(長岡の戊辰戦争)

河井継之助というとガットリング砲が有名です。ガットリング砲で歴史を変えられるかと思った。しかしガットリング砲は、残念ながら戦場では殆ど使われていません。

長岡藩はたった1200名くらいの軍隊であった。それで、何万名もの兵を相手にした。西軍に立向かった理由は、軍事能力が高かったことが理由の一つである。ミニエール銃(後装銃含む)を揃え、一説にはアームストロング砲もあったとも云われる。河井継之助は東軍の中では、かなり強固な軍隊を作っていました。

長岡には、常在戦場の精神がある。常に戦場にいる時のことを考える思想が、250年間ずっとありました。

戊辰戦争では長岡は勝てる時には一生懸命にやるが、負けると解った時には逃げている。会津の戊辰戦争と長岡の戊辰戦争は極めて違う。

端的に言うと、例外的には女性が戦場に出てくる場合もあるが、会津の場合は女性が早く死んでしまう。
男性が働きやすいように又は後顧の憂いを無くす為に、自害をしてしまう。会津はそういう悲壮な戦争をしました。

これに対して長岡の女性は死にません、生き残ります。自分たちを(子供達へと)繋げることを大事にします。したがって旦那が死ねば再婚します。城も負けると分かると一日で逃げてしまう。会津ではあれだけの長い籠城戦をしています。長岡は極めて実利的だと思う。

長岡の町が復興したのは女性の力が大きかった。男が負けてがっかりした時に、女性は食べるために一生懸命内職をしました。戊辰戦争の最中でも長岡の女性は男性達の後に、子供達を引き連れて付いていきました。会津へ行き、石巻、仙台、花巻までも付いていって、そして帰ってきます。大変なバイタリティだと思う。戦場でも、自分の旦那が死んでいるのを訪ね、調べに行っている。それを見て他の藩の人はびっくりしている。

私はこう思います。明治以後は、日本は会津の精神史が伝わっている。それが太平洋戦争まで行っている。しかしもし長岡の女性の精神史が伝えられていたならば、長岡の女性は絶対に死なないので、あのような戦争(太平洋戦争)はしなかったのではないか。山本五十六には自殺説もあるが、彼は絶対自殺などはしなかったというのが長岡の人の信念です。長岡では死んで責任を取ることは、昔からしないところです。責任を取ると云うことは、生きて取ると云うことを教わっているからです。

長岡の町は城の上に町が出来ている。いわば武士のプライドの上に町が出来ている。これはどういうことかというと、今生きていることが大事だと云うことである。今の現実をよく見て、将来のことを考えると言うことです。

 榎峠の道 長岡藩の本陣があった光福寺。

戊辰戦争はよく見てみると、他の戦争とは違っている。たとえば、むやみな戦争をしていない。

河井継之助はちゃんと保塁を造ってやっている。こんなに広い土地で戦っているのですが、最小の兵で最大の効果を上げるようにやっている。河井継之助はナポレオンの戦争を勉強して、近代戦争をします。

北越戦争では西軍の方が昔ながらの戦争をしている。東軍は兵力は劣っていたが、戦法・兵質で西軍より勝っていた。西軍と互角に戦ったということが、後の米百俵の精神に繋がっています。

山本五十六の兄は、13歳の時に戦場で置き去りになっている。その後その経験を基に戦場で一番犠牲になる「民」を救うことを考えます。それはキチンとした教育を教えることが大切だと考えるに至り、キリスト教の牧師になった。

米百票の精神は、河井継之助の陽明学の精神をかなり取り入れている。

私は市史編纂をやって古文書と格闘してから、江戸時代の女性はいじめられているようだが、実はそうでもないと思うようになりました。

長岡の中之島で、ある女性の日記が出てきた。そこにお妾けさんのことが書いてあります。当時の名主のところには第2婦人がいる。第1婦人は子供を育て、第2婦人は家庭を育てると言っています。第2婦人は、家の中を任せられるしっかりした人で、武士の女性が多かった。

