歴史こぼれ話

 ここでは本などを読んで、意外だと思ったことや割合知られていないエピソード等を書きます。読む人によっては意外でも何でもないこともあるかも知れません。あくまで私が、そんなこともあったのか?と思ったことです。又必ずしも史実かどうかは分からないものもあります。
こちらもこれから少しずつ書き込んでいきます。


(北条早雲の名前) 

 小田原北条氏の始祖であり、後北条5代の繁栄の基を築いた北条早雲(以下便宜上北条氏を使います)は、一介の浪人から身を起こし戦国大名となった下克上の代表的な人物として知られています。しかし彼自身は一度も北条氏を名乗ったことはありません。「北条早雲と家臣団」(下山治久著 有隣新書)によれば、北条早雲という名は江戸時代の軍記物に見られる俗称であり、実名は「伊勢新九郎盛時」次は「伊勢早雲庵」入道してからは「早雲庵宗瑞」と名乗っています。小田原北条氏が、北条氏を名乗るのは1523年の北条氏綱からで、北条早雲が亡くなってから4年後のことです。


(北条早雲の出身と年齢)

 北条早雲の出身も、従来は色々な説がありました。しかし最近の研究で出身や年齢等色々なことが分かってきたと云われます。やはり「北条早雲と家臣団」(下山治久著 有隣新書)によれば、出身は備中国荏原荘高越山城の城主伊勢氏の当主伊勢盛定の次男「伊勢盛時」であることがわかったそうです。この備中伊勢氏は、室町幕府の政所執事を務める京都伊勢氏の一族だそうです。このことから、北条氏は北条早雲時代にはことのほか、朝廷や幕府との結びつきが強かったそうです。
またその年齢ですが、1432年に生まれ1519年になくなったと云われ、88才の高齢まで元気に生きたといわれていました。しかし黒田基樹氏の研究では、生まれた日が叔父の伊勢貞藤と混合されたこことが判明しました。これにより北条早雲は、1456年に生まれ、1519年に64才で亡くなったとする説が有力になっているようです。小説などでも、一介の浪人から身を起こし、戦国時代を代表する下克上の北条早雲像が多いのですが、実像は大分違っているようです。


 

(女戦国大名) 

 戦国大名と云えば、守護大名より遙かに領国の一円支配を強めていきます。在地の豪族に対しても支配を強めています。さらに戦国時代の大名一族の女性と云えば、何となく領主の同盟等婚姻政策の犠牲となったと思われています。
しかしそんな戦国時代にも、意外にも女性の戦国大名がいたのです。
「日本人は歴史から何を学ぶべきか」(小和田哲男著 三笠書房)によれば、現在のところ女戦国大名として実証されているのは2人である。
一人は、駿河・遠江の今川壽桂尼で長男の今川氏輝が若年で当主になった際に初めの2年間を実際に領国支配を行っているそうです。
もう一人は、赤松めし(赤松洞松院尼)で、こちらは実に30年間以上も実権を握っていたそうです。


(戦国時代の女)

 戦国時代の女たちのイメージは、長い江戸時代の影響と明治以降の男社会の中で出来上がったもので、実際とはかなり異なっています。男性や家のために我慢を強いられ、犠牲となった女性たちを想像し勝ちですが、実際の女たちは、もっと逞しく生き生きしていました。外国人が見た日本の女性は、目鼻立ちが良く美しい人が多く、化粧もせず、行動もおおむね自由で、一人で好きなところへ出かけています。また日本の女性たちは、教養が高く文字を書くことが出来、子供の時から武芸を学んでいました。
 戦国の女たちは、財産の面でも男と対等でした。西欧では財産は夫婦共有でしたが、日本では夫婦別々に財産を持っていました。他家に嫁ぐ女子は、親から化粧田や敷銭をもらいましたが、これは一代限りで、亡くなったら実家へ戻します。江戸時代に比べると、自由でお金もある女性像が浮かびます。2006年8月26日の歴史にふれる会の講座より(講師は楠戸義昭氏)


 

(上杉謙信の朱印)

 朱印とは今の印鑑のように、大事な文書に自分の証として朱肉を使って押した印です。謙信の朱印のひとつに「寶在心」というのがあります。宝は心の中にあると云う意味ですが、いかにも謙信らしいと思います。


(派手好みの上杉謙信)

 上杉謙信と云えば越後の武将で何となく地味な印象を受けるが、愛用していた遺品を見ると実はそうでもないようである。米沢市の城跡に上杉神社があるが、そのなかに稽照殿と云う宝物庫があり上杉家ゆかりの品々が展示されています。謙信愛用のビードロのマントは、鮮やかな赤に牡丹の唐草文様です。愛用した馬上杯などもなかなか洒落ています。このようなものをみると謙信はファッションにも気を遣っていたのでしょう。(^-^)
 更に上杉謙信は当時の武将としては珍しく2度も上洛をしていますが、24・30歳と若かったためか京都では時の関白近衛前房等と夜遅くまで酒を飲んで豪遊しています。


(上杉謙信の関東管領就任式)

