高天神城

見学日 2006年3月24日 クラブツーリズムに参加
所在地 静岡県掛川市下土方

 戦国時代は、武田と徳川との激しい争いがあった高天神城です。今川氏時代に高天神城は、造られたものと思われます。この城は、東と西側の二つの峰にそれぞれ独立した城があります。東峰のほうは、本城と呼ばれ、徳川氏が造ったもので、西峰の方は、武田氏の築城と説明しているものもあります。
 今川氏を滅ぼした、武田氏と徳川氏は駿河を武田氏が、遠江を徳川氏が領有することを決め、大井川を両者の境とします。しかし武田氏は間もなく駿河に侵攻してきます。武田信玄も高天神城を攻撃していますが、守りが堅いと見て兵を引きます。信玄亡き後の1574年、武田勝頼が高天神城を攻撃します。徳川家康は救援することが出来ずに、高天神城は開城します。父の武田信玄が落とすことが出来なかったこの城を落としたことで武田勝頼は自信を持ったといわれます。やがて、長篠の戦いで武田軍は、織田・徳川軍に大敗します。
 この後に徳川家康は、高天神城に付城を築き包囲を始めます。その後には、城の回りに掘りや柵をめぐらし、外部からの連絡を絶ちます。武田勝頼に城の救援の力はなく、1581年3月徳川軍は総攻撃を加え、高天神城は落城します。

 写真は東峰の南側から上る追手道です。
 追手道はごらんの通り狭い道で、曲がりくねっていて攻撃を防いでいました。写真上の白い案内板のところに追手門がありました。
 写真は東峰にある本丸です。
本丸の北側と西側の一部には土塁が残っていました。
 写真は、本丸の東側の下にある大河内幽門の石窟です。
天正2年6月武田勝頼が高天神城を攻撃包囲します。城主小笠原長忠は徳川軍の援軍もないため、開城します。この際軍監の大河内源三郎政局は武田勝頼の命に服さないため、ここに幽門されました。
 天正9年3月、徳川家康によって高天神城が奪還されると、救出されます。しかし歩行困難でした。家康は恩賞を与え、労をねぎらい温泉にて療養させました。大河内氏は剃髪して皆空と称しますが、後年家康に召され長久手で戦いますがそこで戦死します。(現地案内板より)
  西の峰にある、西ノ丸の本丸へ上る階段です。高天神社があります。この階段の手前には、井戸跡がありますので、この高さにも係わらずに水は確保されています。
  西ノ丸の二の丸(写真右側)とその先にある郭(写真左側)の間にある空堀です。西ノ丸から北側に向かって伸びています。
 馬場平です。西ノ丸の西側に細長く延びている郭です。城の郭で、平坦で長いところは、馬を走らせることが出来るので、「馬場」という名称を使うことがあります。馬を走らせ訓練をしたところとは限らないと思います。

参考 「戦国の城 下」(西ケ谷恭弘著 学習研究社)
    当日配布の資料と説明
    現地説明板等

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