真里谷城


見学日 2000年5月4日 その他3回位行っています。
所在地 木更津市真里谷。最寄り駅は、木更津駅から久留里線で馬来田駅になりますが、そこから歩くにはかなり遠い場所にあります。

 真里谷城は房総武田氏の一族、真里谷武田氏の本城であり、武田信長が築いた山城です。武田信長は甲斐の守護武田信満の次子であるが、武田信満が上杉禅宗の乱で甲斐で敗死したため、武田信長は上洛して将軍足利義教に使えます。やがて関東に下向して、鎌倉公方足利成氏に使える。1456年の下総の市河合戦の際に、上総国へ打ち行り庁南・真里谷の地を確保します。そして親子でここを根拠に鎌倉公方方の勢力を集め、上総地方の上杉方を攻め勢力を拡大します。その後、嫡子信高とその子道信を長南城に置き、自分は嫡子信高の次子信興とともに真里谷城に居城して上総支配を進めます。その結果房総武田氏は1500年頃には、真里谷・長南城を中心として、養老川・小櫃川流域を押さえるほか上総国府のある市原や富津、大多喜・勝浦・天津など上総国の大部分を支配するようになります。
真里谷武田氏は信興の孫信保の時代には、千葉氏の重臣原氏と戦うようになり、坊主になり奥州各地を転々としていた宗済(古河公方足利政氏の次子)を上総へ招いたのも真里谷武田氏でした。この宗済が小弓公方になる足利義明です。当時真里谷武田氏は、下総生実の原氏と激しく戦っていました。
 その後房総武田氏は、真里谷武田氏と長南武田氏に分かれたり、跡目争いなどで勢力が衰え、安房里見氏に久留里城を奪われたり、正木氏等の侵攻を受けます
 現在真里谷城の一部は、青少年のキャンプ場となっています。
 

 U郭への登り口。登ると、上は削平されており、U郭の周りには土塁と思われるものが一部残っている。発掘調査によると、このU郭から柱跡など建物に関係する遺構が多く発見されているので、主郭と同程度以上の建物の存在が考えられているそうです。
 T郭である千畳敷に入るところの虎口。正面に土塁があり、内部を直接見られないようにしていると共に、侵入者を左右二手に分けて、攻撃出来るようになっています。ここの反対側にある土塁は主郭にある土塁としてはかなり高く5メートルを超え、大土塁と云われています。
T郭は千畳敷と呼ばれるほど平で広い郭で、本丸と考えられています。北西に位置するところに柱穴の存在が確認されています。
 W郭の直ぐ下にある井戸跡です。地元では「いっぱい水」と呼ばれ、どんな干ばつにもいつもいっぱいに水が貯まっているところから、名付けられたと云われます。
 X郭の削平地。この手前に、搦手道の表示があったので進むも、縄張り図にあった大堀切は見つけられませんでした。

参考 「戦国の城 上」 (西ヶ谷恭弘著 学研)
    「房総戦国土豪の終焉」(伊藤一男著 崙書房出版)
    「新編房総戦国史」(千野原靖方著 崙書房出版)
    「真里谷城跡」(1985木更津市 (財)君津郡市文化財センター)
    現地説明板等



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