川中島合戦の話ですが、文章はパソコン通信のニフティサーブの戦国会議室に書き込んだものです。96年8月から9月までの臨時会議室(川中島合戦)に書いた自分の書き込みを載せてあります。他の人の発言に対するレスの書き込みですので、読みにくいかも知れません。いずれ見直しての書き直しが必要です。
前もって断っておきますが、私は謙信ファンです。(^-^)



             川中島合戦(第4回)


(始めに)

 川中島の合戦は、大変有名で良く知られています。しかしながら、上杉謙信と武田信玄がどういう戦いをしたのかというと、実はよく分からないところが多くあります。
川中島の合戦を書いたのもは、甲陽軍艦などいくつかあるのですが、そのいずれもが記載に誤ったところや矛盾したところがあり信憑性に問題があるからです。
ここでは五度行われたという川中島の合戦のうちの、一番の激戦であった四度目の合戦について書きます。

(信玄の茶臼山の位置) 

  信玄が本陣を置いたと云われる茶臼山ですが、通説の他にも2つあったようです。茶臼山(通常言われているほう)ともう1つの茶臼山で、こちらの茶臼山は河合さんの紹介では稲荷山付近となっていますが、塩崎のすぐ西でしょうか。

このもう1つの茶臼山は石川茶臼山と言われると読んだ(「歴史と名将」山梨勝之進 毎日新聞社刊)ことから、私は信玄の布陣したのは茶臼山と塩崎の中間点から、やや塩崎よりの石川にある茶臼山だと思っていたのですが・・・。

同書の説明から考えると石川茶臼山は、現在の将軍塚古墳跡のあたりになると思いますが、この位置なら謙信に素早く対応出来ます。


 それに対して謙信の妻女山は良い位置だったかどうか?むしろ謙信が茶臼山へ布陣したらどうか?と云う意見があります。謙信が有旅の茶臼山に陣すれば、確かに両者を俯瞰できる位置ではありますが、しかしそうなると、前3回の川中島の時と同じようになってしまう(主力の決戦が行われないという)可能性が高いと思います。決戦が行われないままにずるずると信濃に武田の勢力が伸びてくる現状を根本的に打破するのが、謙信の今回の出兵だと思います。

せっかく関東出陣して関東一円にまで武威を示し、鎌倉で晴れがましく関東管領の式を行って意気揚々と凱旋してみれば、信玄は留守をねらって割ヶ岳城を奪い取ったり、海津城を造ったりしています。これらは明らかに、前回の約束違反にもなると思います。

したがって謙信は、ここで雌雄を決するつもりで出陣したと思います。

そうしますと、謙信は野戦でしかも主力同士の決戦するための作戦を考えていたはずです。その為には、通常の位置の有旅の茶臼山ではなくやはり妻女山に布陣したのではないかと思います。


(謙信は海津城をなぜ攻めなかったのか) 

 甲斐の虎さんが書いてあるように、謙信が8千人で来た時点で(5千人を善光寺へ残したこと)海津城を攻める考えはなかったと思います。海津城には2000人(一説には3000人)の人数がいたと言われていますので、いかに謙信でも8千人で短期間にこの城を落とすのは無理でしょう。本気で攻める気なら、当然率いてきた全軍の1万3千人で攻撃するはずです(1万3千でも少ないとは思いますが)。

謙信の今回の出撃目的は海津城の攻略よりも、むしろ信玄を叩くことでしょう。

そのため信玄本隊が海津城近辺に現れた場合、いかようにも対応でき、かつ海津城を地形的に圧倒しつつ城内の状況が手に取るように解る位置、すなわち妻女山に陣取った、ということではないでしょうか。

                         

(兵数の疑問-上杉軍の場合)

 通説では、謙信軍は、善光寺に5千の兵を後詰め又は兵站基地として残しています。

この兵は、川中島の合戦ではその後も全然活躍しているようには見えませんが、本当に5千もの兵が善光寺にいたのでしょうか?

 さらに、謙信軍は川中島の前年の8月から関東へ出兵し、そこで越年し翌年の6月に春日山城に帰還しています。そして翌々月の8月には川中島に出兵と言うことになりますと、上杉軍は兵農分離していなかったと思いますので、果たして2万3千人(春日山城の留守部隊を1万人とすると)もの兵の動員が可能だったかどうか疑問のあるところです。
一時的に兵農分離を可能にするシステムが越後で機能してい
たならば別だとは思いますが・・・?

 もし本当に、5千の兵が後詰めとしていたのなら八幡原の合戦に全く参加しないのは疑問ですね?

