郡上八幡城     

見学日  2003年7月12日 近畿日本ツーリスト歴史倶楽部のツアー参加
所在地 岐阜県郡上八幡町

 房総千葉氏と関係がある遠藤盛数が八幡山に城を築いたのが始まりで、その後稲葉貞通が城主となり、1588年城を大きく改修する。関ヶ原の戦いでは、岐阜城主の織田秀信が西軍についたため稲葉氏も西軍に味方する。西軍敗戦のため、稲葉氏の後には稲葉氏に追われた遠藤氏が再び入城して、郡上藩の始まりとなる。
 その後1758年青山氏が入り、幕末まで続く。この時に山頂にあった本丸は、麓の二の丸に移されている。

 八幡山麓にある山内一豊の妻の像。ここにある案内板には、賢夫人で名高い山内一豊の妻、見性院は、八幡城主の遠藤氏の一族で郡上八幡出身であることが判明したそうです。この像は、山内一豊に自分が持ってきた持参金をそっくり使い名馬を買い与えた、有名な話を現しています。 また、彼女は関ヶ原の戦いの際には、大坂方の情報を詳しくコヨリに書いて夫の山内一豊に送り、このコヨリごと家康に見せるようにするなど活躍します。そのためもあって、山内家は関ヶ原後は土佐一国の領主になります。
 郡上八幡の天守閣です。昭和8年に再建されましたが、当時は原図もなく資料も乏しいため近辺の城を訪ね歩いたようです。その結果、当時国宝に指定されていた大垣城をモデルにしました。大垣城は戦災で消失しましたが、昭和34年に再建された大垣城は、逆に八幡城をも参考にしたそうです。そうして、模擬天守としては大阪城に継いで全国で2番目の天守閣です。
 郡上八幡城はその後昭和63年に大改修を行いました。その後平成に入ってもこの正門や遊歩道が整備され現在に至っています。
 写真は本丸にある凌霜隊の記念碑です。郡上八幡城で忘れてはならないのが、幕末維新期の凌霜隊です。江戸家老の息子で、当時まだ17才の朝比奈茂吉を隊長とする江戸在府の若者43名が脱藩して、東軍に参加します。彼等は関東で戦い、さらには会津まで行き、会津の降伏まで戦うことになります。会津で降伏した凌霜隊員は31名、彼等は国元へ帰りますが、過酷な賊軍としての運命が待っていました。最初の半年ほどは牢屋へ入れられ、明治3年2月までは謹慎生活を送ります。

 参考「定本日本城郭事典」西ヶ谷恭弘編 秋田書店 平成12年9月25日
    「八幡城ものがたり」八幡城ものがたり編集委員会編 八幡町発行 平成3年3月25日
    現地説明板等


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