白河(小峰)城   

見学日 2003年6月28日 文化放送歴史探偵倶楽部、ほか個人で行き、4・5回行きました。
所在地 福島県白河市字郭内
城は悌郭式の平山城です。2011年3月の大震災で、石垣が大きく崩れ、2012年に改修工事に入りました。

 私の故郷は山形県ですので帰省などの際には、新幹線が出来る前は東北線の電車の窓から白河城の石垣がよく見えました。その時から一度は行ってみたい城になっていました。それから相当の月日が過ぎてから、ようやく行きましたが、想像以上に石垣の立派な城でした。
 白河城は、南北朝時代に小峰氏が築城したと云われます。戦国時代には伊達家に従う。その後、豊臣秀吉の小田原の北条攻めに参加しなかったことにより、小峰氏は所領を没収されます。蒲生氏郷が会津へはいると、蒲生氏は白河へ城代を置きます。
1627年には、丹羽長重が白河領主になり、4年がかりで城の改装と拡充を行います。その結果白河城は、奥羽の関門としてふさわしい強固な城となりました。ちなみにこの丹羽長重は、織田信長の重臣であった丹羽秀長の嫡子です。
 幕末の戊辰戦争では、この白河城をめぐって奥羽列藩同盟軍と新政府軍が激しい攻防を繰り返しました。会津藩の家老西郷頼母がこの城の守備を任されていたが、少数の新政府軍のためにこの城を奪われてします。その後、奥羽列藩同盟軍は何度も白河城奪回を計り攻撃を繰り返しますが、各藩の軍が統一した行動をとれないためもあり、いずれも上手くいかず撃退されます。



 写真は本丸の石垣と内堀。二之丸から本丸へ入るところから撮ったもの。


 土塁の城が多い東北の城では、白河城は石垣が見事な城です。東北にある城で石垣の見事な城は、他には盛岡城と会津若松城がありますが、白石城はその中でも屈指の石積みを誇っています。
 城跡はバラ園にもなっています。

 写真の左側やや上をよく見ると、石垣が同心半円状に積まれているのが分かると思います。石積みの技術が高度なものでなければ、このような積み方は出来ません。このような石の積み方は丹羽家の石積みの特徴とも云われますが、同時に大変な技術を持っていたことが分かります。
 上の写真の土橋を渡り清水門跡から、本丸の石垣を見たところ。左側に行くとバラ園があります。

 写真は本格的な木造で平成3年に復元された三重櫓。 天守閣の代わりになっていたものである。


 この城を築いた丹羽長重は、織田家の重臣丹羽長秀の嫡子です。木下籐吉郎が出世して名前を変える時に、当時の織田家の2人の重臣、丹羽長秀と柴田勝家の名字から一字ずつもらって「羽柴」にしたという逸話は有名です。
また、丹羽長秀は大変築城の技術に優れていました。織田信長が戦国城郭の一大集大成とも云える安土城を築きますが、その際に築城の総責任者に指名されたのが丹羽長秀です。丹羽長秀は織田信長亡き後の織田家の有り様を決める有名な清洲会談では、羽柴秀吉に味方し、その後は秀吉の協力者として働きます。晩年は北庄の城主で123万石の大大名になります。
 写真は平成6年に復元された前御門を内側から見たもの。右側手前の石碑は本丸御殿跡を示すもの。本丸御殿は畳総数が707畳もの広さがあったとされる。

 写真は三重櫓のあるところから、前御門を見たところ。高台に位置するのが分かります。


 丹羽長秀の亡くなった後は、嫡子の丹羽長重が継ぎます。しかし123万石という大封が秀吉に警戒されたためか、2度の減封を受けます。関ヶ原後には改易になってしまいます。1603年には、常陸古渡に1万石で大名に戻ります。1622年に奥州棚倉に5万石、1627年に白河へ移封された時には、石高は10万7千石になっていました。このように目まぐるしく石高が変わりましたが、丹羽長重は城造りの名手として知られていたようです。


参考 「企画展 丹羽長重と小峰城」白河市歴史民俗資料館編集・発行 平成9年4月19日再販
    現地説明板等、講師の説明等


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