 1561年春、上杉謙信は鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉憲政から関東管領を譲り受けます。荘厳のうちにその就任式が終わり、謙信が馬に乗り参道を帰る時、居並ぶ諸将は皆拝礼をしていました。するとその中のただ一人だけ、下馬もせず馬上から謙信を見ている武将がいました。謙信は思わずカッとなり、無礼であるとしてその男の顔を扇子で打ち付けました。その男は、忍城城主の成田長泰でした。成田家は藤原家の流れで、源氏の八幡太郎義家に対しても馬上から挨拶をしたという名門でした。この故事を知らない謙信の勇み足であり、成田長泰は多くの武将の前で、顔を打たれたのですから、兵を連れ直ちに自分の居城に帰りました。このことにより他の関東の諸将にも動揺が起き、謙信の関東進出の大きな障害になったと云われています。この出来事は、上杉謙信の激しやすく思慮の無さを語る話として有名で、多くの本に書かれています。(参考「歴史群像シリーズ8上杉謙信」学研)
 しかし、「戦国関東名称列伝」(島遼伍著 随想舎 成田氏長の項)によれば、この時には成田氏の他にも、佐竹・宇都宮・小山・小田・結城・長野・佐野といった平安・鎌倉以来の名家がいました。彼等は名家であるので、故事典礼は心得ていましたが、成田長泰のようにはしませんでした。成田長泰は、図々しく自己中心な為、下馬・拝礼をしなかったのだとあります。


(稀代の財テク武将上杉謙信)

 上杉謙信と云えば、戦争にはめっぽう強いが内政や外交がいまいちで、この面ではライバルの武田信玄や北条氏康にはかなり劣ると思われています。では、上杉謙信の毎年のような長期間の出兵に伴う軍資金は大変な金額になっていたはずですが、これは何によって賄われていたのでしょうか?この点について「乱世の守りと攻め」(小和田哲男著 集英社文庫)は、謙信は稀代の財テク家だったとしています。当時の衣服の材料である麻の半製品の青そ・越後上布の流通を押さえて、その売買益や中間マージンを収入源としていました。更に上杉謙信は、日本海の流通ルートである主な港である直江津や柏崎・寺泊等を自分の直轄領にしていて、船堂前という関税を取っていました。更には越後の米を山陰の出雲地方に販売して、そのお金で鉄を購入していました。当時は日本海側の海上交通は、整備され大動脈となっていましたので、それを活用して謙信は流通経済大国を樹立しようとしていたと考えられるそうです。
そのようなことで謙信が亡くなった時には、その居城の春日山の金蔵には27140両という莫大なお金があったそうです。そしてその金の出所の内には、謙信が商人などに金を貸し付け、利息を取っていたことによる収入がかなりあったそうです。以上のようなことから謙信はまれに見る財テク上手の武将だったようです。


(上杉謙信の女性関係)

 上杉謙信は生涯妻を娶らなかったことで有名です。そのため、男色で女性には興味がなかった。または不能者だったとかはては、謙信が女性だったと言う人さえいます。
 しかし「風林火山 武田信玄の謎」(加来耕三著 講談社文庫)によれば、謙信には関係を持った可能性がある女性が、少なくとも3人はいたという事です(同書P326)。一人は上杉家の重臣直江実綱の娘(姉妹の姉の方)です。もう一人は、関白近衛前嗣の妹・絶姫(たえひめ)で、最後の一人は、上野国平井城主の千葉釆女の娘・伊勢姫です。そのなかでも著者は、謙信の本命は3人目の伊勢姫でなかったのかと書いています。


(川中島合戦の勝敗) 

 最大の激戦が行われた第4回の川名島の合戦の勝敗は、昔から色々な意見があります。最後まで戦場に留まった武田軍の勝利とするもの、戦死者が少なかった上杉軍の勝利だとするや、前半は上杉軍の勝利で後半は武田軍の勝利で結局は引き分けだとするものなどです。
 しかし「武田信玄合戦録」(柴辻俊六著 角川選書)P80以下では、この合戦の両者の感状の大部分が偽物であり、「特に武田側にその傾向が強く、実像としては、信玄にとってこの戦争が敗戦との認識であった点は、真性の感状皆無であることからも分かります。」とあります。当時者の認識としては、上杉軍が勝利したとの認識が一般的だったように思われます。


(直江兼続の結婚) 

 1581年9月1日春日山城中で、毛利秀元が山崎秀仙を襲い同席した直江信綱も惨殺されるという事件が起きました。直江信綱には子供がいなかったので、上杉景勝は家が絶えることを惜しみ、自分のもっとも信頼する樋口与六を直江信綱の未亡人お船の夫とし直江家を継がせました。その時期ですがなぜか急がせ、翌月の10月頃だ云われます。 これだと直江信綱の49日も終わっていない頃になります。直江兼続22歳お船の方は25歳でした。


(今川義元の上洛)

 1560年5月、今川義元は大軍を率いて、京都に上り天下に号令をするために駿府を出発したと云われています。その過程に起きたのが有名な桶狭間の合戦で、それに敗れたために念願の上洛を果たせなかった、と云われています。しかし最近では、この時の今川義元の出兵は、@上洛のためではなく、三河の完全掌握のための示威的な軍事行動であるとするもの、A織田方との境界争いで、鳴海・大高城に対する織田方の付け城に由る封鎖の排除であるとするもの、B尾張へ侵攻し、尾張を領国化するためもの、等と云われています。いずれにしても、尾張の織田方と国堺で争いをしている状態では、一気に上洛をすることは現実的ではなく、京都に長期滞在することにも無理があったようで、上洛を命じる文書なども発見されてはいないようです。

