大和郡山城

見学日 2004年4月29日 単独
所在地 奈良県大和郡山市城内町 

 近鉄線の電車の窓から、大和郡山城の立派な石垣が見えます。大和郡山城は、松永久秀と戦った筒井順慶の城でした。しかし筒井順慶は36才という若さで亡くなると、豊臣秀吉は、1585年に自分の弟の羽柴秀長を大和に配します。秀長は100万石を領する大大名でしたので、それにふさわしい大きな規模の城にするため、大和郡山城の大改修を行います。秀長は豊臣家の武将たちの間に立って、兄秀吉を良く補佐し、多くの武将から信頼を得ていました。しかし1591年、病気のために多くに人に惜しまれて亡くなります。
江戸時代の1724年柳澤吉里が15万石で甲府から入城し、以後柳沢家が幕末まで続きます。 

 大和郡山城の本丸を囲む壮大な石垣と堀です。写真左側が本丸の高い石垣で、深い堀がぐるりと取り囲んでいます。大変規模の大きな城であることが分かります。
本丸には柳澤神社があり、二の丸には歴代藩主の文化遺産を収蔵する柳澤文庫があります。
 追手門の隣に立つ追手向櫓(復元)です。お城は市民に親しまれており、桜の咲く春にはお城祭りが行われます。
また、大和郡山市は金魚の養殖でも有名なところです。
 昭和58年に、木造で復元された追手門(梅林門)を内側から見たところです。枡形になっています。
 写真は天守台です。この天守台や付近の石垣には、平城京羅城門の礎石や石地蔵・五輪の塔等が数多く使われています。天守台には「さかさ地蔵」と云われる石造菩薩立像があり、逆さに積み込まれています。
築城のために、奈良中に裏込め石の採取を命じたり、お寺や神社の庭石・礎石・地蔵などを接収しました。
 追手門東隅櫓(復元)を、電車の線路側から見たものです。この櫓は以前は、法印斜曲輪巽角櫓と云われていました。秀長時代は、筆頭家老の桑山一庵法印良慶の屋敷がこの曲輪にあったためです。

参考「城郭と城下町5近畿」(相賀徹夫編集出版 小学館 昭和62年10月10日)
   「やまとこおりやま」(大和郡山市)
   現地説明板等

城の目次へ戻る