見張りや斥候等がいたでしょうから、すくなとも退却戦の時には、何らかの働きがあるのが普通だと思われます。

善光寺へ残した兵が、もともとは兵站や後詰めの兵としても五千は多すぎる気がします。

 

(両軍の作戦と深い霧)

  謙信と信玄は、合戦当日の霧のことは知っていたのかという問題がありますが、お互いに作戦を立てるときは、霧のことは十分考えていたと思います。川中島付近は、現在でもこの季節には河霧が発生することがあり、しかもかなり濃い霧が出るそうです。

両軍の中には、地元の川中島出身の兵がいた訳ですから、どういう場合に霧が発生しやすいか等の情報は、謙信も信玄も作戦計画において重要な要素であることは、認識していたと思います。

その上で、明日は霧の可能性が高いということを前提として武田軍が動いたと理解しています。どの程度の霧かは解らないが、合戦当日の朝は霧の可能性が高い事で、自軍の行動が敵からかなり発見されにくくなるということを折り込み済みの作戦であったと思っています。 お互いに霧を前提にしたことならば、信玄が前もって謙信を発見出来なかったのはどうしてか?

 これは、単純に「霧の濃さ」と考えています、それに加えて、武田軍は上杉軍が動かない事を前提とした作戦計画を立てている事もあると思います。上杉軍に気づかれずに、奇襲部隊の異動が出来ることが勝つための条件でした。そのため、まさか気づかれたとは思っていなかったことと想像以上の霧の濃さが、発見を大きく遅らせたのでしょう。


(海津城への移動)

 信玄が茶臼山から海津へ移動した時は、妻女山の謙信に自軍の真横を見せて進むのですから、普通なら攻撃のチャンス有りと思います。他の武将なら出ていって、三方ヶ原の家康のようになっていたかも知れません。

信玄の得意な誘導作戦
とも考えられるます。

 茶臼山は今まで出た説のいずれでも良いのですが、海津城への入城は横田経由で行ったものと考えています(根拠なし)。

いずれの茶臼山でも、いったんは横田(#34の図では、雨宮の千曲川の対岸)で、布陣をして、誘導作戦が十分に機能する隊列にして現在の千曲川沿いに進んだものではないかと思っています。勝手な想像ですが、謙信が妻女山から攻撃してきても、十分に対応出来るようにして誘い水を掛けたのではないでしょうか?

妻女山から見ていた謙信は、それに付け入る隙がなかったために手をだせなかったのではないかな?なーんて思っています。テレビ等のように、謙信軍の目の前を渡って海津城へ移動するのであれば、信玄はその対応を怠りません。

 もちろん、甲斐の虎さんが言うように、信玄の海津城へのルートによっては成り立ちませんので、通説のルートであればこの考えは難しいと思いますが・・・・。

(信玄にはやる気があったのか) 

 今回(第四回目)は、信玄もまともに戦おうと思ってで出来たように思うのですが・・・。

その理由は前年の謙信の関東出兵です。一時は小田原城を囲み、また、鎌倉では関東管領の就任式までやってしまいます。源氏の系統で名門意識が強かった信玄にしてみれば、謙信の関東管領就任はとても重い事実だったと思います。しかも、このような謙信に対して信玄の領国下にある信濃の国の武将の幾人かが謙信にお祝いの品を送っています。見方によっては、信玄・謙信の両者に二またをかけた武将が、信玄配下の信濃の武将にいると云うことは、かなり深刻な問題だったように思います。

信玄のような戦(一歩一歩着実に領土
を増やしていく)をする人間には、謙信がそれほどのことが出来るとは思っていなかったのではないかと思います。

つまり、若造だと思っていささか舐めていたが、今のうちに一度叩いておかねば安定した領国経営が出来ないと言う気持ちを持ったのではないかと思うわけです。

 そして、現実に謙信の引き連れてきた兵の数を見るとそれほどでもない、ここは十分叩けると思ったので、八幡原まで出向いたと思うわけです。

 私は、謙信も信玄も戦においては戦国時代を代表する名将だと思っています。

この場合いくら片方がやる気があっても、他方がやる気がなかったら大激戦にはならないと思います(前3回の時のように)。

信玄が望まない戦いにのこのこ出ていき、望まない戦いをしてしかもそれが大激戦になり、かなりの人的損害を出してしまったというなら、名将とはとても言えないのではないでしょうか? 若いときならいざ知らずですが・・・・・。

結果として大激戦があった。さらにその前の布陣の位置が甲越逆転していた(これは多分に?かも知れませんが)。その辺から両者はやる気十分と考えているのですが・・・・・。

 大将がやる気がなくても前線の部下はひょっとしたことで衝突する場合もあるが、川中島ではどうか?