参考「桶狭間の戦い」(小和田哲男著 学研M文庫)
   「戦国15大合戦の真相」(鈴木眞哉著 平凡社新書)

 

(徳川家康と武田信玄の同盟)

 1572年の三方ヶ原の戦で、徳川家康は武田信玄と戦い完敗します。家康はこれ以前もそして以後も信長との同盟を律儀に守り続けたとされていますが、どうでしょうか?完全制覇戦国合戦史(外川淳著 立風書房)では、一時期家康も武田家との同盟を模索したと推理しています。以下同書の推理を簡記しますが、興味ある説だと思います。
 三方ヶ原後、家康は生き残りのために武田家の同盟の道を真剣に模索します。しかしこのことが織田信長に知られてしまえば、命取りになります。そこで、家康は自分の嫡男信康と正室築山殿サイドから武田家に接触させたというものです。築山殿は今川家の出ですから、今川が滅んで武田家に使えている者との接触が図りやすい。交渉相手が徳川家の嫡男と正室ですので、武田サイドは十分に信用します。結果として信玄の死により徳川家は窮地を脱するわけですが、しかしこの動きが織田信長に知られてしまいます。それが、後年の嫡男信康と正室築山殿の死に繋がったとするものです。信長は自分の嫡男より徳川信康が優秀だから殺したなどと言われていますが、そんな理由で殺すわけがありません。


(徳川家康の人質生活は惨め?) 

 徳川家康は8才から19才の間今川家に人質生活をしていたが、その生活は大変苦しく家臣達も自ら百姓仕事をしてようやく生活することが出来た等と言われています。また三河者は今川家からは非常に蔑まれていて、今川家の家臣と見れば這い蹲り礼をしたとも云われています。本当にそのような惨めな人質生活だったのでしょうか?「目からウロコの戦国時代」(谷口克弘著 PHP研究所)によれば、決してそんなことはなかったようです。
家康は14才で元服し松平元信と名乗りますが、「元」は今川義元からもらったものであり、また16歳の時には今川義元の姪に当たる関口氏と結婚しています。これなどは徳川家康を一門に準じた待遇にしていることになります。今川義元に可愛がられて、家康の家臣対する統率権を守ることさえしています。
 それではなぜ今川義元をそのような悪役にした理由は何でしょうか。同書はその理由はハッキリしていて、今川家を滅ぼした徳川家康を弁護するためであるとします。同書では「はっきり言うと、家康は、世話になった今川家を無慈悲に滅ぼした忘恩の徒なのである。」と書いています。恩人今川義元を悪人にすることによって、神君家康をいじめぬいた今川家は滅んで当然というようなことにしたのです。
 先日(2004年9月)NHK教育放送の高校歴史講座で、小和田哲男氏は徳川家康が隠居の城として駿府を選んだ理由の一つに、自分の少青年時代に過ごした土地であることをあげていました。この場合も不幸で惨めな人質生活だったなら、駿府を選ぶことはなかったでしょう。

 

(武田騎馬軍団は存在しない)

 戦国時代のテレビや映画では、無敵の武田騎馬軍団等と言っているのがあります。しかし本当は戦国の武田家には、騎馬軍団がいませんでした。「戦国合戦本当はこうだった」(藤本正行著 洋泉社)では、戦国大名の兵士は家臣がその知行地から、騎馬武者1人、長柄鑓持ち5人、持ち鑓5人、弓何人、鉄砲1人、旗持ち・手明何人などと各村から農民を集めて兵士にします。この場合騎馬武者は、多くは指揮者などの上級兵士が多かった。当然騎馬武者だけを集めて、集団生活や訓練などは出来ません。訓練などは知行地ごとの、いわば各村ごとにしか出来ないはずです。当然のことながら、騎馬軍団を造れなかったわけです。おおよそ騎馬武者一人に付き、7人〜10人の歩兵が一つの基本単位となって、行動しています。その騎馬武者の割合も、上杉家等他家と比較しても、武田家が特別高い割合でもなかったことを考えると、やはり武田騎馬軍団は存在していなかったことになります。


(長篠合戦の鉄砲3段撃ちは無かった)

 上記のように武田騎馬軍団が無いのですから、織田信長が考えたと云われる長篠の鉄砲3段撃ちも無いわけです。鉄砲は大変危険で扱いにくい武器ですのでやはり訓練が大事です。しかし鉄砲足軽3千人を集めて、一度に訓練することは織田信長の兵農分離が進んだ軍隊であっても出来ないことだったでしょう。長篠の織田軍の鉄砲の数についても、3千と1千の二つの説があり、1千挺とする方が有力です。
また、長篠の戦いの経過を見ても、武田軍は横一列になって一斉に攻撃してきたわけでもありません。山県隊や武田信廉隊などと各隊ごとに左翼や中央から攻めています。左翼の山県隊から攻撃を受けているのに、前面に敵のいない中央や右翼まで横一列に鉄砲を撃つはずはありません。当然攻撃を受けている部隊だけが、鉄砲で反撃したわけです。
また、織田軍の馬防柵についても、木の柵だけではなく鉄砲足軽がすっぽり入れる壕を掘り、そこから鉄砲を撃ったと想定している人もいます。

