福山城(松前城)


所在地 松前町字松城地内

見学日 2010年5月16日

 松前藩は蝦夷地唯一の大名であった。松前藩の本拠地として福山館を築いたのは慶長の頃だと云われています。1807年に松前氏は3万石の加増とともに陸奥への転封を命じられますが、松前氏は蝦夷地への復帰運動をしてそれが認められます。この復帰の条件として外国勢力の侵略に耐え得る城を造ることでした。
そこで当代随一の軍学者の市川一学(高崎藩)に依頼して縄張りが行われました。その特徴は海防に主眼を置いたもので、海に向かって7門の砲台が設けられました。軍学による縄張りは複雑に屈曲した石垣と複雑な枡形を設けました。近代戦にも対応できるように考えられて築城されたのですが、中途半端な造りだったようです。
 戊辰戦争では、旧幕府軍(榎本軍)の土方歳三軍の攻撃を、搦め手から攻撃され1日で落城しています。海側の防備を厳重にしていたが、搦め手側(山側)の防備が軽視していたためのようです。

    搦手二の門で枡形虎口になっている。城門の形は高麗門です。この城の石垣はきれいに加工されている切り込みハギです。
    天守閣は明治以後も残っていて、国宝に指定されていました。しかい昭和24年火災で焼失しました。昭和36年にコンクリート造りで外観を復元しました。内部は松前町郷土資料館になっています。
    天守の手前は大手門でこの建物は当時のものです。他に当時のものとしては、本丸表御殿の玄関があります。この玄関は松城小学校の門として使用されてきましたが、現在は城の本丸に移築されています。
    左側が二の丸で、手前側に敵の動きを監視する二重太鼓櫓がありました。軍学により石垣が屈曲しています。長塀は復元されたものです。
    三の丸から一番上の搦手二の門を見たところ。三の丸の南と東側に7門の砲台が備えてありました。門の左側に屋根が見えるのは天守閣の屋根です。

参考 「日本の名城・古城もの知り辞典」(小和田哲男監修 主婦と生活社)
    「日本の城」(中井均著 山川出版)    現地説明板 

城の目次へ戻る 

トップへ戻る