赤穂城

見学日 2003年9月14日 歴史にふれる会参加
所在地 兵庫県赤穂市

 赤穂城は、1645年に茨城県笠間から53千石で移封した浅野長直が、1648年から13年の年月をかけて築いた城です。城は千種川が造った三角州の先端にありましたので、当時は二の丸は海に面しており、そこには潮見櫓や船着き場もありました。この城を築城した浅野家は、その後浅野長矩の時の1741年、江戸城で有名な刃傷事件を起し改易となります。浅野氏の後には永井氏が入り、その後は森氏が入り幕末まで続きます。
 偶然ですが、1645年に浅野家が赤穂へ移封されたのは、前藩主池田輝興が発狂したためで、その際にそれまでの赤穂城は備中松山城主水谷勝隆が預かっていました。浅野匠守長矩の時代に、今度は水谷家が跡継ぎがないため改易になり、備中松山城の預かりを赤穂藩が行うことになりました。
 赤穂城は1971年の国史跡指定後は、赤穂市によって発掘調査と整備事業が奨められています。


 赤穂駅前に立つ大石内蔵助の像。
 元禄15年12月15日、吉良邸へ討ち入りをした時の出で立ちです。頭には兜頭巾(火事の時に馬上の武士が被ったもの)、着物の下には鎖帷子をまとい、足下にはすね当てを付けています。右手に持って高くかざしているのは、山鹿流の朱柄の采配です。

大石内蔵助の出で立ちについては、「大石内蔵助の生涯 (財)中央義士会編」(中島康夫著 三五館発行)により書きました。
 手前にあるのは大手隅櫓で、その左側の門が大手門で三の丸にあります。大手隅櫓は鉄筋で復元されたものです。元禄の頃の橋を模して造った大手門橋を通って大手門を入ると、内枡形になっています。
 三の丸にある大石邸の長屋門です。赤穂藩の筆頭家老を勤めた大石家三代が、57年間住んでいた屋敷の正面にあったものです。かつては大石内蔵助と主税父子が、出入りした門です。1856年に大修理が行われましたが、その後昭和52年に全面解体修理を行っています。長屋門には、6帖から8帖の部屋が5つあります。
 1996年に復元整備した本丸門です。本丸の北側にある表玄関となる門です。石垣枡形の入口に高麗門と奥には櫓門の2重の門で守る、厳重な虎口を成しています。
 赤穂城の本丸の西側にある天守台です。天守台は高さが約9メートルありますが、天守閣は築かれませんでした。本丸の中には御殿がありましたが、発掘調査により判明した御殿の建物の間取りは、当時の同じ場所に何の建物があったのかが分かるように、表面展示されています。
赤穂城は、元和の一国一城令後に新造された城郭として、また近世軍学の成果を取り入れた縄張りを持つ城として貴重な存在です。
 天守台から見た本丸厩口門。本丸の形は、死角を無くして何処からの敵をも攻撃出来るような甲州流軍学の縄張りのためか、かなり複雑な形をしています。本丸の外側は石垣になっていて、水堀に囲まれていますが、その内側はご覧のように土塁になっています。


参考 「赤穂城跡二の丸庭園錦帯池発掘調査概要」(2002年3月 赤穂市教育委員会)
    「よみがえる大名庭園 赤穂城跡二の丸庭園錦帯池」(2002年1月 赤穂市教育委員会)
    「城郭と城下町7」(小学館 昭和62年8月1日発行)
    現地説明板等

 


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