参考
 長篠合戦と鉄砲については、「鉄砲と日本人」(鈴木眞哉著 洋泉社)と「長篠・設楽原合戦の真実」(名和弓雄著 雄山閣)の本に詳しく載っていますので、興味のある方は読んでみてください。 最近、洋泉社新書で「鉄砲隊と騎馬軍団」(鈴木眞哉著)がでました。サブタイトルに真説・長篠合戦とあるように、長篠合戦のことを詳しく書いてありますので、こちらもお読み下さい。


(織田信長の楽市楽座)

 織田信長の新しい政策で、中世の座を否定して自由な商売を保証した楽市楽座ですが、信長が最初に始めたわけではありません。「日本の歴史10戦国の群像」(集英社版)を見ても戦国の北条氏領・武田領・今川領などでも楽市楽座が既に行われているようです。また、「信長・秀吉と家臣たち NHK文化セミナー2000年4月〜9月」(谷口克弘講師)では、信長の有名な加納(岐阜の近く)の楽市楽座令に関しては、以前からの町衆の権利を安堵したにすぎないとしています。更に信長は近江や畿内では、さかんに座の特権を認めており、全体的には楽市楽座を推進したのではないと云っています。


(織田信長の兵農分離) 

 織田信長の軍が強かった一番の理由として揚げられるのがこの兵農分離です。上杉・武田等の戦国の兵たちは個人としては大変強かったが、農閑期にしか働けないのに対して、信長の軍隊は城下町に住み常備軍としていつでも活動出来たと云われます。しかしこの兵農分離についても「信長・秀吉と家臣たち NHK文化セミナー2000年4月〜9月」(谷口克弘講師)では、研究家では異議を唱える人が多いとあります。信長は兵農分離を目指したが、尾張の本領を安堵しておりやはり完全な形ではなかったようです。


(浅井・朝倉氏の髑髏(どくろ)の杯) 

 信長の異常性を示す話しとして、天正2年の正月の酒宴の時に、浅井長政・浅井久政・朝倉義景の金粉で飾った髑髏とその頭頂部を切り取って造った酒盃で酒を飲んだと云われます。今年のNHK大河でもそのように放映されました。しかしこれは、かなりオーバーに脚色されたもので、髑髏の酒盃で酒を飲んだことはないようです。信長公記では、3人の首を漆で固めて飾ったものを酒の肴にしたと書いてあります。つまり飾った3人の首を見て酒を飲んだということでしょう。これでも現代人の我々から見ると残酷な気がしますが、当時は敵の首などは洗い飾って首実検したことを思えば、それほどの異常な事態とは思わなかったのでしょう。
参考「織田信長総合辞典」(岡田正人編者 雄山閣)  


信長の人気) 

 現在では戦国武将の中でも、織田信長の人気は高いが、明治時代の終わり頃にはそう高くなかったようです。「信長は謀略で殺されたのか」(鈴木眞哉・藤本正行著 洋泉社新書)のエピローグでは、明治42年のある本では、豊臣秀吉が横綱、徳川家康が関脇に対して、織田信長は前頭6枚目になっています。戦後の信長人気は、信長は近世を開いた人物だという評価が定着したことと、天下統一の少し前の本能寺の変で信長が亡くなったのも大きいことだと書いてあります。
 さらに同書では、信長が長生きしたとしてもその後の彼の人生が良い方に向かったとは限らないとして、本能寺の変の起きた時点で、そろそろ第一線を退いてもおかしくない年齢に達していた信長は、息子達への財産分与(領国)の件で、現代の大会社の社長よろしく頭を悩ませていたようだし、自分の周辺を、一門などで固めようとも考えていたようだ。その限りでは、月並みな戦国大名の発想しか持ち合わせていなかったことになる。また、海外への出兵も考えていたと言う説(ルイスフロイス)に対しては、事実だとすれば、秀吉の愚行の先取りであり、あれ以上長生きすれば、はた迷惑で無茶苦茶な老人になっていたかもしれない、と切り捨てています。


 

(晩年の信長)

  よく語られることに、晩年の秀吉はおかしくなったと言われます。
しかし、あまり語られませんが、信長も晩年は、多少おかしくなっているようです。
 「信長」(小和田哲男著 KTC中央出版)では、天正9年(1581年)ごろからの信長の増長はひどくなってきているとし(同書第17章)、天正9年の伊賀平定後の巡視では、信長の増長した様子を「信長公記」でさえ筆にも詞にも述べがたいと書いています。また、翌天正10年には、甲斐の武田家を滅ぼした後の信長の巡視では、「甲陽軍監」によれば、馬上から同道した現職の太政大臣を見下ろし呼び捨てにしているようです。小和田氏も、正気の沙汰ではなく増長もいいところであると書いてあります。さらに、このことが 「信長公記」に書かれていないのは、この信長の増長については、さしもの太田牛一も書けなかったようである、としています。 


(戦国時代の刀)

 テレビや映画の時代劇では戦闘シーンになると、刀を持った武将が縦横に活躍する場面が大変多い。しかし実際のところは映像とは違って、刀は実践ではあまり役に立たなかったようです。戦国時代の合戦で受けた傷を、記録によって調べたものがあります。「刀と首取り」(鈴木眞哉著 平凡社新書)によれば、戦国時代の合戦の軍忠状で、死亡者と負傷者の数と原因が分かるのもを調べるとベスト3は以下のようになります(同書P83より)。
1 矢傷・射傷  604件 41.3%
2 鉄砲傷    286件 19.6%
3 槍傷・突傷  261件 17.9%
 では刀の方はどうかと云えば、56件で3.8%の少なさです。これをみると合戦では刀は殆ど活躍していないようです。


