ちを持つものが多く、酒を飲むと「薩摩・長州を、ま

な板に乗せて 大根きるように、チョキチョキと」歌っていたようですので、藩内の大勢は抗戦派だったようです。

 恭順派の中の一人に、安田鉚蔵がいました。司馬氏の「峠」では、河井継之助に「もし鉚のやつが戦国に生まれてい

れば、素手で百万石くらいとれるかもしれない」と言わせているように戦場の指揮能力には優れていたようです。

継之助は自分が江戸にいて留守中に、安田鉚蔵が政庁で恭順論を説いたと聞き、鉚蔵を叱りますが、納得せず恭順論を

説きます。そこで、継之助は後日鉚蔵を自宅へ呼び、じっくりと説得しようとしますが、ここでも議論となり自説を曲

げませんでした。

継之助と時間をかけて二人で議論して、負けないとはそれだけでも大したものだと思いますが、この安田鉚蔵はその日

以後も継之助の政策を激しく批判し続けました。激しい議論中に興奮して、上司の継之助を罵倒したとも言われます。

そこで、ついに蟄居を命じられ、家督は弟に継がせることにしました。

 後の戊辰戦争では、長岡落城の際に安田鉚蔵は父や弟と逃亡して、西軍に下りました。

 この安田鉚蔵の河井継之助に対する評が、今泉氏の「河井継之助伝」にのっているそうですが、それを要約したもの

が「越後長岡藩の悲劇」磯部定治著(新潟日報事業社)に載っています。以下そのまま引用します。

1、非常に自信家で、物事に辛辣である。

1、普通の人が言い出せないことをズバズバ言い、人のやれないこともどんどんやる。

1、同僚や部下を罵倒することはしばしばで、物事をやろうとする時は、世間が何と言お うが全く気にせず「裁決流

 るるが如く果断決行」して邁進した。

1、惜しむべきは己を信ずるに厚く、頑固で人を容れることが少なかった。

1、有名になろうとする気持ちがたえず働いており、事件を好んだ。そのため「終に名利 の犠牲となりて悲惨なる最

 期を遂ぐるに至れり」であった。

 前回書きました、安田鉚蔵の蟄居処分が、恭順派の人々を大きく刺激することになりました。長岡藩牧野家のために

よいと思って、一生懸命に建言した者を考え方が違うからと言って処分するとは何事か?と云うわけでしょう。

河井継之助の立場からすれば、ここは藩内部では足並みを揃えて行かねばどうしようもない時なのに、藩内を乱すこと

ばかりしている。どうしてそれが分からないのか?と苦々しく思っていたことでしょう。

 恭順派の反発は、予想以上のものがありました。河井継之助に対する斬姦状を書き綴り、継之助の暗殺をしようと思

うところまで行きました。その中心人物は、酒井貞蔵でした。しかも、学制改革の際に、脱藩者であった酒井貞蔵を大

抜擢して、藩校崇徳館の寄宿舎である造士寮の寮長にしたのが、他ならぬ河井継之助だったのです。

 この斬姦状の意訳文が「越後長岡藩の悲劇」磯部貞治著に載っていますので、以下にそれを引用します。

斬姦状

家臣としての道は忠孝だけである。不忠不孝の者は即ち家臣ではない。

今姦臣(河井継之助)が、ひそかに藩政の権力を握り、その徒党は挙げてあやまちになびく。徒党は主君の明をおおい

ふさぎ、天朝を蔑み、列藩を欺き侮り、数百年来無傷の牧野氏を、天地に容れざる朝敵に陥れて、自己の意見をあから

さまに主張しようとしている。藩はこのため滅亡するきざしを見せ、牧野家はこのため祖霊をまつることもできないこ

とになる。

これを忍ぶべきかまた忍ばざるべきか。実に忠臣孝子悲憤痛哭し、涙を流し胸もつぶれんばかりで、切歯扼腕するとこ

ろである。

ここで我々は自己の力をも考えず、天におわす祖霊を頼り奸臣を斬って天朝に謝り、牧野氏のためにまさに後嗣の絶え

なんとする藩を、万世の安きに置かんとする。この同盟者が、かりそめにも盟約に違反すれば即ち天地、山川、鬼神、

天におわす牧野氏の祖霊及び我々の祖霊が、相共に罰として長岡に住する子孫を根絶やしにしてもよい。

諸君、謹み警戒しよう。この同盟からあえて抜けることのないように。 

 この酒井貞蔵の斬姦状に賛同し、河井継之助は自分が斬ろうという者も出てきました。それが、藩士の加藤一作で、

河井継之助を斬る刺客は彼を中心として、何名かのグループが選ばれ暗殺計画を練ります。

その結果、暗殺の場所は、河井家の菩提所の長興寺裏、決行日は河井家の先祖の祥月命日としました。長興寺近辺は町

はずれにあり人通りも少なく、しかも命日ならば必ず立ち寄るであろう。

 一方で河井継之助の一派の方でも、このような企てがあると言うことは、薄々気が付いていたようです。側近の者が、

継之助に注意しても、「俺を殺せるほどの者はいないだろう。」と言っていたそうです。

さて、いよいよその日がやってきました。当日の夜、加藤一作等の刺客はお寺の物陰に潜んで、河井継之助を今か今かと

待っています。その前に河井継之助は現れました。刺客等の存在に気が付いたのか、継之助は陽明の詩をうたいながら刺

客の前を、堂々と歩いていきました。そのあまりにも悠然とした態度に圧倒されて、切り込むタイミングを失ってしまい

ました。継之助の得意とする「気」で勝負したものでしょう。

こうして河井継之助暗殺計画は、失敗に終わりました。

この後も、加藤一作は河井継之助を狙ったとも言われますが、暗殺は未遂に終わり、この件については処分者も出ません

でした。

 この後、恭順派の拠点となっていた藩校崇徳館に、河井継之助は腹心の鬼頭六左右衛門に1個小隊をつけて派遣し、恭

