北生実城

見学日 2004年1月15日 文化放送歴史探偵クラブ(講師は外川淳氏)その他にも2度行きました。
所在地 千葉市中央区生実町

 生実と書いて「おゆみ」と読みます。生実城は、千葉市中央区のほぼ同じ場所に2つあります。区別するためでしょうか、北に位置する方を北生実城とし、南側に位置する方を小弓城や南生実城としたりしています。
通説では、南にあった小弓城に千葉氏の重臣原氏が本拠を構えていましたが、上総武田氏と小弓公方に攻撃され落城します。その小弓城へは小弓公方の足利義明が入り、房州一帯に勢力を広げます。しかし第1回目の国府台合戦で小田原北条氏に敗れ、小弓公方足利義明は戦死します。そこへ原氏が再び入り、今度は小弓城の北に新たに生実城を築き、再びそこを本拠としたと云われていました。
しかしながら最近の発掘調査などでは、それを裏付ける出土品は殆ど無く、むしろ原氏の本拠は、当初から北生実にあったと考えられるようです。原氏を追った小弓公方足利義明も、北生実のこの城に入ったようです。
原氏は小田原北条氏の支配下に入りますが、北生実城は上総と下総の境目に当たるため激しい戦乱の舞台となります。安定した城地の確保が難しいため、16世紀中頃に、原氏は本拠を臼井城に移します。
1627年には、森川重俊が生実藩1万石と入り、明治まで続きます。


 北生実城の本郭や主要な曲輪は、昭和44・45年の宅地造成などにより住宅地になっており、遺構などはほとんど残っていません。
 写真は重俊院にある森川家累代の墓の入口です(北生実城跡にあります)。写真でも分かるように少し高い位置に墓が並んでいますが、城の土塁などを利用したようです。
森川重俊は、徳川秀忠の小姓として使え、後に徳川秀忠の死に際して、殉死します。
 写真は、重俊院の山門です。かなり痛んでおり、門の2階部分を支えている横の木の中央が弛んでいます。
Y郭は森川藩の陣屋跡になっています。
 遺構は残っていないのですが、発掘調査などで、大手口の入口は丸馬出があり、その近くの[郭の堀は畝堀だったそうです。
 当日は雨のため写真では、ちょっと分かりにくいのですが生実神社西側とY郭の間に残る堀です。はっきりとした遺構として分かるのは、この堀が一番です。

参考 現地説明板等
    文化放送歴史探偵クラブの当日の資料および講師の説明
    「図説 房総の城郭」(千葉城郭研究会編 国書刊行会)
    「千葉城郭研究 第6号 梁瀬裕一氏の論文」 


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