(アジア式の鉄砲)

 戦国時代の鉄砲と云えば、1543年にポルトガル人が種子島に伝えた西洋式の鉄砲がすぐに想像されます。この時の種子島の領主は種子島時堯は16歳の少年でしたが、2挺の鉄砲を譲り受け1挺を分解させて複製を造るようにしました。この鉄砲が急速に普及していきます。
 しかしこれとは別の種類の鉄砲があった可能性が高いというのです。「川中島合戦は二つあった」(笹本正治著 信濃毎日新聞社 P45以下)では、1555年に武田信玄が旭山城の守りのために鉄砲を300挺送ったのは、アジア式の鉄砲ではないのかと云っています。この時の鉄砲は、種子島に伝来した西洋式のものではなく、それまでに中国や東南アジアから伝わっていたアジア式の鉄砲で、西洋の鉄砲より性能の劣ったものではないかと述べています。当時一つの支城に300挺もの鉄砲を送れるならば、20年後の1575年に、長篠での敗戦は違った形になっていたのではないかと述べています。


(鉄砲1挺の値段)

 戦国時代に鉄砲が普及した頃の鉄砲1挺あたりの値段は、「戦国時代なるほど事典」(川口素生著PHP文庫)に約20余両だそうです。一両は同書によれば5〜40万円位と云うことで、仮に20万円とすると1挺400万円となります。千挺の鉄砲は40億円となりますので、かなり高価なもので揃えるのは大変そうです。しかし戦国時代の終わり頃には我が国は世界でも有数の鉄砲保有国になります。


(戦場でのとんでもない治療法)

 「戦国時代なるほど事典」(川口素生著PHP文庫P100以下)には、「雑兵物語」に書いてある戦国時代の戦場での具体的な治療方法が紹介されています。
多量の出血がある人には、葦毛の馬の血を抜いて飲ませる。馬の血が手に入らない場合には、馬の糞を水で溶いて飲ませるかそのまま食べさせる。
傷口の消毒には、焼酎が用いられましたが、それがない場合には、人の小便が使われ、場合によってはそれを飲ませたそうです。刀傷の痛みが酷い場合には、やはり小便を陣笠に溜めてから暖めて飲ませたようです。
また、治療の姿勢も寝かせるのではなく、胡座をかかせるのが一番良いとされたようです。小便や大便が大活躍する、何とも凄い治療法です。


(清州会議と滝川一益) 

 羽柴秀吉が明智光秀を山崎の合戦に破った後、信長の織田家の後継者を決める有名な清州会議が開かれます。しかしこの会議その内容がよく分からない謎の会議だそうです。会議が行われたのは天正10年(1582年)6月27日、清州城です。出席メンバーに、織田信長の子の信雄・信孝、滝川一益、堀秀政が出席しているかが記録ではマチマチなのです。
この内滝川一益については、「敗者の日本史10 小田原合戦と北条氏」(黒田基樹著 吉川弘文館)に神流川合戦で北条氏に敗れたのが6月19日で、20日に松井田城へ入り、翌21日には小諸城に入り数日滞在し26日に同城を立ち、7月1日に本拠の伊勢長島へ帰還したとあります(47ページ)。これを見ると滝川一益は清州会議には間に合わず出席できなかったようです。
やはり清州会議の出席者は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4名だったようです。


(伊達政宗暗殺事件)

 伊達政宗が小田原にいる秀吉の元に行く際、実の母から毒を盛られるという事件があります。しかし山形の最上方では、それは事実無根であると考えているようです。「最上義光」(片桐繁雄著 最上義光歴史館)では、「義姫が米沢で政宗を毒殺しようと企んで失敗し、実家の山形に逃げ帰ったという話がありますが、これは作り話です。確かに彼女は山形に帰ってきましたが、それは1594年11月のことで、それまでは岩出山に居住していたのですから、年代も場所もあいません。彼女に着せられた濡れ衣は、まさに根も葉もない作り話だということになるわけです。」と書いています。
山形城の近くの最上義光歴史館の展示物の説明も、同様の内容でした。


 

(秀吉の籠絡戦の失敗例)

 豊臣秀吉と云えば、他人からは「人たらしの名人」と云われ敵の有力者を巧みに籠絡して味方に付けることを得意としていました。「秀吉のすべてがわかる本」(小和田哲男著 三笠書房)では、P146にその失敗例が書いてあるので以下紹介します。1578年から始まった播磨の三木城攻めの時、秀吉は別所長治の重臣中村忠五郎から内応の約束を取り付けます。日時を決め秀吉の軍勢が大手門へ向かったなら内応して門を内側から開けるという約束でした。中村氏は娘を人質として秀吉に差し出していましたので、秀吉も信用して攻め掛かったのですが、これが偽りの内応だったため、秀吉軍はさんざんな目にあったようです。 
 


(黒田如水と宇都宮氏の謀殺)