江戸時代の宗門改め帳では、旦那の次に奥さんがいるが、明治時代から戦前の戸籍は違います。旦那の次には長男がいる。奥さんは最後になっている。

長岡では、田植えや稲刈りなど女性が支えてきていることは多い。

昔は、蕎麦はそんなに良い食べ物ではなかった。麦は昔は税の対象ではなかった。田圃のあぜ道などに植えられていました。

小林虎三郎は河井継之助と反対の人物のように捉えられていますが、二人は、教育論では同じようなことをいっています。侍を作ろうとしている。小林の国漢学校の授業料は2朱であった。そのうち1朱を書物料とした。昌福寺は国漢学校の発祥の地であった。

 

(栄凉寺)

戊辰戦争で亡くなった長岡藩の人の遺体は、90%以上分かりません。遺骨収集は出来ませんでしたので、野に伏して終わりです。死体を弔うことが出来なかった為、当然墓に入れることも出来ない。そこで負けた方は、大分後になってから慰霊碑を建てるより他になかった。こういう供養塔を建てています。

栄凉寺は長岡藩主の菩提寺でした。昔は大きなお寺だったが戊辰戦争で焼けました。蔵造りの浄土宗のお寺です。

(これが)二見虎三郎のお墓です。小千谷会談の際に河井継之助に随行した、たった一人の長岡藩士です。

遺族の人の話では、会津で負傷し、長岡へ帰ってこれずに、山形で自殺したそうです。仮説ですが、小千谷談判の責任を取ったのではないかと思います。

長岡の殿さんである牧野家の墓です。本当は東京の三田の済海寺にあったのですが、最近こっちへ持ってきたのです。
こちらが戊辰戦争の時に藩主だった12代忠訓の墓です。忠訓は、家付き娘のつね姫の養子でした。

横にあるのは、歴代藩主の長岡での奥さんの墓です。正妻は人質として江戸にいました。

河井継之助の慰霊祭は、(亡くなった場所の)只見は8月16日、長岡では10月の始め新暦に会わせてやります。

  

(河井継之助の墓)

 此処が河井さんの墓です。7月25日午後3時頃、左足に銃弾が当たって倒れました。銃弾は鉛玉でしたので、そのままにしておくと腐ってしまいます。当時の長岡藩には外科医が沢山いて、そのような銃弾の為に焼酎とナイフ(メス)を持っていまして、直ぐに銃弾を取り出す治療をしていました。ところが、河井さんは、取り出さなければ腐ってしまうのを分かっていながら、外科医に治療をさせていません。なぜ治療させなかったのかは今でも分かりません。

その後はズーと担架に乗って只見まで運ばれ、8月16日に只見で死にます。死ぬ時に有名な話があります。それは、死ぬ時に自分の首を敵に渡さないために、自分の肉体を焼けと従僕に命令します。火をつけさせ、自分を焼く火を見て死ぬわけです。

従僕は言われたとおりに焼きます。敵が迫っているので大急ぎで火葬にします。その後河井さんの骨を拾って背中に背負って運んだら、背中を火傷をしたといいます。骨を拾って会津へ行きそこで葬式をします。会津で墓が出来るのだが、その中に骨を入れません。西軍が攻めてきたらその墓を暴くからです。しかし暴いても骨が無いというわけです。会津の建福寺には今でも河井さんの墓があります。

後になって奥さんが、従僕の松蔵に会津から骨を持ってこさせて、此処へ埋めました。真ん中が河井さんで、両端は奥さんとお母さんです。

河井継之助の奥さんは、明治期まで生きているが、凄い人だと思います。

墓はよく見ると痛んでいますが、近所の奥さん方が墓を転がしたのです。自分の旦那が殺されたり、死んだので、女の人が怒ったのです。こいつが悪いんだというわけで、墓を転がした跡です。

河井さんの奥さんはその後、長岡でそういう批判に耐えちゃんと生きていきます。自分が死んでしまえば旦那が非難される。旦那は正しいことをしたのだから、私は生き残る。本当に優しい人です。

河井継之助が、芸者遊びをした時にも、ニコニコしていたと言われます。

河井継之助は陽明学をやっています。自分は何のために生きるのかというと人のために生きる、そのために妻も自分に協力しなければならないと考えていました。山本五十六もそうです。結婚する時に、自分は「公」をやる。「私」はあんたに任せると言ったそうです。そういうことでも嫁に来るかと聞いたそうです。