上杉軍は後の大阪の陣で
の、景勝の元一兵卒まで全員一言の言葉も発しないで戦闘隊形をとっていたエピソードがあるように(どこで読んだか記憶してませんが)指揮命令は他の軍隊に比べて徹底しているようです。

また、対する武田軍も各武将の指揮能力は高く集団戦に優れており、戦国期を代表する両軍が勝手に戦うとは思えないのですが。

 可能性としては、霧がまだ晴れていないときに両軍の先鋒が接触して戦闘がそこから拡大していったということは十分考えられます。

このへんは、戦闘の開始時間と関係してくるのでしょうが・・・・・・。

 川中島の前三回のうち3回目の時は、謙信は十分やる気があるのを信玄はそれを巧みに避けたように感じています。この辺の話になると話題が広がり過ぎるようです。

 持久戦にするつもりなら、謙信の妻女山布陣はないと思います。補給線の確保が難しいし海津城に近く、また、武田領に深入りしすぎと思います。

第3回の川中島の戦いでは、謙信の手紙や神頼みの願文でも信玄と決戦をしたいと言う謙信の気持ちが書かれています。これに対して信玄は自分の本陣を明らかにしない等決戦を避けているように思います。そして信玄は、上杉軍が帰国すると、出て行き勢力を広げるという実益をとっています。

謙信は決定的な打撃を与えたいと思っているのに、信玄は決戦を巧みに避けているのだと思います。

 しかしながら、第4回の戦いが激戦だったのは信玄も戦おうという意志が強くあったからだと思います。その理由は何度か書いていますが、つまりは謙信が上洛し将軍の権威を後ろ盾としたこと、関東管領に就任し関東の諸将を率いて小田原城まで攻撃したことで、信玄も今のうちに叩いておかねばとの危機感を持ったのだと考えています。

信玄のやる気については、どうも私は少数派みたいです。(^^ゞ

一般論として、出兵は当然戦う気があって行うものだと理解しています。

出兵は、金も人も多大に必要とするため、戦国大名や武将にもかなりきつい負担だったと思います。それにも係わらず、川中島の場合は戦国大名が直接大軍を率いて出兵した訳ですから、様子見の為の出兵などというはずがありません。

まして、謙信は会津衆や、大宝寺衆という他国にまで来援を約して留守部隊の増員を計って万全の備えをした上での出兵です。今回でどうしても決着をつけたいと思っていたに相違ないと思います。

これに対して武田軍は、15日の狼煙の知らせで陣触れが発せられ、上杉軍が海津城へ向かったとされる16日には、第1陣が信州に出兵し、信玄の本隊の第3陣も18日には出発しています。この速きこと風の如しの出兵は、信玄の方でもやる気は十分にあったということでしょう。

 感じ方の違いかも知れませんが、茶臼山での対峙については、私はお互いに相手の隙をやる気満々で伺っている状態であると理解しています。両軍対峙の場所については色々な考え方がありますが、位置関係が逆転した場合での対峙であれば、やる気がなかったならそんな大胆な布陣は出来ないと思っています。この辺についてはもう何度も述べているので繰り返しになります。

隙をうかがっていて、今なら勝てるという状態(勝機)がなかったのでどちらも攻撃が出来なかったということでしょう(いわばそれだけ両将に隙がなかった)。

それがないときに、攻撃して負けるのは2流3流の武将でしょうが、謙信も信玄も、戦に関しては超1流の武将であると思います。余談になりますが、司馬遼太郎氏は何かの本で、この2人は世界的に見ても5本の指にはいるような戦の名人といっています。また「歴史と名将」で山梨海軍大将は川中島の戦いについて、「これから後は天才の業です。両軍の駆け引きのうまさというものは、理論ではこれを説明できないのです」といっています。

 また、出兵の際は相当重い経済的や人的な負担をしているので、何もしないで帰るということは兵の志気にも係わってくる事だろうと思います。甲陽軍艦の話しになりますが、信玄の問いかけに対し飯富・馬場・高坂等の将が決戦を主張したのもそのような理由があったのではないかと思っています。武田軍が上杉軍に対してより多くの兵を率いているのにこのまま何もしないで日を送るのは兵の志気に良くないと言っています。

啄木鳥戦法別説−両雄戦闘回避説)

 確かに信玄の行動や性格から見れば、回避説が妥当かも知れませんね。

でも私は、ここは、信玄が謙信を誘い出していると思っているのですが・・・・。

例の三方ヶ原のように、誘われて出てくれば謙信に十分に打撃を与えられると考えての移動と思っています。

 また、もし出てこなければ、謙信の退路を開けることで、謙信の帰途の際の隙を攻撃するというという意味を持っていたのではないでしょうか?