 2009年8月22日の歴史にふれる会の講座のまとめです。あまり知られていない豊前宇都宮氏の謀殺事件の話がありましたのでまとめて見ます。

15877月九州の役の論功行賞で豊前618万石に封じられる。ただしこの地域は国人の勢力が強く治めるのが大変難しい地域であった。この地の最大の国人は鎌倉以来の名族宇都宮氏でした。この宇都宮氏は名族意識もあったのか、豊臣秀吉を農民上がりと思い秀吉の基には出向きませんでした。当時の当主は宇都宮鎮房でしたが、秀吉の出兵命令に病気と称し息子の朝房を代理とし僅かな人数で参加させました。また秀吉が九州滞在中も、病気を理由に挨拶にも行きませんでした。秀吉も当然、これを心良く思いませんでした。しかし島津攻めで息子に功があったため、伊予に12万石を与えることにしました。しかし宇都宮鎮房はこれに満足せず、先祖代々居たこの地を少しでも残して欲しいと秀吉に申し立てました。秀吉はこれを認めるわけにはいかず、激怒し、宇都宮氏の領土を取り上げ、その地を黒田如水に与えます。

 黒田如水は秀吉の代官として、佐々氏の肥後の国人の乱のために肥後の国に出張します。その黒田如水のいない間に、宇都宮氏は反抗をします。山岳にある堅城、城井城に立て籠もります。如水の息子の黒田長政は、その城井城を攻撃しますが、土地を隅々まだ知り尽くした宇都宮氏の為に大敗してしまいます。

肥後から急ぎ帰った黒田如水は、付城を築き長期戦とし和睦に持ち込みます。その後に、嫡男長政と宇都宮鎮房の娘鶴姫との婚約を申し入れ宇都宮氏を安心させます。また墳墓の地にも領地が持てるよう取り計らうとの約束もします。この策略には宇都宮氏を快く思っていなかった豊臣秀吉も一枚絡んでいたようです。はじめは疑っていた宇都宮鎮房も、次第に信用しはじめます。

 黒田如水が肥後に出かける際に、息子の長政に宇都宮氏の謀殺するための計略を与えたと言われます。黒田如水は宇都宮鎮房の息子朝房を連れて肥後へ出かけて行きます。この留守を狙い、黒田長政は宇都宮鎮房を中津へ呼び出します。宇都宮鎮房は息子長政の顔を見るため家臣40名を引きつれ出かけます。家臣を合元寺に残し、小姓の松田小吉1名だけを連れ城内の一室で娘婿の長政と酒を酌み交わすことになります。その席で長政は宇都宮鎮房を殺してしまします。小姓も同様でした。自分が城井城を攻めて負けた意趣返しの面もありその殺し方は残酷なものだったといわれます。合元寺に討手を差し向け、宇都宮氏の家臣全員を殺したと言われます。

その報告を受けた如水は、同行していた宇都宮朝房を謀殺します。

 その事件の時に、宇都宮鎮房の娘の鶴姫は監禁されていました。室外から聞こえる音が何の音か尋ねたところ、答えは柱を造っている音だと知らされます。そこで鶴姫は自分の運命を悟ります。その柱とはまさに鶴姫を磔にするための柱なのです。鶴姫はそこで磔殺されます。時に僅か13歳でした。鶴姫の辞世の歌です。「はたもの」とは磔刑の意味があります。

 なかなかにきいて果てなん唐衣  我がために織るはたものの音

参考 歴史作家楠戸義昭氏の講座の他に「九州戦国の武将たち」(吉永正春著 海鳥社)の宇都宮鎮房 

 


 

(一夜城は一夜では出来なかった) 

 一夜城と云えば、豊臣秀吉の墨俣城と小田原の石垣山城が有名です。しかし両方の城とも一夜で出来たわけではありません。築城日数ですが、墨俣城は「秀吉のすべてがわかる本」(小和田哲男著 三笠書房)によれば、築城日数として最も妥当なところは1566年の7月5日から8月20日までの47日間と云うことです。ただし墨俣城は、通常考えられる居城ではなく、戦争のための一時的な砦(陣城)のようなものでその造りも簡単なもので、石垣などは使用していません。これに対して、石垣山城は石垣を使用した天守閣もある本格的な城でした。この城は小田原城の北条氏を攻めるために、小田原城を見下ろす石垣山に築城したものです。その工事期間は「戦国の城」(西ヶ谷恭弘著 学習研究社)によれば、1590年の4月5日からはじめ、天守閣以下が完成したのは6月25日ですので、こちらは2ヶ月以上掛かっています。それでも、石垣造りの本格的な城郭が3ヶ月も掛からずに出来たのは、驚異的なスピードだったことでしょう。


(信長・秀吉・家康と天守)

 「城のつくり方図典」(三浦正幸著 小学館)によれば、歴史上で天守に住んだのは小田信長だけで、信長は安土城天守の1〜3階へ住み賓客があると自ら天守を案内したそうである。安土城の天守の内部は豪華な書院造りで、部屋は豪華な金璧障壁画で飾られていました。
 
 豊臣秀吉の大阪城天守は、やはり内部は豪華であったが、秀吉はそこには住まないで本丸御殿で生活した。天守はもっぱら重要な客を案内する場所であった。

 徳川家康になると、天守には客人も上げなくなってしまう。家康が建てた名古屋城等の超巨大天守では、内部は質素になり襖絵もなくなり、天井も張らずもはや書院造りとは呼べない建物になってしまった。家康の天守は、内部の豪華さよりも、外部の巨大さを見せつけることに主眼を置いたからである。
(同書P110より)

 

(石田三成は家康の屋敷へ逃げ込んだか?)