男性は理想に燃えて仕事をするが、女性はちゃんと現実を見ています。

 

小林は戦争が終わった時に現実を見て、今何が出来るかを考えた時に、教育しかなかった。教育(人を育てる)を一生懸命やればよいと考えた。河井継之助も教育改革をやっています。河井継之助と小林虎三郎は同じようなことをやっています。

戦争に負けた時にはどうか。プライドを無くさないことが大事なのだ。長岡の武士はそういうことをやっています。河井継之助の生き方を生かしていこうというのが、小林虎三郎の生き方なのです。理想だけを考えるのではなくて、現実を見て何が大切かというと、それが教育だった。

河井継之助は、藩政改革など素晴らしいことをやりました。

私たちは、司馬先生の「峠」の作品の中で河井継之助像を見ますが、司馬先生の河井像だけではなくて、よく見ていくと、河井継之助だけが優秀なのではなくて、河井継之助の取り巻きの中に立派な連中がいたのであれだけのことがやれたのです。

たとえば、河井継之助のお母さんは、河井に算盤を教えています。武士の家で子供に算盤を教えたということは凄いことです。

河井継之助の奥さんですが、一人でひっそり暮らしていたある日、鈴木という人が訪ねて来ました。その時、彼に「人間というのはちゃんと分かってくれる日が必ず来る」と言っています。そういう河井継之助の真意を分かっている人がいたからこそ、後世の今でも河井継之助と言われるのです。

河井継之助の真意が分からないと、単に戦争に負けたとかになってしまう。

私は子供の頃からこの辺で遊んでいた。河井さんのことを書いた時にはここ(墓)へ来て、話します。

河井さんと対話をします。お前さんのことをこう書いたが、違っているかと訊きます。そういう時には死んだ人も生きている人も同じような気がします。

河井継之助の墓に花が飾られるようになったのは、最近です。長岡の人は不思議で、河井継之助を大嫌いだと言っていても、(長岡以外の)他の人からそれを言われるのは嫌いなんです。

此処の墓の士族の90%は無縁仏になっている。

昨日も小山良運さんの子孫の方が見えました。何代も生活に追われているが、最後に帰ってくるところが故郷なのです。

「蒼龍窟」は禅宗の碧巌録から来た言葉です。

 栄凉寺の河井継之助の墓。         只見にある河井継之助の墓。

(山本五十六)

山本五十六は、長岡を代表する米百俵の精神で出来た人だと思いますが、自分の欲を無くすることが大切なんだと言っている。他人のために生きようということが、自分のためにもなるんだ。そういうことを教えてくれるのが、人材教育だと言っている。

米百俵の故事があるが、金をもらって人材教育をやるということは何処でもやっている。何の為に勉強するのが分からないから勉強しないのだと思う。何のために勉強するのかを教えるのが、教育であり米百俵の精神だと思う。

 山本五十六の生家(復元されたもの)。 

(米百俵の碑)

米百俵の碑ですが、故郷創生資金の1億円で出来ました。昭和50年頃の歌舞伎座でやった舞台を再現しています。本当にこういうことがあったのですが、小林虎三郎に「米よこせ」と言った人の名前は仮名になっています。米百俵をよく考えると、小林虎三郎がいくら教育のことを言っても、食べる米がなければ人間は死にます。その時に「分かった。おまえの言うとおりにしよう」言った人が偉かったのです。米百俵というのは、それを分かって協調して米を分けることです。

戦争をした人が、これからはあんなに苦しい思いはしたくないと思う。

如何に分けてやるか、お互いに助け合うか、それが教育です。取り合いをすればダメで、分け合わなければならないのです。

河井継之助は人を生かすのが改革だと言っています。組織を作ると初めのうちは上手くいくが、だんだん形骸化してしまう。そしたらそれを又もとに戻してしまえば、改革はキチンと出来る。それが米百俵に精神です。

戦争を長岡が体験したから、初めて米百俵の精神がある。たった百俵の米で町作りをしている。これが大切なのです。小さな金でも理想を高く掲げて、現実にやれることをやることが大切なことです。

 米百俵の碑。



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