妻女山への別働隊の異動は、現代の大学生が試したところ、武器を持って夜間の異動はまず無理だそうですと云う意見がありますが、今頃になって、少し疑問なのですが、妻女山のすぐ南方にはSHUNさんが#13で言っているように西条城・鞍骨城があります。

そうすると、ワンダーフォーゲル部の方が実際に歩いてみても、南の方からは一晩かかっても歩けないようなところに、実際に城があったのか(城を造る必要があったのか)なーなんて思います。城があると言うことは当時は、交通が確保されていたと言うことになりませんでしょうか?

妻女山方面からしか登れないのであれば、妻女山へ城を造ればいいのでは・・・・と思えるのですが。

 そう思うと、当時は登る道はあったのではないか?なんて疑問がわきます。

 決戦回避説は、いままでの皆さんの紹介からでもそれなりに理由があることだと思います。

しかし、軒猿組頭さんがおっしゃるように、当初から決戦をするつもりがなかったとは私は思わないのですが・・・・・。

理由は単純ですが、もし謙信に本当に決戦をする気がなかったなら、犀川を渡らなくても済んだハズではないのでしょうか?当然妻女山に布陣する必要は、全くないのではないでしょうか。

さらに、以前にも少し書いたのですが、関東で謙信が成功を収めて春日山へ凱旋すると、自分の留守をねらって信玄が割ケ岳城を攻撃して落としています。

しかも謙信が6月28日に春日山に戻るのに合わせて、信玄は6月25日に甲府へ凱旋しています。ギリギリのタイミングでもあり、自分の関東出兵の成果が信玄によりケチを付けられたと思ったはずです。また、海津城の築城で北信濃までが信玄の手に入ることになります。

謙信のことです、俺がいない隙を狙ってこそ泥のようなことをして!と憤慨したはずと思うのです。

 そういうことで、謙信はやる気十分で出陣したと思っています。

また、謙信ほどではなくとも、今回は信玄もかなりやる気があったのではないかと思っています。

私は、信玄が兵力を分割した可能性は高いと思っています。

しかし、どういう意図に基づいてどのように分割したのかが疑問です。以前は妻女山の上杉軍を移動させる為と単純に思っていました。

でも、後方から妻女山を攻撃すれば上杉軍が勝っても負けても八幡原へ移動すると考えたのはどういった理由なのでしょうか?

妻女山の上杉軍は、ある程度の削平等による陣地構築をしているように思われるます。そうすれば約同数程度で攻撃をしても、そこから動かない場合も多いと思われます。

また仮に移動するとした場合でも、妻女山から八幡原までは約3.7キロ位の距離ですから、普通なら挟み撃ちにしようとしているのが分かってしまうのではないでしょうか?

 戦闘の開始時間や霧の問題とも関してくるのかも知れませんが・・・・・。

この兵数の疑問については、「激戦川中島」で著者の一ノ瀬義法氏は次のように述べています。

夜襲隊に半数以上もの兵を、夜の細道に向かわせたのが理解できないとしています。

さらに次のように妻女山の夜襲隊はもっと少なかったのでは?と述べています。信玄の本隊が13隊で8千人なら、1隊の平均人数は約600人となるのに対して、夜襲隊は10隊で1万2千人ですから1隊の平均人数は1200人になります。仮に1隊平均が本隊と同じ600人ならば、夜襲隊の総人数は6千人となります。 

 これらのことから、著者は3千人でも十分ではないかといっています。

通説の啄木鳥の戦法は、別働隊が妻女山の上杉軍を攻撃します。この戦は上杉軍を、妻女山から移動させるためのものですから、戦闘をして一方的に勝った場合は当然上杉軍は退却します。この場合は武田軍の一方的な勝利となるでしょう。

そうでない場合は別働隊はどうしたのでしょうか?

ある程度戦闘をして、5分5分や負けている場合は兵を引き退却させることになると思いますが、この場合小規模の戦闘であったり別働隊のダメージが小さい場合には上杉軍は、やはり移動しないのではないかと思います。

相手に追撃できないほどの打撃を与えたことが確認できなければ、移動の際に後ろから襲われる可能性が高いためです。

  河合さんの3番目の想定でも同様だと思いますが、もし、信玄がそのような作戦を採用したとすれば、信玄も事ここに至っては決戦をする、つまりやる気十分であったと思いますがどうでしょうか?

