大多喜城

見学日 2004年9月19日(日)その他 
場所  千葉県大多喜町大多喜

 大多喜城は真里谷武田氏が里見氏に備えて、1521年頃に築いたと云われます。しかし1544年頃里見氏の属将正木氏の攻撃で落城し、その後は正木氏が城主となった。正木氏時代に城は改修され、里見氏の東上総支配の重要な拠点となった。
天正18年の豊臣秀吉の小田原攻めで、里見氏は上総を没収された。徳川家が関東に入ってくると、大多喜城は徳川四天王の一人の本多忠勝が10万石で大多喜に入る。本多忠勝はこの城を近世城郭として大きく整備します。その堅固な守りと武器類の数の多さは、ロドリゴの「日本見聞録」のなかで、賞賛しています。本多忠勝という最も戦上手な武将を配置し、しかもその上何故にこのような厳重な守りであったのか?100年近くも安房の国を本拠として栄えた、戦国大名の里見氏に対する備えであったのです。
本多氏の後は、阿部、青山、稲垣氏と続き、1703年に松平氏入り明治維新まで続きました。

 写真の左側は、本丸に残る土塁跡です。里見氏時代の大多喜は小田喜と呼ばれていました。本多忠勝は、里見氏時代の城は現在の本丸の北西の台地にあったものを、現在の場所に移して近世城郭を築きました。
大多喜城は小高い丘陵にあり、夷隅川の流れを外掘りとしています。
 大多喜城の模擬天守閣で、現在は千葉県立総南博物館になっています。天守閣は1843年7月に火災により消滅しています。本多忠勝は、徳川家きっての猛将でその戦の巧さは、生涯57度の合戦に参加して傷一つ負わなかったと云われます。またその戦の巧さは、「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の兜に本多平八(通称)」や「東の本多平八、西の立花宗茂」等と云われ、絶賛されています。
 大多喜高校にある井戸です。現在の大多喜高校は、大多喜城の二の丸に当たります。大多喜城には20以上の井戸がありましたがその一つです。周囲約17メートル、深さ約20メートルあり、日本でも最も大きい井戸の一つです。水が枯れることなくわき出たことから、「底知らずの井戸」と呼ばれていたそうです。
現在でも、井戸には水があります。
 やはり大多喜高校にある、薬医門です。大多喜城の建造物としてはただ一つの遺構です。天保13年の火災以後に、二の丸御殿の門として造られたものです。いったん解体保存されたものを、昭和48年に復元したものです。
 大多喜町内には、旧屋敷などもいくつか残っています。

参考 「日本の名城・古城ものしり事典」(小和田哲男監修 主婦と生活社 2000年11月14日)
    「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会編 国書刊行会 平成14年8月10日)
    現地説明板等 
  

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