山中城

所在地  三島市山中新田  三島駅からバスが出ています。
見学日  2008年5月18日他  史跡公園として整備されています

 山中城は戦国時代末期の永禄年間に北条氏によって築かれました。その後、天正17年に豊臣秀吉との関係が緊張してくると、この城の拡張拡張をします。山中城は東海道(箱根街道)の入口に当たるために、初戦で激しい攻撃を受けると思われました。翌天正18年(1590)豊臣氏との開戦となり、3月29日増築が未完成のまま豊臣軍4万(7万ともいう)から総攻撃を受けます。この城を守る北条氏は約4千人でした。激しい攻防戦が繰り広げられましたが、城はその日のうちに落城します。城将松田康長始め約千名が戦死したと云われます。また攻め手の武将でも一柳直末が戦死しています。
北条流の最新の築城技術で造った戦いのための城が山中城で、遺構が良く残りまた当時のままに復元されたところも多く、戦国時代のお城を知るためには大変良いお城です。

    岱崎出丸の最先端に位置するすりばち曲輪です。中心部がへこんでいて、上から見るとすり鉢に似ているのでこの名になりました。岱崎出丸は旧箱根街道に沿うように造られていて、街道を通る敵を攻撃できるようになっています。
豊臣秀次を大将とする豊臣軍と激しい戦いがあった場所もこの曲輪でした。
    すりばち曲輪の入口から岱崎曲輪を見たところです。写真の左側が街道に面している土塁です。
    岱崎曲輪の街道側の土塁と空堀です。この土塁は高さもかなりあります。また空堀は写真で分かるように畝堀となっています。
     西櫓と西の丸の間の障子堀です。畝の高さは堀底から約2メートルあります。写真のように現在は植栽されて畝を保護していますが、当時は関東ローム層の土だったので、滑りやすくなっていました。畝に落ちれば移動が制限され、弓や鉄砲等で狙うことが容易になったものと思われます。
    二の丸虎口と架橋です。元西櫓と二の丸の間にある架橋ですが、発掘調査により柱穴が見つかったことにより復元していますが、遺構を守るため本来の橋の位置より少し高い所に復元されました。
    架橋渡り、登って二の丸に入る入り口です。正面の空堀と土塁は二の丸の西から南方向を守っています。
    本丸の北側にある北の丸の内部です。土塁で囲まれています。
    本丸の南側にある兵糧庫(?)のあったところです。発掘調査から約20個の柱穴が南北に確認され建物の柱穴と考えられるそうです。

参考  現地説明板等 

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