(妻女山) 

  地図で分かったことは、海津城や八幡原等の平地の高度が350〜370メートルもあるということです(皆さんは既に知っておられますね)。

謙信が布陣したとされる妻女山の陣馬平は、そうすると平地から約70メートルの高さでしかないと言うことです。攻めるにも守るにも丁度よい高さのように思われます。また、当時は千曲川が妻女山のすぐ下を流れていますので、渡し場が限定されますからかなり堅い守りだったように思います。さらに、陣馬平はかなり広いスペースで削平されている等上杉軍は妻女山の陣地構築を行っているようです。

そう考えると、謙信は春日山を出発する時点で妻女山布陣は決めていたのではないかと思われます。

 私も確かなイメージではないのです。

ただこのように書いたのは、謙信の本陣があったと言われる陣馬平はかなり広いスペースで、削平されている(「戦国の戦い」東北北陸編)こと。上杉軍は宿営の仮小屋を建て、柵や空堀をめぐらして籠城の構えを見せた(戦国群雄伝の竜虎が激突した川中島合戦の全貌)の2つ文章より思ったことです。

そして、当時は妻女山の裾を、千曲川が流れているようです。そうすると、謙信が布陣した妻女山は、千曲川がちょうど天然の堀となった、いわば平山城のようなものだったのではないだろうかと思えたのです。

海津城を圧倒し、その動きを牽制できる位置にあり、また、千曲川を渡ってくる場合は、雨宮・十二ケ瀬・猫ケ瀬の3つの渡しを守ればいいという、絶好の場所のように思えるのです。言い換えれば、妻女山へ武田軍が攻撃してきた場合は、謙信は打ち破る自信は十分あったと思います(そういう工夫をした上で妻女山に布陣した)。

 ただそう考えると、今度は武田軍が攻めてきたらその場所をはたして動くのだろうか?という疑問がでてきました。もし、信玄が上杉軍が動くと思ったなら、なぜ、そう思ったのだろかというのが分かりません。

 信玄が挟み撃ちではなくて本隊で上杉軍を攻撃しようとしていた、という作戦だったら、上杉軍にあれほど攻め込まれないように思います。この辺は皆さんの、色々な意見を聞かないと私もまだまだ考えがまとまりません。

 今まであまり考えなかったのですが、謙信がいる妻女山へ火を懸けるのは確かに有効な方法だと思います。

謙信も1574年の関東への出兵の時には、北条領をかなり放火しているようです。

ただ、妻女山付近はどちらかと言えば武田方の領土でしょうから、実際に自領に放火をすることまで考えたでしょうか?当時は人は殆どいなかったのでしょうが・・・。

自分の領土に火をつけその結果、大規模な山火事にでもなったら自分の評判を落とすことになりますが、戦国大名一般は戦の時には、その辺のことを考慮している人なんていなかったんでしょうね。

                    

 信玄に戦う気がなく、退却の際に両軍が偶然ぶつかってしまった、そうであるなら信玄は何も海津城を出る必要はなかったと思います。

海津城の方が守るには便利です。上杉軍が退却するまでそこにいて、退却を確認してから甲府へ帰ればいいのではないでしょうか?

約束もしていないのに、独り合点で退却するようにと思っていたとして、八幡原迄出ていって、計算外の戦闘を行い、それで弟まで上杉軍に討たれたならばとても、名将とはいえないのではないでしょうか?

 また謙信も、信玄が兵を分離して八幡原迄来ると知っていたら、いつ退路を攻撃されるかもしれないので、安心して退却などとうてい出来ないのではないでしょうか?

 70メートルと言えば、約20階建てのビルの高さ位でしょうか。天気にもよりますが相当遠くまで見れるはずです。

関係のない話で恐縮ですが、以前木更津市役所のレストラン(12階位と思います)から池袋のサンシャイン60が見えました。距離にして20キロ以上はあると思います。もちろん、目的物の大きさや高さによるものですから兵隊だったらその距離では、見えないのは間違いないことですが。

また、こちらから見えるということは通常は相手からも見えるということでしょう。

しかし、高い方からは陣形や兵力まで分かってしまうのに対して、低い方からではそこまでは無理でしょう。

実験で実際に歩いたのはどの道なのでしょうか?道路として地図に表示があるのは、上記の道だけですが・・・・・。武田軍の、妻女山攻撃路はやはりよく分かりません。

当時の武田軍には地元の兵が多くいたはずですから、土地には詳しいはずですがそれでも、実際上は不可能だったと考えられるのでしょうか?

この辺はどうなのでしょうか?どなたか土地勘のある方教えてください。

(八幡原進撃図) 

 やはり図があると分かり易いです。力作どうもご苦労様です。

図の「犀川」は「千曲川」ですよね。

 検討は後ほど行うこととして、2・3気がついた点のみ書きます。

上杉軍は柿崎隊が最初に攻撃をしているので、先頭は謙信ではなくて柿崎隊ではなかったのか?

