吉田城            


見学日 2000年8月7日 単独 2005年6月5日 歴史探偵クラブ
所在地 愛知県豊橋市

 パソコン通信のニフティ城郭フォーラムの東海・城オフの日(2000年8月6日)は、皆さんと別れて豊橋のホテルへ泊まり、翌日の早朝(朝食の前に)吉田城を見学しました。
 吉田城は1505年三河の牧野氏が築きました(当時は今橋城と言われていました)。牧野氏は松平(徳川)氏などと争っていたが、その後今川義元が城代を置く。今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後の1565年には、徳川家康が吉田城を攻略し酒井忠次を配します。小田原攻めの後、松平氏(徳川)が関東へ移封になると、池田輝政が15万石で入城し、城も15万石にふさわしい規模のものに大きく改修されました。しかし完成前に池田輝政は姫路に転封になります。
江戸時代には大河内松平氏などの譜代大名が城主となりましたが、その石高は3〜8万石ほどで、池田輝政によって拡張されたこの城も財政状況から整備も進まず、天守閣も建てられないままに明治に至ります。

 吉田城の隅櫓(すみやぐら)です。この櫓は、故・城戸久氏(名古屋工業大学工学博士)の設計により、本丸鉄櫓(くろがねやぐら)跡に昭和29年に再建されたものです。右の写真は豊川の方から写しました。

 本丸への入口となる石垣で造られた虎口。城跡は現在豊橋公園となっており、市役所やスポーツ設備などがあり市民に親しまれています。

 本丸にある隅櫓(三重)です。本丸は石垣て囲まれていますが、石垣の積み方は、割合古そうです。なかでも、この隅櫓下の石垣(写真のちょうど反対側の堀の下から見たところは)は、古い積み方をしています。
本丸には本丸御殿がありましたが、1707年の地震により壊れました。
 この石垣の階段はかなりの急勾配で、大変歩きにくくなっています。この石垣の手前側は、豊川が流れていて、自然の堀になっています。豊川が本丸の背後を守っていますが、直接背後(本丸)を攻撃されないように、豊川に面する石垣は他の方向と比べると高く、堅固な守りになっています。
 空堀跡と思われる遺構。左側は土塁が続いている。

参考 現地説明板等
    豊橋市美術博物館のパンフレットなど
    「城郭と城下町3 東海」小学館



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