長岡・小千谷の歴史散歩


 この文章は、JR東日本の大人の旅という企画で、「継之助・虎三郎ゆかりの新潟の幕末・明治をたどる」という旅行に参加した時(2002年11月16日)のものです。史跡等の説明は、大部分を長岡市立図書館の館長で郷土歴史家でもある稲川明雄氏が行いました。以下の文章は稲川明雄氏の旅行の際の説明を要約したものですが、書いた文章には私の勘違いや訊き誤りがあるかも知れませんので、あらかじめお断りしておきます。



(小林虎三郎の墓)

ここが虎三郎の墓です、長岡では虎さんと言っています。
墓は昭和34年東京の谷中にあったものを、こちらに持ってきました。亡くなったのは東京の向島です。こちらの小林虎三郎の写真を見て下さい。左目は疱瘡で潰れています。武士のくせに髭がもじゃもじゃですが、これは隠居させられていたためです。小林は江戸の佐久間象山の塾で、吉田寅二郎と並んで二虎と言われたぐらい優秀な人で、学頭をやっていました。幕末の時には世に出なかったのですが、明治になってから世に出てきました。

小林は肝臓病、腎臓病、リュウマチ肺病など色々な病気になっています。
小林家は上州の赤堀の出身。長岡の武士は約600家あったが、そのうち200〜300は三河の国から来ている。小林家は、長岡藩に仕えたのは遅い方であり、徳川綱吉の時代に表坊主として長岡藩に採用されています。その後子孫が努力して百石取りの侍となりました。
今はそうでもなくなったが、長岡は武士のお寺とそれ以外のお寺の二つに別れている。ここ興国寺は国を興すという意であるので、武士のお寺でした。

 興国寺にある小林虎三郎の墓です

長岡市内のバスの中で)

長岡のお城は現在はなくなっています。今日、皆さんが降りた長岡駅が、長岡城の本丸だったところです。今バスが走っているこの辺りは宮原と言います。長柄槍の組が屋敷を構えていたところで、城下の南外れになります。
ここから三国街道が始まっていて、当時、江戸の板橋までは6泊7日で行きました。

 

(長岡での河井継之助)

長岡は、河井継之助派と小林虎三郎派がいて、互いに喧嘩しているようなところがある。二人は同じ年代で同じ町内で育っています。子供の頃から一緒になって生活やら勉強してきています。
河井継之助は、司馬先生の「峠」という作品に書かれています。「峠」は、実は300万部も売れているが、これは司馬氏の作品の中でもかなり売れている方で、「坂の上の雲」に続くくらいである。徳川慶喜を書いたものは100万部ですが、NHKの大河ドラマになりました。司馬氏の「峠」は300万部も売れているが、大河ドラマに取り上げられていません。司馬さんの作品の中でも、ちょっと変わった作品である。
なぜ取り上げないかというと、NHKはこういっています。長岡に行っても、長岡の町の人は河井継之助のことをちっとも宣伝してくれない。河井継之助を嫌いな人や憎んでいる人も、沢山いるからだと言っていました。
司馬先生も、長岡へ取材に来た時に不快になったそうです。
ところが小千谷ではそういうことはなかった。小千谷の町に行ってから、河井継之助の生き方が分かったそうです。なぜ長岡は、河井継之助のことを評価しないのかと怒っていました。
そういうことがあり司馬先生は長岡へは、講演は1回しか来ていません。講演会をお願いしても、来なかったそうです。
 現代の社会に、歴史がどういうふうに影響しているか。特に地方は、日本全体の歴史とは異なった自分たちの歴史を背負っているわけです。

(注)稲川先生のこの話を聞いてから、長岡の講演で司馬氏はどんなことを話したのか、興味がありました。2003年2月2日に司馬遼太郎記念館へ行きました。そこで「司馬遼太郎全公演 第1巻」朝日新聞社刊があり、長岡での司馬氏の講演が掲載されていました。それを見ますと、講演は1971年9月22日長岡市厚生会館で長岡高校創立100周年記念行事により一般市民を対象として行われました。原題は「歴史と人生」ですが、その本では「河井継之助を生んだ長岡」という題名になっています。その本での話の内容は、小説「峠」何故書く気になったのか、どのようにして小説の取材をしたのかについて語っています。
何故長岡は、河井継之助を評価しないのか?と云うことは語っていないようです。しかしながらそのなかで、体に入ってこないと小説は書けないのですが、なかなか長岡という町が体に入ってこないのですと書いてあるところがありますので、あるいはそのあたりが司馬氏の不快を表しているのかも知れません。