別働隊が来る直前には、武田軍は飯富・穴山・信玄隊だけが健在となったようです。

甲陽軍鑑では信玄も薄手2ヶ所とありますので、武田軍は非常に苦戦しているようです。

嫡子義信が非常に奮戦していることが上杉方の記録にあるが、甲陽軍鑑にはないのは、後に義信が信玄に自刃させられている為ではないかと思われる(「激戦川中島」の引用)。

甲斐の虎さんは、察するところ義信が信玄のその場を動くなという命令を守らず出ていったため両角氏が戦死したという方の考え方に近いのでしょうか?

 ちなみに、義信の奮戦は、義信が広瀬に追いつめられる前のこととして、謙信が油断しているところに攻め込んでかなりの損害を与えたことですが、「激戦川中島」では、越後方では戦後有名に話になったらしく、諸書に記載があるとして以下の文書を紹介しています。「川中島五戦記」「北越耆談」「上杉三代日記」

この話は事実かどうか分かりませんが、甲陽軍鑑が記載しなかった可能性も否定できないと思っています。

 この図1〜7は、よく考えていてすごいですね。

私は「車懸かり陣」は、両将の一騎打ちよりも可能性が少ないと思っていました。

しかしこの図を見るとこのようだったのかなーとも思えてきました。現実はもっと混乱していたため、隊の区別も困難な部隊もあったのでしょね。

 これに関連しないかも知れませんが、騎馬で弓を引く場合は、敵の右手側に自分をおき、敵を左手側に見る位置が有利な位置関係になるそうです。体を右にねじっては十分に弓を引くことは出来ないそうです。

ただ、「歴史群像シリーズの上杉謙信」では、右回りの図になっています。

しかし、騎馬で弓を引くことはそう多いことではないでしょうし、また、両軍の衝突後の位置関係は各個人がとるものでしょうから、あまり重要視しなくても良いのかも知れません。

謙信の出陣日はいつか?)

謙信が8/29付けで出した手紙があることから、謙信は信玄布陣後に出陣したとの説があるが・・・・・・。

 この手紙は、単純に日付誤りということは考えられないのでしょうか?

私がよくやるものですので・・・・、現に#248の私の文章の日付が違っています。 

また、歴史関係の本では手紙とか文章の間違いと推定して議論を進めていることは多いように思います。もっとも、その場合は他の資料と整合性を比較してそうしているのでしょうが・・・・。

 この謙信の手紙の日付は通説との関係で、従来はどう考えられていたのでしょうか?

この日付を正しいとして考えると、謙信の妻女山布陣はなく南下した謙信と北上した信玄が八幡原で戦ったことになります。

前半は謙信の霧を利用した作戦勝ちの為上杉軍が、信玄の本隊までを一方的に攻めたが、後半武田の別働隊の登場により、挟み撃ちにされまいとして退却するところを攻撃された。この場合武田の別働隊は、海津城から出陣した部隊になると思います。

謙信の出陣を8月30日とすると、信玄もかなり急いで出陣しなければ川中島の決戦には間に合わないので、通説で言われているほどの兵力を集めている時間がなく、これも決戦で武田軍が苦戦した理由ではないかと思います。

 ちょっと通説と離れ過ぎになりますが、謙信の手紙の日付が正しいとすれば、従来の通説とは決定的に違ってくるように思います。

 

 謙信が関東にいる間に、信玄は前年の秋から海津城を造っています。またこの年の春には、善光寺の北、野尻湖の近くにある割ヶ嶽城を攻撃しています。

しかしながら、信玄は海津城の築城も割ヶ嶽城の攻撃も謙信が出てこれないのを十分に計算した上で、行っているように思います。海津城の築城は謙信の関東出兵とほとんど同時期に初めているようですし、割ヶ嶽城の攻撃の方も、翌年の6月初めに行い城を破壊して甲府に帰陣したのが6月の25日です。これは謙信が同月の28日に関東から春日山へ帰陣した直前ですので、信玄が極めて用心深く行動していたものと思われます。

そうしますと、信玄が信州に現れ、これを絶好の機会としたような可能性はかなり少ないと思っています。信玄が謙信を誘き出す為なら、何も謙信の帰陣を見計らって自分も甲府へ帰る必要はないと思います。

 また、信玄の出陣の後に謙信が出陣したのだとすれば、謙信の妻女山布陣は難しいと思います。もし仮に妻女山へ移動しようとしても、まさにその際に両軍の戦闘が開始されるような気がします。

 私は、謙信は、信玄が信州へ出陣したら、自分も出陣する可能性はかなり高いと思いますが、信玄は、謙信が出陣してくる可能性が高いときに、自分の方から先に出陣する可能性は低いと考えています。

P/S 想像力が乏しいためですかね。未だに通説から外れるのに抵抗があります。

(「>」この記号がある場合は、会議室の発言で他の方の発言した言葉を引用している場合です。以下同じです。)

