土気城            

見学日 2001年2月25日 「千葉市の遺跡を歩く会」に初参加して見学しました。参加者が100名近くいてその多さにびっくりしました。
     その他にも8回くらい行きました。
所在地 千葉市緑区土気町(電車ではJR外房線土気駅です)

 土気酒井氏の初代の酒井定隆は、静岡県の出であり、京都で足利家に使えていたが、今のままでは出世のチャンスが無いというので家来三人と関東へ来ます。この辺りは小田原の北条早雲と似ていますね。(^-^) 関東では最初、関東公方の足利家に使えますがそこも見切りをつけ、安房の里見家に使えます。里見氏に使えて活躍して、やがて1487年に土気城主になります。
 酒井定隆は1472年のある日、品川から浜野(千葉市)へ渡るために舟に乗ります。ところが東京湾の中程で天候が暴風雨になってしまいます。すると一人のお坊さん(日泰上人)が船首でお題目をとなえたところ、暴風雨は収まりました。これに感謝した酒井定隆は、もし自分が一国一城の主になれば、自分の領内はすべて日泰上人の宗派にすると約束します。土気城主となった酒井定隆は、この約束通りに領内を妙満寺派法華宗にします。酒井定隆の領内は七里四方であったことから、これを「七里法華」と云います。
 土気酒井氏は酒井定隆の孫の時代には下総へ進出してきた北条氏へ属します。しかし1564年2月の第2次国府台合戦の際には、土気酒井胤治・康治親子は、北条氏から「不忠之仁」とされたことから、安房里見方に味方します。里見氏方が第2次国府台合戦に敗れた際には、里見義弘や太田資正などの退却を助け、稲毛で北条軍と戦いました。このため翌年の1565年2月、北条氏政は下総の臼井衆や東金酒井氏(酒井定隆から出ている同族です)を率いて土気城を攻撃します。この攻撃に対して、土気酒井氏は土気城を良く守り、城下の戦いで度々勝利を得たと云われます。この危機に際し酒井氏は、越後の上杉謙信に救援を頼みます。上杉謙信はこの要請を受け出馬することとし、関東の小山氏などにその旨を連絡をします。この情報をつかんだ北条氏は囲みを解いて退却します。
しかしその後1575年8月に再び北条氏政の攻撃を受け、土気周辺は大きな打撃を受けます。これにより土気酒井氏も、ついに北条氏に屈服することになります。

 土気は酒井氏の本拠の城です。
また城の周辺には宿と呼ばれる城下町があり、その姿は現在の土気の町並みに相当します。大手道などは当時と変わりないと云われます。
堀や曲輪の規模が大きく、かなり多数の兵でなければ守りきれないような規模です。
写真は向こう側の馬出方向から、三の丸に入ってくるところの土塁です。
 本丸ですが、日本航空研修センター(現在は閉まっています)の敷地になっていて入ることは出来ません。
同センターは本丸の他にも二之丸をも敷地にしています。
二之丸前にある堀は、幅や深さも大変大きいが、残念ながら整備されていないため、雑草等で良く見えません。
 井戸沢曲輪の土塁です。この曲輪もかなり規模の大きなものです。又この曲輪前にある空堀も深く大きなものです。
 善勝寺から土気城の馬出三の丸方向を見る。善勝寺にも土塁などが見られるので、土気城の出城のようなものであったかも知れません。
 

参考 当日配布の説明資料・講師の説明など
    日本城郭大系6(新人物往来社)
    「日本の名城・古城ものしり事典」(小和田哲男監修 主婦と生活社)
    「新編房総戦国史」(千野原靖方著 崙書房出版)
    「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会編 国書刊行会)



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