 

(朝日山の攻防)

朝日山古戦場入口です。新潟県では、日のさす方が朝日、だから川東を普通夕日という。でもこの山から朝日が出るので、それで朝日山と言った。この朝日山の攻防が一番酷かった。戊辰戦争で西軍の兵が、非常に苦しかったあの山から朝日が昇ったのを見て、朝日山となった。
今まで勝ち続けてきた西軍が、初めて停まった場所です。これまで順調だった西軍が、此処まで来てピタリと停まってしまった。山県は明治維新が頓挫されてしまうと言った。朝日山の戦闘は、それだけ厳しい状況の戦争だった。信濃川を挟んで大砲の撃ち合いをやったところです。
信濃川の向こうから薩摩兵と長州兵が攻めてきました。江戸時代の人達は殆ど泳げなかったそうで、そこで船で川を渡るわけですが、船頭は嫌がりますので1船100両と言ったそうです。実際の金額は分かりませんが、100両を何人かがもらったと言う話があります。100両と言えば、当時では一生暮らしていけるお金ですので、凄い大金です。
今見るとたいしたことではないような気がしますが、当時は雨が続き洪水で、相当な濁流だった。

 

(小千谷)

小千谷は美人の多いところで、昔は美人に注意という看板があったほどです。見とれて脇見運転になりそのための交通事故があった。今は女性差別と言うことで、看板は無くなっています。
小千谷は小千谷ちぢみもあり、今でも着物の産地です。
此処には信濃川の港があり、小千谷陣屋がありました(病院の直ぐ下に)。
ここから新潟までは船で行け、新潟からは京都まで行くことが出来ました。越後の信濃川は交通手段でした。
小千谷の花火は凄いです。宣伝をしないので観光にむすびつかないのですが、目の前に花火の殻が落ちてきます。4尺玉と言う、とても大きな花火があります。この立派な家は、小千谷の西脇邸です。詩人の西脇順三郎はこの家の分家です。

 

慈眼寺

慈眼寺の山門は天保時代のもので、当時からあったものです。
当時此処で岩村と河井継之助が会談をし、決裂します。江戸では、西郷隆盛と勝海舟が会談して、話がまとまりますが、長岡の場合は決裂しました。慶応4年の5月2日のことです。新暦では6月20日になり、まだ梅雨が明けない時であり当時も雨が降っていました。
会談には西軍は薩摩人1人・長州人2人がいました。実際には、何を話したのかよく分らなかったのではないか。岩村は土佐の宿毛と言うところから来た。宿毛は土佐でも山の中であり、薩摩も長州も日本の外れの方にあり、皆そういうところの人だった。
そのために、話していてもお互いに良く言葉が通じなかったのではないかと思います。会談は午後2時頃だったと云います。
此処のお寺は今でも薩摩藩の戦死者を弔っている。この寺は当時は薩摩藩の宿陣だった。勝った方の薩摩人は、此処で弔われている。長岡で戦死した薩摩人も、全部此処へ持ってきています。
調べてみると15・16歳で死んでいる人も多くいます。それらの人は鼓笛ををたたいていました。当時は、鼓笛は少年が勤めていました。部隊の隊長の側にはその少年兵の鼓笛がいますので、隊長を狙ったり鼓笛員を狙ったりした。そのために多くの少年が死んでいるのです。

 此処に置いてある写真は、昭和14年11月14日、河井継之助の子孫(根岸錬次郎)と岩村の子孫が会談した時のものです。真ん中にいるのは小千谷町長(当時)で、小千谷の仲介で仲直りさせようと思ったのです。岩村の子孫は下駄を履いていますが、これは背が低かったためです。写真を撮る時にパッと伸び上がったのです。張り合っていたようです。仲良くしようと思ってもなかなか出来ない。歴史の感情が残っている。