 多くの関ヶ原の小説や歴史本では、加藤清正や福島政則等の豊臣七将から追われた石田三成は、思いあまってこともあろうか徳川家康の屋敷へ逃げ込んだと書かれています。石田三成の、家康は俺を生かしておくはずだという考えの深さと、思い切った行動を採れることのエピソードとして有名です。
しかし「関ヶ原合戦」(笠谷和比古著 講談社選書メチエ3)によれば、これは全くの誤りであるという。同書では、この間の出来事は、豊臣七将から狙われた石田三成は親しい大名の佐竹義宣の助けにより大坂を逃れ伏見に行き、伏見城本丸にある自分の屋敷へ籠もった。それを追った豊臣七将は伏見に兵を集め、石田方とにらみ合いの状態になった。
この時に徳川家康が両者の仲裁に入って話をまとめたものであると云います。


(山内一豊の名前) 

  山内一豊は多くの人は「やまのうちかずとよ」と読みますが、実際は少し違うようです。渡部淳氏(土佐山内家宝物資料館館長)の話によると、まず苗字の山内は、「やまうち」と「の」を入れないで読むそうです。土佐の山内家は、鎌倉から出て丹波→尾張と住所を変えました。このうち丹波で「やまうち」と名乗ったようです。地元土佐では皆さん昔から「やまうち」と読んでいます。
名前の一豊ですが、「かつとよ」となるそうです。山内一豊から名前の「一」を許された家老が、主君と同じ字では恐れ多いというので「勝」に変えているそうです。2006年のNHK大河では苗字は「やまうち」を使用するそうですが、名前は「かず(づ)とよ」として放送するそうです。

 上の話とすぐ下の話は、2005年12月23日クラブツーリズムの歴史講座(講師は渡部淳氏)で聞いたものです。 


(山内一豊の妻) 

 山内一豊の妻も、渡部淳氏(土佐山内家宝物資料館館長)の話では、やはり良く分からない人だそうです。出身地も近江と美濃の2つの説があります。また、その名前も「千代」と「松」といわれるが、よく分からないのだそうです。
名前ではっきりしているのは、彼女の晩年の法号の「見性院」(けんしょういん)です。
名馬購入の際に、親からの大切な持参金を出してそのおかげで山内一豊が名馬を買い、主君の馬揃えで褒められたという有名な話も、どうやら史実ではないようです。


(戦国の山城にはトイレがない)

 驚くことに、戦国の山城にはトイレが無いのだそうです。「戦国の城 上」(西ヶ谷恭弘著 学習研究社 P17以下)では、戦国城郭を発掘しているがトイレの穴は見つかったことがないそうです。当時便器は全て移動のできるオマルで、人と馬の糞尿は、毎日城の外へ捨てに行っていたようです。戦国の戦のための城は、高台にあり城主等の住いはそこではなく、低地にありました。敵が攻めてきた時には高台のお城に入り、敵の。攻撃から守ります。 歴史REAL4(P009)では、山城を案内すると必ず井戸は何処にあるか聞かれるが、山城で井戸が存在する例は極めて少ないそうです。山城は基本的には住むところではなく、住むところは山麓に居館を構えて生活していたので、井戸さえなく、甕を用意して、いざという時にはそこへ水を運んだようです。
 戦国時代の後半になり、各地の戦国大名は各地の高所に戦国期拠点城郭を築いて行きますが、この時期の城郭が生活の場を山城にありましたので、井戸やトイレなども設備としてはあったと思われます。
 豊臣秀吉の朝鮮への出兵で、中国軍が退却した後、軍隊の糞尿跡を探したが(中国兵の数を知るため)見つからなかったと云う話も何処かで読みました。このことは、中国軍は、トイレを決めておいて退却の際には土の中に埋めて整備するのに対して、日本兵は各自適当な場所でそのままにしていたことを物語っているそうです。  


(殿様の食事)

 テレビなどの時代劇を見ていると、殿様(大名の当主)の食事等は贅沢な料理が出てきて美味しそうに食べるシーンがありますが、実際の食事風景はかなり違うようです。「日本の城 大名の生活と気風」(稲垣史生著 平凡社カラー新書)によれば、お殿様の料理は、1汁1菜と質素なところが多かったようです。それに、お殿様は出されたものをただ黙って食べなければならないのです。不味いと言ってしまえば、調理した賄い方の責任問題になり閉門になったりします。反対に美味いと言ってたら、そればかり毎日出てくることになります。しかも出てくる料理は、2重3重に毒味をした後のものなので冷え切ったものばかりです。何とも融通の利かない生活です。


(殿様のウンチ) 

 やはり「日本の城 大名の生活と気風」(稲垣史生著 平凡社カラー新書)によれば、厠で用を足した後には、お小姓がいて殿様のお尻を拭いてくれるそうです。さすがに「子供じゃあるまいし、あれだけは困ったよ」という大名の談話があるそうです。


(一日平均40キロ)