>同四年の合戦の際も信玄との決戦を希望していたにも関わらず、多数の兵

>を守備として置いたままで川中島に向かっています。このことだけを見ると、

>通常なら川中島に来るはずがないと言った状況だったようにも思います。

 謙信が、越後等に備えの兵を多く残さなければならない状況であったならば、信玄の出兵する可能性はかなり高くなるように思います。

両将のやる気でも書きましたが、元々やる気はあったと思っていますので。

つまり信玄は、出陣してくる上杉軍を見て思った通りに兵数が少ない(又は集められないだろう)という状況であったので、これは叩けるいいチャンスと思った為、謙信が出てきたも出兵したのではと思います。

> 謙信とすれば戦闘が開始したらしたで、信玄が誘いに乗ったわけですから、そ

>れも構わなかったのではないかと思ったりします。

  信玄の誘いに乗ったのであれば、通常は武田軍の大きな損害が疑問となります。謙信の霧を利用した作戦が余程巧みで、武田軍の不意を付いた為でしょう

が、この点からも退却中に偶然遭遇したと見ることにも抵抗があります。

(甲陽軍鑑について)

  オフ会以外の意見は久しぶりです。

この会議室も間もなく期限となりますが、その前に参加している皆さんから、「甲陽軍鑑」の信頼性がどの程度と考えられているのか、お聞きしたいと思います。私自身は、資料を読む力もなく「甲陽軍鑑」以外の資料も含めて、今まで読んだこともありません。

先日$「歴史謎物語」廣済堂出版(伊沢元彦著)読んだのですが、そこでは「山本勘助」は足軽隊将として実在するとしております。その上で「山本勘助」は近代史学の名において、抹殺されたと述べています。そしてその存在を証明す

る資料として、昭和44年に発見された「市川文書」をあげています。

そこで、昭和44年の発見後に「甲陽軍鑑」が見直しされているのでしょうか?

それともやはり、誤りが多いとして評価替えをするには至っていないのでしょうか?

 川中島についての纏まった記録としての「甲陽軍鑑」についての意見をお聞きしたいと思います。実際に読んだことのある人はもちろん、私のように読んだことのない人(孫引きで読んだだけ)の意見もよろしくお願いします。

甲陽軍鑑の復権(2015年1月追記)

 武田信玄と勝頼の事績を書いたもので江戸時代以降広く読まれた書物であるが、歴史資料的には誤りも多く歴史資料ではなく、軍学のテキストや物語として読まれてきた。

長い間、山本勘助などは実在の人物ではないとされてきた。

しかしこのような甲陽軍鑑の歴史学の見方に対して、これを根本的に見直す研究が国語学から提示された。国語学者酒井憲二氏の研究では、軍鑑本文の言葉使いは、まぎれもなく戦国時代の資料であることが主張され、これにより従来執筆者とされていた小幡影憲ではなく、高坂弾正の口述を彼に仕えていた大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記し、高坂の死後はこの両名が書き継いだものとされた。歴史読本20078月号「甲陽軍鑑の復権と真実」海老沼真治著P170

(オフ会のまとめ)

 オフ会参加者は川中島の纏めを載せようと言うことでしたが、なかなか纏まりませんので思いつくままに書いてみます。

妻女山について

 川中島一帯を視野に入れるのは良い場所だと思いましたが、海津城は想像していたより見えにくく、手に取るように見えるという訳ではありませんでした。

また、妻女山自体は思っていたよりは狭いです。削平地の本陣跡だけでは場所が足りませんので、山の麓から陣があったのだと思います。

謙信がいつ着陣したかですが、例の8月29日付掟書を前提とすれば、上杉軍が2部隊に分かれて着陣したか、信玄が海津城に入城しているのを確認した後に謙信が出陣したと言うことになると思われます。

茶臼山について

 海津城にあった案内図(もしかしたら八幡原かも知れません)に「石川茶臼山」の文字が見えましたので、案内図からすると将軍塚辺りが石川茶臼山と呼ばれていたのは間違いないようです。通説の茶臼山ですが、山頂は遠すぎるように思いました。

しかし、山の中腹から麓の方は、陣を構えるのには、丁度よい位置
にあるようでした。

戦闘について

 武田軍が受けた損害から見て、武田軍が部隊を2つに分けて攻撃しようとして動いたところを上杉軍に裏をかかれたように思います。武田軍が行軍中又は部隊の展開中に上杉軍の攻撃を受けたのではないかと考えられます。信玄が戦はまだ始まらないと思っていた時間に、上杉軍の急襲を受けたため信玄の本隊までが危なかったので、信繁の部隊が左翼から、崩れている本隊を救援するために犠牲になったのではと想像されます。「妙法寺記」には「ヨコイレを成サレ」とありますので、武田の別働隊が上杉軍を攻撃し始めて戦局は逆転したのでしょう。この別働隊の人数や行軍経路については分かりません。