順派の動きを監視させました。その結果、恭順派は何も活動が出来なくなりました。

 話は少し遡りますが、河井継之助は、4月17日、全藩士を城中に集め藩として向かうべき方向を、藩主牧野忠訓の前

で藩主に代わって伝えました。

以下は、「河井継之助の生涯」安藤英男著より引用します。

 今般、奸臣、天使を挟んで幕府を陥れ、御譜第の諸侯、往々幕を背いて薩長に通ず。大いに怪しむに堪えたり。余、

小藩と雖も、弧城に拠りて国中に独立し、存亡を唯天に任せ、以て三百年来の主恩に酬い、且、義藩の嚆矢たらんと欲

す、と。

 譜代の長岡藩としては、恩のある徳川家に背くことなどすべきではない。「進退は義を以てすべきもの」というのが、

河井継之助の信念です。長岡藩の進むべき道も、どうするのが「義」に適うかと考えたのでしょう。日和見の多い諸藩

にあって、長岡藩は一人「義藩」の先駆けとなるという宣言でした。おそらく、藩主や前藩主の思いも同じ様なものだ

ったでしょう。

 司馬氏の「峠」で、安田鉚蔵を説得する際に洩らした秘策の、「そのときは、きかぬ側、それが会津であれ官軍であ

れ、討つ。この長岡藩が、だ」(同書より)という、両者の仲介役をするということも、考えていたことでしょう。

もっとも司馬氏は、直ぐその後で、「めだかが、鯨と鯱の喧嘩の調停をしようというようなものだ。」と書いています。

もちろん「めだか」は長岡藩のことです。(^-^)

 

3 小千谷会談

 

 さて幕末の越後は、小さな藩が多い上に、会津・桑名・米沢藩など各藩の飛び地があり、その上幕府の直領もありま

した。そのため、この時期の越後には、幕府の脱走兵を始め、会津や桑名の藩兵が入り込み戦争状態でした。長岡藩は

態度を保留していたとしても、西軍の出兵要求等については応じていませんでした。武力を用いるこの段階では、西軍

もハッキリ味方するもの以外は敵として認識していただろうと思います。すなわち、長岡藩は当然に武力討伐すべきも

のとして見られていたハズです。

 西軍は、雪峠・芋坂の会津軍と幕府脱走軍の衝鋒隊を破り、小千谷に進みここに本営を設けます。時に1868年閏4月

27日のことです。

これに対して、河井継之助は藩内警備のために出動していた諸隊のうち、小千谷に近い部隊を撤収させました。長岡藩

の南の防御の要となる榎峠周辺を、わざわざ放棄してしまったのです。直接的には、長岡藩兵と西軍が至近距離で対峙

していると、思いも寄らない突発的な衝突が起きる恐れがあるため、それを回避したものです。

この撤退については「河井継之助の真実」(外川淳著 東洋経済新報社)では、西軍と交渉を行うための切り札だった

と分析しています。

西軍からの出兵要求や献金命令も、あえて無視していた長岡藩が、西軍との交渉に臨む前に、戦略上の重要拠点である

藩境の南方高地から撤退し、最上級の誠意を示して見せたものだとしています。河井継之助は、長岡藩の誠意を形にし

て見せた上で、交渉に臨もうとしたものではないかというわけです。

 5月1日に、河井継之助は花輪彦左衛門(長岡城再陥落の際に戦死)を、小千谷の西軍本営に使わして、家老が嘆願

のために出頭したい旨伝えました。西軍はこの申し出を受けます。

 さて、5月2日の朝河井継之助は、藩随一の剣客といわれた二見虎三郎と従僕二人という身軽さで、小千谷会談に向

かいます。

同行した二見虎三郎ですが、この後は北越戦争に参加し、長岡城が再び落城した後は会津で戦います。しかし、8月25

日の戦いで負傷。その後、山形へ行き、そこで自殺します。

 長岡で信濃川を渡り、対岸では川沿いを遡るかたちで小千谷まで行ったようです。途中で西軍の一隊に会いますが、

応対は至って丁寧で本陣まで案内してくれます。西軍の本陣(もと会津藩の陣屋があったところ)へ行き、河井継之助

と二見虎三郎の二人は奥へ入っていきました。しばらくすると、片貝からの伝令が「御注進!御注進!」「ただいま会

津勢2千人片貝へ向かって進んできます」ということで、本陣は騒然となりとても会談をやっている状態ではありませ

ん。そこで一端退出することにして、信濃川沿いの旅籠屋で待機します。

この片貝の会津勢の進出は、西軍と長岡藩の小千谷会談を邪魔するために行い、その為、会津藩の佐川官兵衛隊が、わ

ざと長岡藩の旗指物の五間梯子を戦場に捨てていったと言われています。

このためその後に行われる会談は、本陣へ案内されたときとは明らかに違い、とげとげしい雰囲気に変わっていたよう

です。

 間もなく西軍よりの使者により、会談をするために指定された慈眼寺に向かいます。慈眼寺では、本堂右奥の間に継

之助一人が通されました。

迎える西軍は、土佐藩出身の軍監岩村精一郎、介添えとして、薩摩の淵辺直右衛門、長州の杉山荘一・白井小助が同席

しています。

 この小千谷会談へ向かう継之助のことを、藩主の忠訓は大変心配しますが、継之助は落ち着いていました。

信濃川を渡る手前では、このような勝手なことを言っていても、ばっさりやられてしまったら、それでお終いだ等と軽

口を叩いています。義に基づいて、やるべきことをやるという決心が決まっていたからでしょうか。

 さて会談の主な相手の軍監岩村精一郎は、当時僅かに23才の若者でした。この会談は結局、河井継之助の嘆願は聞き

届けられなくて、開戦という結果になるのは周知のことです。

 

