川口楯


見学日 2000年11月25日 単独、ただし子供の頃は夏になるとこの辺りまでは泳ぎに来ていました。
所在地 山形県鮭川村川口


 東北には、「柵」や「楯」と呼ばれる城跡が多くあります。柵は奈良・平安時代、大和政権の東北の蝦夷に対する城柵として築かれました。そこがそのまま利用されて、戦国時代の城になったものもあるかも知れませんが、そこから城と同じような意味で「柵」が使用されたのだと思います。
また「楯」は、戦闘の際に身を守るものですので、「守る」という意と「館(たち)」から使用されたものかも知れませんが、アイヌ語の城を意味する「チャシ」から来ているという説もあります。
 川口楯は、鮭川の流れが突き当たる岸の上に立っています。室町時代から江戸時代始めまでの間、最上郡の南西部を領した清水氏の配下に属した矢口氏(清水氏で2番目の重臣)が楯主でした。なお清水氏は、2万7千石を領し、清水城(大蔵村大字清水)を本拠としていました。戦国時代後半には最上氏の重臣になっています。なお清水氏は、最上家の当主最上義光(もがみよしあき)が亡くなった後の最上家の内部対立により、1614年に清水城を攻撃され亡ぼされています。

 写真は川口の楯から鮭川を見たものです。直ぐ上の右側には、新庄市から流れてくる泉田川が合流しています。
ちょうど左側が、鮭川の流れの岸に立っていて、川を前にした岸(写真左側側面)は、急斜面です。鮭川が堀の役目の守りと同時に、河川交通の役割も果たしていたのかも知れません。
 道路側から見た川口の楯。反対側が鮭川に面しています。手前にはこの楯の説明板があります。山形県の最上郡では、この鮭川沿岸に「楯」の分布が最も多いそうで、その場所も2つの川の合流点に立地しているのが大多数と云われます。

 参考 現地説明板等
     「新庄市史 第一巻」(新庄市編纂・発行 平成元年10月31日)



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