山形城             


見学日 2000年11月24日外 2006年7月1日単独 
所在地 山形市霞城町

 山形を代表する最上氏の居城です。最上氏は、足利時代の初めに奥州探題として派遣された斯波氏から出ています。戦国時代は最上義光(よしあき)が、伊達氏からの干渉を防ぎつつ、近隣の豪族天童氏や白鳥氏等を謀略を用いて亡ぼし、その版図を順次拡大していきます。1590年の豊臣秀吉の小田原攻めでは、秀吉の元に赴き所領を安堵されています。
関ヶ原の役には東軍となりますが、、隣国会津上杉氏の攻撃を受け最上氏は山形近くまで攻められますが、西軍敗れるの報を聞いた上杉軍が退却していきます。関ヶ原の役の後には、57万石の大大名になります。しかしその22年後の1622年に跡目争いのお家騒動から改易となります。
高校卒業後、1年間山形市の経理学校へ通ったため、城跡には何度も行っています。しかし当時は、公園として認識していました。
 また、城内には明治時代に建てられた病院の済生館(国の重要文化財)が、山形市郷土館としてあります。
さらに城の二の丸東大手門近くには、最上義光歴史館があります。

 山形城は、本丸・二の丸・三の丸を有しする大変規模の大きい城でした。写真は、歌懸け稲荷神社境内に、現在も残る三の丸の土塁です。写真で見るとおり、土塁はなかなかの高さがあります。
 1991年に木造により再現された、二の丸東大手門。枡形虎口になっています。
丁度、二の丸の土塁や大手門の石垣のすぐ隣を、電車が走っています。二の丸の濠や土塁は、よく残っています。
 山形城二の丸の西門です。門のところは虎口になっていて、石垣で守りを固めています。しかし門以外のところは、土塁で出来ています。二の丸の土塁は折れがあり、門の前では横矢がかかるようになっています。
 2000年11月の本丸一文字門の復元工事。本丸は全て埋められて、公園になっていました。
関係者の話では、山形城は、長期間に渡って二の丸・本丸の復元工事を、行っていく計画だそうで楽しみです。
 2006年7月行った際の本丸一文字門です。現在も工事中で、その為立ち入り禁止になっていて中に入ることは出来ませんでした。ただし近くには、見学をするための見晴台のようなものが出来ています。

 参考 現地説明板等
     「日本の名城古城ものしり事典」(小和田哲男監修 主婦と生活社)



城の目次へ戻る