 この会談での河井継之助の主張は、極めて簡単にいうと、今まで出兵も献金もしなかったことを詫びるとともにその

藩内事情を述べ、時間を貸してもらえば藩論を朝廷側に統一し、長岡藩が東北諸藩を説得するというものです。

後になってからの、岩村の回想では、この時の河井継之助の態度は堂々として、とても嘆願(お願い)に来ているよう

な態度ではなかったそうで、むしろ、西軍を言い負かすような風さえあったそうです。

河井継之助の交渉方法は、山中事件などを思い出すと、交渉の当事者本人へ、供も連れずに直接合い、彼自身の気合い

で説き伏せるようなことが多くあります。相手の本丸に単身で乗り込み、アッという間に片づけてしまいます。ですか

ら、この時もその方法を採ったと言えるかも知れませんが、上手くいかなかったのです。

 軍監の岩村精一郎が、河井継之助と同じ土俵の上で話を聞こうとせずに、一段も二段も高いところにいて、要求する

のみだったためでしょう。

岩村の回想でも、当時は河井継之助のことをいわゆる門閥家老の馬鹿家老だと思っていたようで、継之助の話を時間稼

ぎのためだと思ったのは、やむを得ないことかも知れません。このため、岩村は継之助の苦心の嘆願書を全く読みもせ

ずに、総督府への取り次ぎも拒否します。河井継之助は、尚も何回も繰り返して嘆願し、終いには岩村の裾を捉えて尚

も訴え続けましたが、岩村は振り払って会見を打ち切り、奥へ入ってしまいます。

自分の交渉力には絶対の自信を持っていただけに、さぞや無念だったでしょう。

 会談を打ち切られた河井継之助は慈眼寺を出ます。そして、小千谷の料亭「東忠」で、遅い昼食を黙々ととります。

食事中も、様々なことを考えていたのでしょう。継之助が食事をした、2階の座敷は今も残っています。

食事を済ませた後は、小千谷にある宿の「野七」へ行きます。しかし、猶も諦めきれなかったのでしょう。宿に着いて

からしばらくして、西軍本陣へ再び出向き、再度の会談の申し入れを繰り返します。しかし、やはり取り次いではもら

えませんでした。

その為、尾張・松代・加賀藩の陣屋を回り、会談の取り次ぎを、そしてそれがダメなら嘆願書の受け取りを頼みますが、

全て拒否されます。

岩村総督の回想として、「・・・後に門衛に聴く所によれば、河井は猶も幾度となく、本陣の門に来り、再度の面会を請

ひ、深夜まで其の付近に徘徊し、頻りに取り次がんことを求めたが、衛卒が之を承知しなかった為め、遂に已むなく引き

取りしとの事だ。」(「河井継之助の生涯」安藤英男著で今泉鐸次郎著の「河井継之助傳」より)とあります。簡単には

諦めきれずに、粘り強く、色々と努力を重ねたようですが、全ては上手くいきませんでした。

 ここに於いて継之助も、遂にもうこれまでと諦め、宿の「野七」へ引き返します。宿の周囲は、西軍の兵士で見張られ

ていましたが、宿では酒肴を命じて、二見虎三郎と酒を飲み、詩を吟じていたそうです。

会談の不調に無念の思いでいたのでしょうか、それとも、出来るだけのことはしたが、遂に戦になったとキッパリ覚悟を

決めた後の決意の酒だったのでしょうか?

 山県有朋の回想では、自分は河井継之助が小千谷に来たら拘留して置けと指示をしたそうです。しかしながら、この指

示が岩村総督に届いたのが河井継之助が帰った翌日だったそうで、間に合いませんでした。しかし、本当にその指示をし

たのかを含めて、事実は分かりません。本当にその指示が重要だと思ったなら、間に合うように出すことは簡単に出来た

はずです。

軍監の岩村は、河井継之助の使いが来た5月1の日に、山県のいる柏崎に使いを出しています。河井は、翌日小千谷にや

ってきて、昼頃岩村と会い当日は小千谷の「野七」に泊まっているのです。時間は十分にあったハズです。

 また、山県が河井を帰すなと指示したのは、自分が河井継之助と会って直接話し合うつもりだったのか、あるいは河井

を捉えて人質としてしまうつもりだったのかは分かりません。「脇役たちの戊辰戦争」(中島欣也著 新潟日報事業社)

では、山県の意図が、前者であったとしても、談判が不調に終われば、彼はすぐ後者の目的に切り換えたであろう、と述

べています。また、岩村が相手だったからこそ、河井は無事に帰れたのであろうといっています。

 小千谷会談の前までは、河井継之助は東軍と雖も長岡藩内に入れずに、中立の立場を採ります。また、その頃には藩内

の人から「いったいどうするつもりか?」と訊かれると、「いや、戦はしてはならん。戦してはならんでや。」と答える

のが口癖だったと言います。

これらのことから、継之助の採ろうとした方策はスイスのような「武装中立」とも言われます。継之助は、小千谷会談を

どのように考えていたのでしょうか?

