千葉城(亥鼻城)           


見学日 2002年5月他
所在地 千葉市中央区(JRの駅では千葉駅より本千葉駅−徒歩約10分−が近いです。)

 地元の城ですので何度も行きました。2002年の天守閣の修理で耐震構造になりましたが、模擬天守閣にある郷土博物館の展示物も新しくなりました。下総を代表する名門千葉氏の歴史について分かりやすく展示されていますので、是非一度寄ってみてください。
 最近は、土日祭日には千葉氏関係の展示室には、ボランティアガイドの方がいますので、説明を聞きながら展示物を見学すると良いと思います。
標高約20メートルほどの台地に建っている天守閣ですが、実際には千葉城には天守閣はありませんでした。戦国時代の本丸土塁や石碑などは、天守閣が建っている反対側の方にあります。千葉城の城域は天守台のあるところだけではなく千葉大の医学部辺りまでをも含む広いものです。医学部にある七天王塚は千葉氏信仰の北斗七星を表していると云いますが、城内の土塁跡とも考えられます。また、天守へ登る麓には「お茶の水」と呼ばれる井戸跡があり、千葉氏が源頼朝へ差し上げた水と云われています。
 千葉氏は源頼朝が石橋山の合戦に敗れて、房州へ逃れてきたときにいち早く源氏に味方することを表明しました。その功績により、源頼朝から厚い信頼を受け、全国のあちこちに所領を得、鎌倉方の有力御家人となります。その本拠の地がここの千葉城になります。
室町時代に入り関東一帯は、鎌倉公方と関東管領の争いに巻き込まれるようになります。千葉宗家も1455年、一族の馬加氏と重臣の原氏に攻め滅ばされ、千葉氏は馬加氏が引き継ぐことになります。
馬加氏は、1490年頃には本佐倉城へ本拠を移すことになります。
1516年には、小弓公方方の攻撃を受け落城したと云われます。

 千葉城の天守閣です。鎌倉時代の房総の大豪族千葉氏の、本城でした。鎌倉時代から戦国時代まで使用されていましたが、もちろん当時はこのような天守閣はありません。
 千葉城は亥鼻城の名称で、千葉氏の館もここにあったとされてきましたが、当時の館は平地に築かれるのが多いのと、発掘調査で千葉氏の館の存在を示すものが出てこないので、最近は疑問が持たれてきています。
 天守閣はコンクリート造りで、耐震構造です。地震の際には天守が少しずれるようになっていて、揺れを吸収します。
天守閣の形は、神奈川県の小田原城を模したとも言われています。
建物の中は歴史の展示室になっています。
 天守の近くには、戦国時代のものと思われる土塁などが一部残っています。場所はこの写真の手前左側です。
 写真は、千葉城の本丸の西北には神明神社があり、そこに建っている「猪ノ鼻城址」の碑です。ここには物見櫓があったといわれています。こちらは搦め手口になり、本丸下の都川に出ることが出るようになっていました。こちらの方向は、現在でもある程度の急斜面になっていますので、この城の立地が分かります。
 千葉城は、この亥鼻の台地だけでなく千葉寺から千葉大医学部までを含む広大な領域がありました。千葉宗家が滅んだ後は、馬加系の千葉氏は本佐倉に居城を移します。
発掘調査したところ、写真のような土塁が現れました。現在は埋め戻されています。
 写真は千葉大医学部にある七天王塚の一つです。現在の千葉大医学部の方が、この城の大手口でした。千葉大医学部の校内とそれに隣接する地域には、このような塚が七つあります。千葉氏の守護神の「牛頭天王」を祀っています。猪ノ鼻城の大手口に、千葉氏の崇敬する北斗七星の形に七つの塚を配置して、一族の繁栄を祈ったものだと云われています(他にも、千葉氏の兄弟の墓、平将門の武者の墓とも伝えがあります)。

参考書 現地説明板等
     「中世千葉の歴史と遺跡」(梁瀬裕一 講義資料)
     「房総の城郭」(千葉城郭研究会編 国書刊行会 平成14年8月10日) 



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