百首城(造海城・萩生城)       


見学日 2001年12月、 2006年12月23日友人と 2011年10月その他にもあり、今までに10回ほど行っています。
所在地 千葉県富津市竹岡

 城の歴史は分かっていないところもあるが、戦国時代に真里谷武田氏の城だったのを里見氏が攻め落とし、重臣の正木氏を配したと云われる。城のある富津市竹岡は、東京湾を挟んで神奈川県の三浦半島とすぐ近くに位置します。その為、里見氏の水軍の有力な根拠地となったようです。里見氏はこの内房の海城から三浦半島へ度々出撃し、海戦では北条海軍を圧迫していたようで、鎌倉の近くへも上陸していました。
しかし1581年ころには、里見氏と北条氏の戦いで、一時北条氏が支配するようになったようです。
 幕末には東京湾を守るための陣屋になり、砲台が築かれ、会津藩等が守備しています。麓近くには、砲台跡の土盛りがあります。現在の城跡にはこの幕末時に手入れしたところもあると思われます。特に海に面する低地が多いのではないかと思います。
 城を訪れるには、国道127号のトンネル前を左折して、灯籠坂の神社側(写真の左側)から入る道が良いと思います。
 多少道が狭く、また足場が悪いところもありますので、この城に行く際は複数人で行くことをお勧めします。また城の中心の本丸や二の丸は、整備されていませんので、冬に行っても藪に覆われています。

 百首城の全景。竹岡港は写真の手前にあるが、戦国時代の港は写真の山裾右奥にあり、この城が港を押さえていました。港の岩には、ピット(舟をつないだ穴の跡)が残っているそうです(残念ながら私は見落としました)。
 写真の手前および向こう側の麓の2カ所には、幕末の砲台跡の土盛りが残っています。この辺りの海は、東京湾の入口に当たり狭まっているところなので、江戸を守る為の砲台にはぴったりの立地です。
 随所にこのような低い石垣が見られます。写真では多少分かりにくいかも知れませんが、石垣は低く小さい石が多く、石も加工されていないようです。「戦国の城 上」 (西ヶ谷恭弘著 学研)では、百首城の目次には「戦国末期の築城術で石垣を随所に使用した」となっています。
 この山自体が岩山でもあります。後日、房総の城に詳しい人に聞いたところでは、里見氏の城にはこのような石積み(石垣とは言いませんでした)はよく見られるそうです。
 四の郭から本丸へ向かうところ。両サイドは岩で、ほぼ垂直に立っていますので、その迫力には圧倒されます。天然のものをある程度加工して空堀としたのもでしょうか?
本丸は木が生い茂り、形をつかむことは出来ませんでした。
 ここは割合じめじめしてぬかるんでいますので、歩いて行けない時も多くあります。
 井戸郭の北西にあった、水の手(水堀)でしょうか? かなり高いところに多量の水があり、ビックリしました。ここ数日間は、雨は降っていませんでした。

 この城の百首城の名前のいわれは、1497年にこの城を攻めた里見成義が籠城軍房総武田氏の求めに応じて百首の和歌を詠んで、武田氏側を驚かせ開城させたと云われることによります。
   城の南側で国道やJR内房線の北の位置にこのような岩を切った通路があります。 
この道を歩いて進むといくつかの削平地と石積みがあります。
しかしこの写真のように天然の岩を垂直に切ったところや石積みは、城郭遺構ではないようです。
 2011年の今回は、ここから灯籠坂の神社へ戻る時に道に迷ってしまいました。

 参考 「戦国の城 上」(西ヶ谷恭弘著 学習研究社 1991年8月1日発行) この本には百首城の当時の復元図が描かれています。



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