1 ただ中立をしたい、西軍が長岡を無視してくればいい

2 戦の準備ための時間稼ぎ

3 最初から東軍として戦うつもり、小千谷会談はその戦のための名分を得るため

4 継之助は東軍に勝ち目のないことは分かっていたが、藩主・前藩主の強い意向に より、調停役として名乗り出た

 色々な考え方が出来ます。この辺りの考え方によっては、河井継之助はすごい人か、または、単に負けると分かってい

た戦をやり死んでしまった人、のようなつまらない評価にもなるのでしょう。

 私は、継之助の中立や調停役は本気だったと思っています。

その理由は、交渉が西軍によって一方的に打ち切られた後も、深夜まで再交渉に努力していたこと。また、西軍を長岡に

迎え入れるために「御会所」の新築のため、材木などを用意しています(「河井継之助の生涯」安藤英男著)。更に何よ

り大きな事は、いま日本は国内において内戦をしている場合ではないと云うことを、十分に分かっていたはずだからです。

この継之助の意図としては、「・・・牧野家の家訓ともいうべき<常在戦場>の緊張感を抱かせると同時に、むしろ新政

府と会津藩の間に立って救解調停の役を引き受け、それによって長岡藩の存在を天下に認識させようというのが最初の意

図ではなかったかと思われる。」(「戊辰落日」綱淵謙錠著)が妥当なところではないでしょうか。

 「良知の人 河井継之助」(石原和昌著)では、著者が小千谷会談で腑に落ちない点が2点あるとしています。

 その一つが、会談に同席した長州の白井小助が一言も発言しないで、岩村のなすがままにしたことです。同書では、白

井は吉田松陰の盟友とも言える人で、高杉晋作とともに奇兵隊の創設に参画して、第二奇兵隊をつくった人で、当時の年

功や経歴・実力からは岩村の下にいるような人ではないそうです。

 もう一つは、この小千谷会談は岩村の独断専行ではなかったのかという点です。

この二つについては、「脇役たちの戊辰戦争」(中島欣也著)に触れられていますので、以下同書を参考に書きます。

越後の攻略は本来、北陸道軍の担当で岩村の属する東山道軍とは関係がありません。岩村は、当時信州を荒らし回ってい

た衝鋒隊を討伐するために信州尾張の兵を率いていました。信州は、東山道軍の受け持ち地区でした。

岩村はこの衝鋒隊を追って、信州から越後の入り口の新井に入り、北陸道軍が進出してくるまで、待っていました。

その後山県・黒田の北陸道軍が高田へ進出した際に、連絡のために高田へ行きます。ここでおそらく、北陸道軍が越後を

攻略するのは兵が著しく不足していたため、岩村の率いる兵力を帰す手はないと思った山県・黒田等が、北陸道軍への参

加を求めたようです。すぐさま間に合う兵が他にいなかったと云う場合で、やむを得なかったのでしょう。

岩村からすれば、自分が山県や黒田の北陸道軍を助けてやるという、意識があったのでしょう。その為山道軍として、山

県・黒田等の本隊である海道軍とは別行動をとります。

山県や黒田は、岩村に協力するとして薩長の一部隊をこの山道軍に送りますが、それが、白井小助や淵辺直右衛門でした。

この無理を言って、北陸道軍に参加してもらったと云うことが、岩村の独断専行を許した一因ではないかと書かれていま

す。

 会談の翌日5月3日朝、河井継之助達は長岡へ帰るために宿を出ます。

信濃川の渡しの浦村へ着いたときに、継之助の安否を心配して藩主から命じられて出迎えに来ていた藩士槇吉之丞が、待

っていました。継之助は、談判が決裂したことを告げ、一足先に本陣へ戻り、各部隊の隊長を集めておくように指示しま

す。

 信濃川を渡った彼は、まず前島にいる川島億次郎に会いに行きます。川島は、この時には西軍とは戦うべきではないと

主張しており、不戦派の中心人物の一人で、他の藩士に対する影響力も大きいものを持っていました。

継之助は、川島とは若い頃には大変仲がよく、継之助の不遇時代には一緒に東北旅行に行ったこともあります。継之助は、

影響力の強いこの男を、何としても説得しておきたいと思いました。

二人だけになり、順を追って小千谷会談の経過やその後の話をしましたが、川島は納得せず激しい議論になったと言われ

ます。この議論をお終いにさせたのは、継之助の次の言葉です。「今となっては、戦わずに済む道は、おれの首を切って

それに3万両を添えて、西軍へ持っていくこと以外にはない。」川島もこの言葉を聞き、ついに折れ、継之助とともに生

死をともにすることを誓います。「愛想 河井継之助」(中島欣也著)では、継之助は理屈ではとても説得できなかった

ので、人情で川島を同意させたと表現しています。

 二人は摂田屋の本陣へ行き、集合していた諸隊長を前に、継之助が小千谷会談の経過を話し、戦う以外に道はないこと

を演説します。これにより、藩内外に長岡藩の開戦することが伝わり、藩内の指揮も急速に盛り上がりました。

 翌日の5月4日、ついに長岡藩が奥羽列藩同盟に加わります。

 

4 北越戦争

 