 江戸時代の旅人の歩く距離(成人男子)です。一日に約40キロ歩くのが普通とのことでした。しかしこれは大変な距離です。東京からですと、一日で戸塚、2日目は小田原になります。現代人が頑張って一日40キロ歩いたら、2・3日休まないと歩けそうにもありません。


(坂本龍馬と桂小五郎の試合)

  多くの小説等で取り上げられている坂本龍馬と桂小五郎の江戸での、安政5年の剣術試合があります。司馬氏の「竜馬がゆく」では、3本勝負で2本を坂本龍馬が取り勝ちを収めています。しかし「醒めた炎 上」(村松剛著 中央公論社)P147以下によると、この試合のことは1級資料には何処にも記録されていないそうです。また、この話の出所は、武市半平太の安政5年10月29日付けの書簡だそうですが、当時武市は江戸ではなく土佐に戻っていたそうで、この書簡は後世に誰かが作ったものだろうとのことです。


 

(龍馬を振った女)

 龍馬の初恋の人と言えば、平井収二郎の妹、平井加尾となります。
平井加尾は、龍馬を京都で待ち続けますが、会うことが出来なかったようで、そのことを晩年に生涯の痛恨と言っています。また、生前とても大事にしていた遺品には、夫の物は何もないが龍馬からもらった寄せ書きなどがあり、二人の関係が単なる幼馴染ではないと思われています。
 龍馬も愛したで加尾ですが、実は龍馬はこの時期に、もう一人別の女性に愛を告げています。

 「龍馬伝説を追え」(中村彰彦著 学陽書房 人物文庫)のP77から書くと以下のようになります。
 その女性は、土佐の郷士檜垣清右衛門の娘で、須磨と言います。この須磨は土佐小町と言われた美人だったそうです。ある日龍馬は意を決して檜垣家を訪れ、「是非嫁にもらいたい。この願いを聞き入れてくれなければ切腹する。」と言い土間に座りこんだそうです。須磨は、そんなことを一方的に言われても困りますと言い、断ってしまいます。のちに結婚した須磨は、「龍馬って嫌なおとこでした。」と述懐しています。

 

(ジョン万次郎と岡田以蔵) 

 ジョン万次郎が、土佐の岡田以蔵に刺客から助けられたと言う話があります。この話はジョン万次郎が子孫に語り残した話として知られています。
 墓参りにいったジョン万次郎を、数名の刺客が襲った時に、護衛をしていた岡田以蔵が、ジョン万次郎に墓の後ろで動かないようにしているように言い、襲ってきた2名の刺客を鮮やかに切り倒したところ、他の刺客は恐れをなして逃げ去ったというものです。
 私はこの話は、史実ではないと思っていました。ジョン万次郎を護衛していた土佐に関係のある武士がいて、似たようなことがあったのをいつの間にか「土佐に関係のある武士が」有名な「岡田以蔵に」変ってしまったのだと思っていました。ジョン万次郎は幕臣になっているようですので、護衛の人とは当然幕府が付けた護衛だと思っていた訳です。その「護衛」が語り伝えられる間に、人斬りで名高い岡田以蔵に結びついたのだろうと思っていました。
 ところが7月16日の勝海舟フォーラム2007で、ジョン万次郎顕彰会の平野氏が、勝海舟の依頼でジョン万次郎に護衛として岡田以蔵が付けられたと話していました。詳しい話は無かったものの、先日インターネットの辞典ウィキペディアを見たところでも、この話が載っていました。・・・・と言うわけで、調べたわけではありませんがどうやら史実の可能性が高いようです。
 ただし、そのことが書いてある本を読んで見ても、日時と場所は書いてなかったようなので、疑問は残りますが・・・・。


 

(上野の西郷隆盛の銅像) 

 上野の西郷隆盛の銅像は、明治22年に憲法発布に伴う恩赦になったことが銅像の建設の始まりでした。「彰義隊異聞」(森まゆみ著 新潮社)によるとその銅像の完成までは色々紆余曲折がありました。はじめは丸の内の宮城前に建つ予定でしたが、長州閥の反対にあい、更に日本最初の大掛かりな銅像が西郷ではまずいと、長州の大村益次郎の銅像を突貫工事で作らせ、九段坂上靖国神社前に設置してしまいます。その上西郷の銅像は帝国陸軍の正装は許さないとしました。そのため高村光雲は犬を連れた兎狩に出る今の銅像になったそうです。
有名な話では、明治31年の銅像の除幕式に出席した西郷夫人は銅像を見て「うちの人はこげんな人じゃなかったのに」と言ったそうです。歴史作家の海音寺潮五郎氏は、西郷は礼儀正しい人で人前に出る時にはあんな無様な格好ではなかったとの思いが夫人にはあったからだろう。 多くに人に見られる銅像なので、もっとキチンとした服装の銅像でないと気に入らなかったからではないか、と書いています「西郷隆盛一巻」。


 

(走れない日本人)

 前の文章のように江戸時代は健脚な日本人であったが、走ることは別のようです。「幕府歩兵隊」(野口武彦著 中公新書 P70以下)によると、昔の日本人は走ることが出来なかったようです。昔の一般の日本人は、歩く時に腕を振らないか、振る場合でもは右足と右手というように手と足が一緒に出る歩き方だったそうです。このために幕末に集団で走ることを教えることは、日本の身体史にとっては破天荒に新しいことだとあります。


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