一騎打ちについて

 なかったという決定的な証拠がないので、私はあったという通説を信用したいと思います。

「自身太刀討ちに及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候」の解釈となります。大将がそんなことをするはずはないということで、圧倒的多数の方が一騎打ちはなかったとされています。しかし、このころの合戦では大将が敵陣めがけて駆け込むということが結構あったとして$「激戦川中島」では北条氏康・信長・家康・秀吉の例を挙げています。

そうしますと、ただ単に謙信が太刀を使って切り込んだだけでは、あちこちにあることになりますので「比類なき次第、天下の名誉に候」とはならないのではないでしょうか。やはり信玄に斬りつけたからこそ天下の名誉になるのではないでしょうか(この辺はやや強引すぎるかな?)。

 

川中島の戦い―何故4回目が激戦だったのか(2015年1月追加)

 

川中島の合戦は5回あり、有名な激戦のあった合戦は第4回目の合戦です。同じ武将が、同じ場所で延べ12年にわたって5回も戦うのは戦国時代でも珍しいことです。戦国を代表する上杉謙信と武田信玄が戦ったこの合戦はとても有名なもので、テレビや映画などにもなり戦国時代の合戦としては良く知られています。しかしながら実際の戦がどのようであったのかは、良く分かっていません。

 

4回目の戦がなかでも一番の激戦であったのは何故でしょうか。

武田信玄は今までは、どちらかと云えば謙信との直接対決を避けつつ川中島を含む信濃北部を領有しようと思っていました。

しかし「川中島の戦い」(平山優著 学研M文庫)によれば、上杉謙信が2度目の上洛で、将軍や天皇に直接お会いして信濃や関東への出兵の正当性を認められました。これにより越後の武将だけでなく信濃の武田方の武将たちも、相次いで謙信に太刀などを送って好を通じようとしました。上杉謙信の信濃出兵が本格化することが予想され、これは武田信玄にとっても大きな問題であり、それは信濃だけでなく、甲斐本国まで影響を及ぼしました。

 

やがてその不安がさらに大きくなります。上洛の翌年永禄3年(1560)の上杉謙信の関東侵攻です。この年関東で越年した上杉謙信は、翌年北条氏の本拠地の小田原城攻めを行います。

上杉謙信が関東から帰って来たのが6月で、8月には川中島へ出陣します。このため謙信の小田原攻めを知っている武田信玄としても、これをそのまま見過ごすわけにはいかなくなります。

「川中島の戦い」(平山優著 学研M文庫)によれば、武田信玄も今回は、国境を守る兵をも引き揚げさせて総動員をかけて、云わば根こそぎ兵を集めて全兵力で出兵したようです。

武田信玄も今回は上杉謙信に直接的な打撃を与える必要があったのです。今回の戦では、上杉謙信も武田信玄もお互いに相手に決定的な打撃を与えたいと思っていたことが一番の原因ではないかと思います。

これが第4回目の川中島合戦が、かつてないほどに激戦になった理由だと思われます。

結局どちらが勝利したのか

武田方勝利とする根拠

 戦場に最後までとどまり、そこで勝鬨を上げている。

 川中島地方は結局信玄の領有となった。

上杉方勝利とする根拠

 作戦は上杉軍が優っていた。

 戦死負傷者の人的損害は武田軍が多い。

戦死者等の人的損害はどうか

戦死者の数は両軍とも同じようなものだと思われるが、指揮官クラスは圧倒的に武田側に損失があった。武田一族の武田信繁(信玄の弟)、油川彦三郎、侍大将クラスでは、初鹿野源五郎、三枝新十郎、諸角豊後守、山本勘助、安間右衛門がいるが、上杉軍には名だたる武将はいない。

感状から見る勝利者はハッキリしている

上杉謙信の感状は「血染めの感状」と言われる。913日付の同文の感状が5名に出されている。文面に「狂徒数千騎を討ち捕らえ、大利を得、年来の本望を達し」とある。

これによって謙信が勝利したとの認識であったこと。それが後世においても特別なこととは思われていなかったことが分かります。

これに対して武田側では、これほどの戦闘があったのに、武田信玄は家臣に対して感状を発給した形跡はない。武田家中では感状を望む空気が起こらなかったことが分かります。

武田信玄の偽文書で最も多いのがこの合戦の感状で、無数にあると言ってもよいくらいある。感状については、「川中島の戦い(上下)」平山 優著 学研M文庫及び「武田信玄合戦録」柴辻俊六著 角川選書に書かれている。

 

 

 

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