 いよいよ、北越戦争の話になります。この北越戦争の長岡藩と河井継之助については、「長岡城燃ゆ」「長岡城奪還」

(稲川明雄著 恒文社)が、日付順に大変良く書かれています。北越戦争の経過について興味がある方は、そちらを読

んでみて下さい。

 経過を極めて大雑把に言いますと、開戦当初東軍は長岡の南方の要地、榎峠・朝日山を西軍から奪い返します。その

後、戦線は膠着します。しかし西軍の信濃川の強行渡河による奇襲により、手薄になっていた長岡城は落城します。河

井継之助も、翌日に強行渡河作戦を実施予定であったため、この一日の差が両軍の明暗を分けたと云われます。

シンボルでもある城が落城すると、ガタガタとなっていまいそうですが、東軍は栃尾で再起を期します。その後今町で、

西軍を破りやや優位に立ち、ついに長岡城をアッと驚く奇襲によって西軍から奪還します。

 戦争の経過については上記の書に譲り、私は、北越戦争のこぼれ話のようなものを、少し紹介していきたいと思いま

す。

 1868年5月19日早朝、西軍は信濃川を渡河し長岡城を急襲します。

信濃川は我が国有数の大河で、長岡の上流の長野市では、この時よりおよそ300年ほど前には、戦国史でも名高い川中

島の合戦が行われています。

信濃川は、長岡市では、ほぼ南から北へと流れています。この日は連日の雨で、信濃川の水量は大幅に増水していまし

た。西軍が信濃川を渡ることを考えたように河井継之助も、信濃川を渡り、二つの西軍本営(海道軍の関原と山道軍の

小千谷)を急襲する作戦を練ります。継之助が考えた渡河地点は前島で、長岡城と榎峠の間のやや長岡城よりにありま

す。

ひそかに前島に兵を集め、機会を伺っていましたが、いよいよ5月19日の夜に実行予定でした。

 当時、長岡城に近い信濃川の渡しは、長岡城より北(下流)に蔵王の渡し、南に草生津の渡しがありました。長岡藩

でも、この地点には西軍の渡河に備え、兵士を派遣していました。

しかし、今回の雨による大量の増水が西軍の渡河地点を換えてしまうと予測し、本陣まで知らせてきた人もいます。つ

まり、通常なら本大島村から草生津の渡しを渡れば対岸の長岡城の南側に着くのですが、増水しているため、急な流れ

に流され普通では船着き場になり得ない中島・寺島辺り(長岡城の真横辺り)が危ないと知らせた人がいました。摂田

屋の長岡藩の本陣まで行き、このことを伝えましたが、絶対的な兵力の少なさのために採り上げられませんでした。

しかし、19日の長州藩と高田藩の本大島からの信濃川渡河は、増水した信濃川の急な流れの為に大きく流され、長岡藩

が保塁を築いて守っていた前面を通り過ぎ、守りの薄い寺島辺りに上陸してしまいます。

 西軍の渡河を予想しておらず、信濃川河畔には僅かな兵しか配置しなかったことが決定的な敗因とは云え、渡河作戦

実行日の半日のズレといい、上記のことと言い、この19日には、西軍には運(つき)があり東軍にはなかったというこ

とでしょう。

ちなみに薩摩藩は、大部下流の蔵王の渡しを渡りますが、こちらはあまり流されていないようです。

  河井継之助にとって、長岡城の落城は痛恨のことであったと思われます。私は、河井継之助はこの北越戦争は、

やり方によっては十分に勝つチャンスがあると認識していたのではないかと思っています。

 以下は、私の個人的な推測・妄想モード(あまり当てにはなりません)です。

第一には西軍といっても、寄せ集めの模様眺めの軍隊であり、戦意のあるのは長州・薩摩等きわめて少数であるこ

と。したがって初戦において鮮やかな勝利を得優勢を保ち続ければ、長州・薩摩以外の藩の軍隊は、戦を嫌がり終

いには戦を放棄する可能性もありうること。その上、更に戦闘を優位に継続すれば、外交によっては戦闘から離脱

する藩が出てきて、場合によっては西軍から東軍へ味方する藩も出てくると考えていたでしょう。

実際に、初戦において榎峠・朝日山が東軍に奪われ、その奪回戦で長州の時山直八が戦死して西軍が敗北した後は、

西軍の中でも一時的に撤退すべきだという論が起こっています。

この軍事的に圧倒的な優位の状態で、西軍首脳ともう一度、談判をしようと思っていたのではないでしょうか。つ

まり不本意だった小千谷会談のやり直しです。今はなにより、長く戦をしている場合ではないのです。長岡藩の力

を見せておいてから談判に臨んでそれをまとめれば、新政府内において長岡藩は大きな発言力を持つことが出来ま

す。

その為には絶対負けてはならない。一度負けてしまえば、その機会を再び創るのは、極めて困難になりますので、

終始大きく優勢を保ち、西軍を圧倒していなければなりません。大きな優位こそが、西軍の厭戦気分を拡げ、談判

を可能にするのです。

河井継之助による、東軍の信濃川渡河による西軍本営の急襲は、このような意味でも極めて重要な戦いとなるはず

でした。河井継之助は、そのように考えていたのではないでしょうか?

