会津若松城(鶴ヶ城)

見学日 2004年9月24・25日 その他にも会津若松には4・5回行っています。
所在地 会津若松市追手町

 東北の名城会津若松城は、戦国時代には会津の名門蘆名氏の居城で黒川城(黒川館)と云われていました。1589年蘆名氏を攻め滅ぼした伊達政宗は、この城を本城としますが、豊臣秀吉の奥羽仕置きにより、この地には蒲生氏郷が入ります。蒲生氏郷は、奥羽の要として伊達政宗や徳川家康を牽制する役目を豊臣秀吉から期待されたと云われます。そのため蒲生氏は、黒川城を大幅に改築し、その城の名前を若松城と改めます。蒲生氏郷が亡くなった後には、越後から上杉景勝が入ります。上杉氏は天下分け目の関ヶ原の祭には、徳川家康との戦も辞さない覚悟でした。徳川時代には、加藤嘉明が入り、城郭を整備します。1627年には徳川家光の弟の保科正之が入り、以後幕末まで保科家(松平家)が続きます。
 戊辰の役では、会津藩主松平容保が新政府軍を相手に1ヶ月もの籠城戦を戦い、数多くの犠牲者を出しました

 写真は本丸東側にある二の丸から、廊下橋(中央赤い橋)越えで本丸を見たところです。ここの廊下橋左右の本丸の石垣は、高くそびえて見事です。
 蘆名時代にはこの廊下橋には屋根が付いていましたが、加藤氏の時代に屋根を外したそうです。蒲生氏や上杉時代にはこちらが本丸大手でした。廊下橋の下は、北側が土塁と南側が石垣になっていて、左右の内堀の水量を調節する役目もあります。
 
 写真は天守閣から干飯櫓と南走長屋・鉄門・走長屋を見たものです。干飯櫓と南走櫓は平成13年に復元されたものです。
 写真は鉄門です。鉄門は帯曲輪から本丸への入口ですが、手前の方が本丸になります。扉や柱が鉄で覆われていることから鉄門と呼ばれた。
戊辰戦争では小田山からの新政府軍の砲撃が激しいので、松平容保等はこの辺りで籠城戦の指揮を執ったそうです。
 昭和40年に再建された天守閣です。その姿は加藤氏時代の5層の天守を再現したものです。天守台の石垣は蒲生氏時代のもで、内部は二階の地下室で籠城戦に備えて塩が蓄えられていたそうです。
蒲生氏時代の天守閣を七層の天守閣とする説もあるが、江戸時代に天守の層・重・階の使い分けが混乱したところから来ているためであり、五層七重と見るべきだそうです(「名城を歩く12 PHP研究所」)。
戊辰戦争ではこの天守閣が小田山からの砲撃で無惨な姿になりましたが、新政府軍の攻撃によく耐えました。
 本丸東側にある千利休の子、千少庵が造った茶亭・麟閣のなかの茶室です。発掘調査し平成二年に現在に地に復元しました。蒲生氏郷は千利休七哲に入っていましたので、千利休が切腹をした後にその子少庵を会津へ匿いました。この少庵が蒲生氏郷のために建てたのが麟閣です。

参考文献 「名城を歩く12 会津若松城」(PHP研究所 平成15年11月1日発行)
       「鶴ヶ城」(歴史春秋社発行 昭和59年8月10日)
       現地説明板等

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