安土城

見学日 2004年5月16日 文化放送歴史探偵クラブのツアー、その他1999年にも。
所在地 滋賀県安土町豊浦

 織田信長の画期的な城郭として有名な安土城です。京都と岐阜の連絡も良く北国を押される要衝の地、安土を城地としました。
1576年正月、丹羽長秀を総奉行として築城を始める。京都奈良堺から職人が集められ、各領国からは労働者が動員された大工事であり、翌年にはある程度完成し、信長は早速居城を岐阜から安土へ移します。工事はその後も続けられ、1580年には完成します。
1582年正月、信長は諸大名の家臣にまで城内を開放し、一人百文の見学料を取ったと言われます。
1582年6月本能寺の変で、信長が明智光秀に討たれ、やがて明智光秀も秀吉に討たれるとその混乱の中、安土城は炎上します。火を付けたのは明智秀満とも織田信雄とも云われます。
 安土城は、長期的計画に基づいて発掘調査が続けられています。その結果、多くのことが分かってきています。

 安土城の大手口です。

 城の主郭へ続いている道は、多くはその防御のために、なるべく長い道を造ります。その為、複雑に曲がっていて、自分がどの位置にいるのかを、不確かにさせます。しかし安土城の大手口の主郭へ続く道は、この写真のようにほぼ一直線になっています。これは大変珍しいことです。
 当時の安土城は、現在と違って三方向を琵琶湖に囲まれていました。信長は、琵琶湖の水運も考え、高速船を使用したと云われます。
大手道を上から見たものです。

 この大手道は、普段は使用されていませんでした。信長は天皇を安土城に迎える意思があり、その際にこの石段を使用しするつもりだったと思われます。石段の中には、石仏が使われているところもあります。直線の大手道を登る際には、壮大な安土城の天守閣が見えていたことでしょう。
天守台での礎石です。
 中心に本来あるべき礎石が1個ないことから、中空の吹き抜けの造りだったと云われています。そこには、宝塔があったとされています。この天守台の下の本丸には、本丸御殿がありますが、その形は豊臣時代の京都御所の形と同じようになっています。このことから、信長は天守閣の下に御幸御所を作ることにより、自分の権威が天皇よりも上であることを示そうとしたものであるとも言われます。
総見寺の三重の塔です。写真の手前側が本堂などがあったところです。

 総見寺は信長によって築かれた本格的なお寺です。天守と城下町を結ぶ百々橋口道の途中にあります。現在の総見寺は、大手道の伝徳川家康屋敷跡の方へ移っていますが、当時はこちらにありました。発掘調査の結果多くの建物跡が発見されました。 
 信長の館にある復元された天守閣(5・6階部分)です。この天守閣は、1992年の「スペイン・セビリア万国博覧会」の日本化のメイン展示物として原寸大に忠実に復元されたものです。天主5階部分は、八角形で朱塗りの柱を、天主6階部分は、金箔の外壁となっています。

 直天主閣の形は、「天守指図」を元にした内藤昌氏説と宮上茂隆氏の説があり、天守1階の平面図が大きく異なっています。

 参考 文化放送歴史探偵クラブの資料
     「日本の名城古城もの知り事典」(小和田哲男監修 主婦と生活社)
     現地説明板等

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