そうすると、継之助にとっては長岡城の落城は、返す返すも無念であり、痛恨の極みであったことでしょう。

 戊辰戦争において、長岡と会津はよく似ているとことがあります。

長岡落城の際も、南方の榎峠朝日山方面と信濃川渡河のために兵力を集中しており、お城付近は兵力の空白状態の

ようになっていますが、これなども国境周辺に兵を出していた会津とよく似た状況になっています。

少年兵としては会津の白虎隊が有名ですが、長岡藩にもこの落城の際に戦った少年兵がいました。長岡藩では、1

部隊40名ほどの小隊単位の部隊編成をしています。

長岡城の外堀の役目をしている内川に掛かる内川橋の直ぐ外に兵学所がありますが、この日そこを守っているのが

倉澤竹右衛門隊でした。この隊は、隊長の倉澤と二人の小頭以外は、15才〜18才までの少年で組織された100名ほ

どの大きな隊でした。

この部隊は予備隊のような扱いの為か、長岡藩の軍服を着ているものもなく、小銃も全員には行き渡っていなかっ

たようです。信濃川を渡河してきて、川沿いの防衛戦を突破した西軍とこの少年隊が戦いに入ります。やがて倉澤

隊長が銃撃を受け、重傷を負い、二の丸の神田口門付近まで退却することになります。

長岡にとって運がないことには、東軍の村松藩が急襲の混乱により内川橋へと退却してきた長岡藩兵を西軍と見誤

り、銃を打ちかけましたが、これが村松藩が裏切ったとの流言を呼び、これが拡がり東軍は一層混乱してしまうの

です。

 また会津藩と同じように、落城に際しての老人の鮮やかな活躍もあります。70余才の稲垣友右衛門の落ち着いた

銃撃。62才で槍の達人であった伊東右衛門は、先祖伝来の甲冑を着て名乗りを上げ、3名の薩摩兵を得意の槍で倒し

ますが、槍では敵わぬと見た兵により銃殺されてしまいます。

河井継之助も、この日はガットリング砲を操作してお城の大手門前で必死の防戦をしますが、操作中に銃弾により

負傷します。

 藩主の忠訓一同は栃尾方面へ向かいますが、会津の秋月悌次郎の薦めもあり、後に会津へ落ちていきます。途中

の只見まで来ると、忠訓は自分等一族に従うものを十数人の少数に絞り、他は戦闘員として河井継之助のもとへ帰

します。

 前回に続き長岡と会津の似ているところですが、女性がしっかりしています。

榎峠・朝日山から退却してきた会津藩の青龍士中3番隊の兵士が、一晩中歩いて明け方にようやく栃尾郷泉村に着

いたときのことです。空腹に絶えかねて、庄屋の家に行き朝食を強要しました。庄屋は官軍お達しにより、会津等

の面倒は見れないと言いのです。これを聞いた会津藩士が怒りだし、刀を抜き庄屋を切り捨てようとします。この

時に奥から、鉢巻きにたすき掛けをして、長刀を持った女性3名が現れました。一人は河井継之助の姉のふさ(佐

野家に嫁ぐ)で、会津藩士に、「大勢の兵士が来たので、敵かどうか確かめるために庄屋にあのように言わせた」

と言うことでした。その後、会津藩士達はそこで朝食をとれたことは言うまでもありません。長岡藩士の佐野家の

一行が、庄屋宅へ非難していたものですが、武士の妻に相応しい気丈夫さを持っていたようです。

しかしながら、このように凛としていた河井継之助の姉のふさは、何があったのか分かりませんが戦争中にこの地

で病死しています。

 更に他にも、退却中の会津藩士が長岡藩士の親子と思える婦人2人連れに、同情して声を掛けたところ、気丈夫

な答えが返ってきました。「従軍している夫と殿の小姓を勤める長男の消息が分からないので大変に困っている。

しかしこのようなことは戦争であるのでかねてより覚悟はしていたので、今更驚くことではありません。拝見した

ところ、あなた様方は会津へ向かっているようですが、このまま(会津へ)帰ってしまうのでしょうか、それとも

再挙をするのでしょうか?」会津藩士達が会津へ帰ってしまうのを察知して、懸命に引き止めたものであります。

 武士を中心とする藩の家庭内の教育が良く行き届いていた、ということも会津藩と同じ様な気がします。そして

そのことが、単なる兵士達の戦争ではなく、長岡も会津も藩の出せるすべての力を使った総力戦になっていった原

因のような気がします。

 東軍の長岡城奪還の際には、八丁沖を渡るという奇襲を行いますが、この八丁沖の作戦を影で支えた人がいまし

た。名を鬼頭熊次郎といいます。彼のことは、「戊辰落日上」(綱淵謙錠著)の「絶唱」の項に書かれている他、

「戊辰朝日山」(中島欣也著)にも紹介されています。それらを読んだ際、彼の献身的な生き方に、感動を覚えま

した。以下後者の本を元に簡略して書きますが、私の書き方では心許ないので、機会がありましたらお読み下さい。

 鬼頭熊次郎は、鬼頭家の部屋住みで剣術が得意だったそうです。苦しい家計を助けるため、家から12キロも離れ

た山へ薪取りに行ったり、八丁沖(沼)では1.5メートル四方の狭い仮小屋に6・7日も泊まり込んで魚を網で捕ると

いう重労働をこなしてきました。その長年の重労働のため、彼の足は内側に曲がってしまいます。しかも、こうし

て苦労して稼いだお金を、彼は一銭も自分のためには使わず、すべて兄に差し出したと言います。こういう自己犠

牲のような生活を、結婚もしないで続けてきました。

長岡戦争が始まる直前には、長年の無理がたたって体を壊して床についていました。しかし西軍が長岡に迫ってく

ると聞くと、国家の重大事に寝ている場合ではなく国難に殉ぜねばならないと銃を取ります。長岡城落城時に戦い、

その後東軍が栃尾に引いてからの戦闘で、彼は流れ弾に当たって負傷し病院で治療を受けます。

 その傷も癒えたある日、鬼頭熊次郎は何人かとともに河井継之助に呼ばれます。

その場で河井継之助は、八丁沖を密かに渡る長岡城奪還計画を告げ、その為に八丁沖の進撃路を切り開き整備する

ことを命じます。鬼頭熊次郎はじめ集められたのは、平素そこで魚取りをしている八丁沖を知り尽くしている人ば

かりでした。鬼頭熊次郎はもっとも危険な場所を受け持ち、藩士4・5人を連れて早速その日の夜から4夜連続して

必死の作業をします。このため熊次郎は憔悴しきってしまいます。突入の日には、熊次郎の弱っているのを見た軍

監は、後は皆に任せて休んでいろと言いますが、熊次郎は聞かず、自分はたとえ八丁沖で死んでもいいと言い先導

します。

彼は部隊を先導していき、攻撃命令が発せられると先頭を切って突撃していきました。そして彼は、宮島の敵保塁

へ飛び込み一人を斬ったところを、銃で撃たれ戦死します。この作戦の長岡藩の戦死第1号でした。熊次郎41才で

す。

彼の背には元込め式の最新銃があったのですが、河井継之助の銃を使うなという命令を律儀に守ったためか銃は使っ

ていませんでした。

 彼の兄は鬼頭平四郎ですが、彼にも話があります。新潟へ行き独断でスネルから、武器を買ってきたことです。

彼は加茂の本陣へ行ってから、重役の前で専断を詫び処分を覚悟しましたが、その時河井継之助は皆の前でその臨

機応変の処置を誉めたと言われます。

 7月25日、守りの手薄な八丁沖からの奇襲による長岡城の奪還は見事に成功しました。西軍も攻勢を予定してい

たため、先手を取った東軍が有利でした。

奇襲であったために、西軍は逃げるのに手一杯となった隊も多くあり、その為多数の武器や弾薬兵糧が本陣や城内

に置き去りにされていました。しかしながら、どうもそれらが有効に利用されなかったようであります。かえって

その莫大な分捕り品に満足してしまい、歓迎する市民と一緒になり酒を飲み長岡甚句を踊った人も多かったようで

す。長岡藩兵は、お城の奪還ですべての力を使い果たしてしまったようなところもあります。

河井継之助の計画では、奪還した後には西軍を速やかに追撃するというものだったようですが、東軍の各藩の連携

が悪いこともあり、それも出来ませんでした。

また、山県襲撃計画もあったようで、長岡藩士田嶋は、西軍を装って山県有朋の宿舎まで行き、斬ろうとして惜し

くも失敗しています。

 しかしながら、この日の戦闘で、以後の戦いにもっとも大きい影響を与えたのは河井継之助の負傷です。強烈な

個性で長岡藩と東軍を事実上引っ張ってきた、その中心人物が重傷を受けて、戦線に立てなくなったのです。河井

継之助は、率先垂範型のリーダーですので、こういう危険性は常にありました。

山県有朋も「越の山風」で「この日、河井継之助が重傷を負い、後ち遂に之が為に死するに至りたるは、実に敵兵

の為めに大打撃たりしを疑わず。」と書いています。

 長岡城奪還から4日後の7月29日、西軍の総攻撃があり長岡城は再び落城します。 

 負傷した河井継之助は、昌福寺の藩の病院へ移り、それ以後は長岡藩の指揮を採っていません。川島や三間等も

継之助の身を案じて、あまり戦況については報告しなかったようで、また、河井継之助もどういう訳かあえてこれ

を深く聞きませんでした。これまで、自信満々で強烈に長岡藩をリードしてきた継之助が、膝の負傷によって何故

こうなるのでしょうか? たとえ膝を負傷したとしても、戦況を詳しく聞き、それによって的確な指示をする事は

出来るハズです。しかしながら、指揮権を投げ出したような格好になっています。

この疑問に、「愛想河井継之助」(中島欣也著)は以下のように答えています。

 まず医師に継之助の被弾状況を話して、病名を聞いたところ「菌血症(膿血症・敗血症)で、化膿の痛みは翌日

から」と言われます。継之助の負傷時は、多量の出血があったそうで、負傷直後は普通の人なら耐えられない激痛

と出血多量に苦しんでいたのは間違いない。これが為に指揮できなかった。

しかし、ただそれだけのことではないと推論しています。

河井継之助は、長岡城奪還で長岡藩の武士道は天下に示した。すべてを犠牲にしてまでも、守るべきものがあり、

そういうものがあれば長岡は立ち直れると、彼は信じて戦ってきた。しかし、現実に多くの人の血と涙を見て見て

みると、その現実には苦悩に身を苛まれることが多く葛藤があったのでしょう。そのような時のこの負傷により、

これまで多くの人を死なしてきたが、これでおれもようやくあれらの処へ行くことが出来る。そして、それは長岡

をこのように導いてきた自分が当然負うべきものである、と考えたのだろう。

そんな自分が、これから息があるうちにやるべきことは、戦うことではなく、長岡がどのように戦後を迎えるかを

考えることだろう、と思ったのではないか、と。

 皆さんはどのように思われるでしょうか?