 此処の会談が決裂して、戦争は妙見・朝日山で始まります。北越戊辰戦争より会津の白虎隊の方が有名ですが、北越戦争は戦場は新潟全体に広がった。しかし政治力という点では、北越戊辰戦争は問題はあまり無かった。
白虎隊の兵士が此処で二人死んでいます。少年は前髪を結っていますが、昔はそういう人は首を切らなかった。それで酷いことですが、一人は土蔵につり下げられています。又朝日山では、両軍兵とも人のキモを食べたりしています。今は平野が広がっていますが、昔は一面泥田でした。昔の越後の米は上手くなかった。酒も美味しくなかった。

薩摩の兵は鉄砲で鶏を追いかけて撃つのですが、たまに住民に当たってしまうことがある。そうすると薩摩兵は凄いもので、撃った兵隊の首を切っています。
新潟県ではそれまで鶏は殆ど食べなかった。産んだ卵を食べていた。ところがこの戦争によって鶏を食べることを覚えました。戦争は異文化が入ってきて、その住民の生活をかえてしまうのです。

  慈眼寺の山門。
慈眼寺には、河井継之助と岩村が会談した部屋があります。見学する場合は、事前予約が必要です。
2004年11月の中越地震で慈眼寺は多大な被害を被りましたので建物中には入ることが出来ません。復旧を祈るばかりです。


東忠

河井継之助は、此処(東忠)で酒を飲んで飯を食べて帰った。泊まったところで月が昇って来るのを見たそうです。自分の首と3万両を出せばよいだろうと思案したのだと思います。
東忠の建物は中にはいると細い柱で、京風の造りになっています。新潟は信濃川を通って京都の文化が入っています。

                    
 小千谷の東忠です。 右の写真は、今も残っている河井継之助が遅い昼食を食べた部屋です。
やはり東忠も、2004年11月の中越地震で多大な損害を被りましたが、2005年の4月より営業を再開しました。


(小千谷会談)

小千谷談判はよく考えるとなかなか面白い。小説などで色々取り上げられていますが、実際はどういうことを話し合ったのか分かりません。しかし明治維新(近代の夜明け)のことについて話し合ったことと思われます。
明治維新と云うことについては、西軍より実は東軍の方がよく分かっていました。
明治維新と云うのは西軍側がやったというのが定説ですが、日本の近代化すなわち明治維新を何のためにやるのかと言うことを考えた時に、東軍の方がこれから変えなければならないと云う意識をよく分かっていたのではないか?
小千谷談判をもう一度検証すると面白いです。

小千谷談判が実際に歴史に書かれるのは、実は明治20年代になってからです。その20年間の空白はかなり大きな意味を持っているのだと思います。20年もたってからなぜ書かれたのかと云いますと、その間は混沌としていて記録を始めるのに20年間かかったのではないか?
河井継之助が面罵されて戦場で会おうと云われた際に、彼にはその後も交渉の余地はあったのですが、それを棄てて戦争に突き進みます。なぜ戦争を起こしたのかは永遠のテーマです。

 

(朝日山と榎峠)

朝日山と榎峠で激戦が行われましたが、此処では雌雄を決しなかった。此処を押さえると西軍を防げた要衝です。

大砲を山のてっぺんにあげると、約2400メートル飛ぶ。4ポンド砲を山に上げた。当時の大砲は実は大抵は30分に2発しか打てなかったが、それでも脅威だった。1門では1日に30発しか打てなかった。しかし山県は一日30発というのをこえて、一日に150発も撃たせたと云います。如何に当時の常識を越えて激しい戦闘だったのかが分かります。西軍は下から上に撃つ方だったので、上手くいかなかった。東軍は上から撃っていたので優位だった。

当時の東軍は日の丸の旗を使い、西軍は各藩の旗をバラバラに使っていた。一見、日の丸は明治政府が初めて採用したように思うが、越後の戦場では東軍がその旗を使っていた。

司馬先生の書いた峠はどういう意味かと言えば、時代が変わる峠だということです。河井継之助は封建時代にあって、近代を見ていた人であったと褒めている。時代の中にいてそれに巻き込まれて死んでいった。

 信濃川の対岸から見た榎峠。

長岡・小千谷2

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