 

5 只見

 

 7月29日長岡城が再落城した日、前回栃尾方面への退却に際して通った森立峠はいち早く西軍に押さえられたた

め、河井継之助一行は見附に退きます。

松蔵は、移動の際に継之助の負傷した足に負担が掛からないように、駕籠を担架のように改良しました。

河井継之助は、足の傷が化膿したための高熱と耐え難い激痛により、半狂乱状態になることもありました。そのよ

うな時には、「おれを長岡へ置いて行け、おれは長岡で死ぬ」と叫び一行を困らせるのです。

 この日、長岡藩の婦女子が見附や栃尾に集まり、取り返した長岡城下へ向かおうとしていました。夫や息子等家

族の安否を気遣い、生死を確かめ、負傷した者の手当をしようと思ってのことでした。5月の落城以来、家族の生

死を案じつつ不自由な山の中の生活に耐えてきた人々です。人里離れた村で、慣れない百姓のような格好をして、

逃亡生活を続けてきたのです。ようやく、その苦労が報われ、やっと長岡へ帰れるようになったのです。嬉しさで

生き生きとし、久しぶりに化粧までした人もおり、華やいでいました。

しかしながら惨いことに、そんなところに長岡城の再落城の知らせが届いたのです。さすがに気丈夫な長岡藩の婦

女子も、絶望と落胆の大きさに、気力もなくなってしまったことでしょう。 

 河井継之助は、長岡城奪還が成功した際には、会津いる藩主へその旨報告しました。藩主・前藩主はその知らせ

を聞くと大変喜び、前藩主は「年寄」と「全藩士」に対して直ちに感状を書き使者に託しました。しかしこの使者

が長岡へ戻ろうとしたときには、西軍が既に道を塞いでおり、やむなく会津へ引き返しますが、その時には長岡城

は再び西軍の手に落ちていたのでした。

 8月1日河井継之助一行は、葎谷に着きます。長岡を逃れた藩兵はここへ集結し部隊の再編成をしています。

 8月1日、症状が落ち着いたためでしょうかこの日、河井継之助は絶筆となる手紙を、義理の兄の梛野嘉兵衛宛

の手紙を書きました。義兄の梛野氏は、この時に会津若松へ藩主と供に行っています。宛名は義兄ですが、その内

容は藩主・前藩主への、今までの経過報告と謝罪を兼ねたものになっています。

  「河井継之助」(安藤英男著、新人物往来社)より、その大意を書きます。

まず、奥羽越後の状態を考えるとこのような長対陣は、藩の財政も破綻し、又、兵士もつまらぬ局地戦で損耗して

更に困難な状態になってしまうため、一大決心をして24日の夜八丁沖を潜行して長岡城下へ討ち入りました。敵は

大変狼狽して、敵の銃器や弾丸等多量の分捕り品があり一同大喜びしました。

しかし私は、この戦でスネの中骨を折られ、27日にいったん昌福寺病院へ移りました。一同尽力してきましたが、

今になっては新発田藩の内応等については、未練になりますので申しません。

今回は免れ得ない大乱ですので、不義として汚名を後世に残すよりは、義理を守って行動すべきですが、自分の責

任でその志を達成できずに無念です。このことを、よろしく両殿様へお伝え下さい。

私は最早、ご奉公することは出来なくなりました。また、苦痛のあまり山を越えることもできません。死生は、自

分の手を放れています。(いったんここで日付を書き手紙を終えるが、更に以下を続けています。)

 私は城中で討ち死にするのを思いとどまり、葎谷まで来たのは、長岡奪還の際に敵が冬用の衣服までも置いて逃

げていったため、西軍はこの地に留まれないと思ったからです。しかしながら、見附まで来て戦況を見ていたとこ

ろところ、思わぬ状況になってしまいました(新潟の陥落により、東軍諸藩の兵が次々に自分の藩へ引き上げてし

まった状況のことでしょう)。

戸板に伏している状態ですので、文章が乱れていると思いますが、ご了解下さい。

 8月3日河井継之助一行は、吉ヶ平まで行きます。ここから先は八十里峠になります。八十里峠は、その距離は

8里であるが道は険しく1里が10里に相当するほどの険しい道なので、この名前が付いたと言われます。この峠を

越えれば、そこはもう会津になります。

ここまで来たときに、継之助はこれ以上先には行かないと、言い出します。

「進退は義を以てすべきも」と云う信念に基づく行為とはいえ、長岡の町を焼き焼土とし、多くの藩士を死なせの

は、自分である。更に、長岡の町を西軍に奪われたのも、その責任は自分にあり、それらの諸々の責任は自分が負

わなければならないものである。今さら、どの面を下げて会津へ行けようか、行ったとて、藩主に会わせる顔はな

いではないか。・・等と云う思いからなのでしょう。

強情な継之助ですから、一行の人々が色々なだめますが、「会津へ行ったとて、何もいいことがない。おれは行か

ない。置いて行け。」と同行者を困らせます。その為、吉ヶ平で1泊することになります。この傷では自分は、も

う奉公もできないので、長岡領内で死ぬことが、継之助の頭を占めていたのだろうと思います。

遅れてきた、三間市之進(長岡落城の際には、もっとも困難な持ち場を持ちました)が懸命の説得をして、翌日の

4日にようやく進むことになります。

しかし、傷はますます悪化していきます。4日は、峠の途中で泊まることになり、5日にようやく会津領の只見に

着きました。

この八十里峠越えの途中で、継之助が一つの句を作ります。

「八十里 こしぬけ武士の 越す峠」

継之助の、無念の思いと自嘲の思いが込められているようです。

 八十里越えの難所のちょうど半ばほどに、鞍掛峠があります。継之助と同じように、東軍兵士やその家族等が会

津へ落ちていった後に、東軍の殿軍がここに留まり、二十日あまりもの間この地を守り、西軍を一兵たりとも通さ

なかった一隊があります。長尾藩の第一大隊長の、山本帯刀の率いる隊でありますが、長岡藩の3つの小隊と少数

の会津兵が参加していました。

「戊辰朝日山」(中島欣也著)では、この部隊について「戊辰戦史」(大山柏博士著)より引用していますが、以

下にそのまま書きます。

「この山本隊は八月二十五日ごろまで守っていたが、いかにして約一ヶ月近くも持ちこたえたのか。人家とて一軒

もなく、最も近い入叶津の部落でさえ、十一キロの山道を隔てている。兵器、弾薬は携行量だけとしても、糧食の

補給はどうしたのか。叶津附近の寒村ではとうてい調達できそうもない。遠く山道を、会津若松から補給したもの

か。その辺の事情が全くわかっていない。」

この山本隊は、8月23日に白河口の西軍が会津城下に突入したことを知ったその日の8月25日に鞍掛峠を下りて、

27日に柳津に到着し、休む間もなく戦線に就きます。

 この後、この部隊の部隊長の山本帯刀は九月八日の飯寺の戦闘により、西軍に捕らえられます。更に、3名の小

隊長が全て戦死あるいは捕らえられており、全滅のような状態でした。

捕らえられた山本は、西軍から朝廷に抵抗した罪の糾問を受けた際には毅然として、次のように答えます(「戊辰

朝日山」中島欣也著より引用)。

「わが藩は徳川氏と久しく君臣の義を結び、譜代の恩顧を受けてまいった藩でござる。その徳川氏が謹慎恭順の態

度をとっているにもかかわらず、これを討てといわるるは必ず朝廷の真意にあらず。中間に明徳を曲げて号令せし

ものがあるによる。わが藩もとより朝廷に抗するの意は露ほどもござらぬが、かかる事態の中で、徳川氏の廃亡を

座して見過ごすに忍びず、藩を挙げてたち、今日に至った次第でござる。」

また、降伏すれば助命すると勧められた際にも、「藩主に戦いを命ぜられたのは、知っていますが、降伏を命ぜら

れたのは知りません。」と言い、処刑されます。

  5日に只見村へ着きましたが、継之助の負傷した足は赤く膨れて、激しい痛みと高熱に悩まされます。とても

会津へ移動できる状態ではありません。

一行はやむなく、ここに12日まで過ごすことになります。

この時に、継之助の容態を聞いた藩主は深く心配し、会津へ来ていた幕府の医師松本良順へ治療に行ってもらう

ように依頼しました。おそらく会津へ必ず帰るようにとの説得も、依頼したと思います。松本良順は、快く引き

受け早速只見へ向かいます。

継之助と会った彼は、早速傷を見ますが、既に手遅れだったのでしょう。特に、治療らしいことはしなかったと

言います。継之助の具合も良かったのでしょう。二人は、旧知のように話したと云われ、継之助も上機嫌でした。

松本良順が、手みやげとして持ってきた牛肉のタタキを美味しそうに食べます。牛肉に対しても、何の偏見も持

っていません。

 また、とても再起できぬと思っていた継之助は、状態がよいときに花輪馨之進に、今後の長岡藩のことを次の

ように指示します。

会津落城の後は、米沢藩ではなく庄内藩と行動をともにすること。

いずれ奥羽諸藩は敗れるので、その時には世子をフランスへ亡命させること。

自分が死んだら火葬にすること(これは松蔵へです)。

外山脩造へは商人になるように話し、福沢諭吉宛の紹介状を書いて渡します。

 具合の良いときには、意識はハッキリしていたのでしょう。同行の義兄根岸勝之進が、鳥モチで蝿を捕るとこ

ろを見ては、「根岸は蝿トリの名人だ。」等と言っています。この根岸勝之進の長男が、根岸錬次郎で河井継之

助の色々な著者・研究者として知られる安藤英男氏は、昭和20年までは隣に住んでいたと云います。

 河井継之助は、松本良順の勧めもあったため、とにかく行けるところまでは行ってみようと思い直し、一行

(約20名)は会津へ向かい、8月12日塩沢の村医矢沢宗益の家に泊まることになりました(移動距離は約8キ

ロ)。

 13日は、朝5時前より具合が悪く、高熱を出しうわごとを云うようになったが、夕方になると小水が通じ、

その後落ち着いてきます。継之助は死ぬ直前まで、「この腰抜けが!」と自らを鞭打ち、罵倒し、しっかりし

ようと強靱な意志の力を発揮したようです。

 14日は別状はないが、そうは言っても進むことは出来ません。この日継之助は、梨を食べたいと言い、松蔵

が持ってきた梨を美味しそうに食べた。食べたのは1個だけで、それ以上は体が受け付けません。「うまかっ

たでや。こげんうまいナシ、残りをとっておくことはねえぞ。皆にも食わしてやってくりゃえ」(愛想河井継

之助より引用)と言います。

 15日、松蔵を呼び「松蔵や、長々介抱してくりゃって、ありがたかったでや。」と優しい声で言い、死後は

火葬にし今からその準備をするように言います。松蔵が、そんな気の弱いことを仰らないでもっと元気を出す

ように頼むと、鋭い目つきで「お前の知ったことじゃねえ。準備をしろというたら、準備しろ!」

言われた松蔵は、泣きながら徹夜で棺を作ります。継之助は自分の入る棺を見ていたと云います。

この15日には、会津では長岡藩主・前藩主の意を受けた、松本良順の計らいで2名の医師が、急遽塩沢へ派遣

されることになり、当日中に出立します。

  8月16日、河井継之助は出来上がった自分が入る棺桶と骨箱を見て、満足そうでした。そして、午前中は談

笑したりしましたが、午後になると昼寝をしたいと人を遠ざけ眠りました。そのまま夕方になっても目覚めま

せんでした。意識不明の昏睡状態になっていたのでしょう。

この日午後8時頃、遂に帰らぬ人となりました。42才の短すぎる生涯でした。継之助が亡くなった時に、継之

助の妻や父母は、高田藩お預けの身でした。

 継之助の遺体は、言いつけ通り只見川の河原で荼毘に付され、遺骨は17日会津へ向かいます。

 塩沢の村人達は、河井継之助を大事にしたようです。継之助の遺体を焼いた河原で、残された継之助の細骨

を拾い集め、医王寺に鄭重に葬りました。

医王寺にある継之助の墓は、墓碑銘のない祠のような形になっていますが、これは後に進駐してくる新政府軍

に悟られない為です。

また、河井継之助が亡くなった矢沢家の家は、昭和37年までそのまま残されていましたが、同年のダム建設の

ために水没します。しかし、継之助の終焉の間はそのまま近くへ移築します。現在は河井継之助記念館の中に、

そのままの状態であります。

蛇足ながら、この記念館に私が行った時に「戊辰戦争の河井継之助」という簡単な本(P32)をここで買いまし

た。家に帰ってからその本の発行者を見たところ、「河井継之助終焉の家跡 医師矢沢宗益末裔 矢沢大二」と

あり感動しました。 


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