近江八幡城

見学日 2004年5月16日 文化放送歴史探偵クラブ
所在地 滋賀県近江八幡市八幡山

 近江八幡城は、1585年豊臣秀次(秀吉の甥)が所領43万石で封じられ、八幡山に築城したものである。この時に秀次はわずか18才であった。旧安土城の城郭材料や石材の一部を運び、山上にあった八幡社を取り壊して工事は進められた。多くの城下町が、町や城郭の防備のために行き止まりやクランク状の曲がり道を伴っているのに対して、近江八幡の町は南北と東西に碁盤の目状に町を造った。安土城下などの商人を集団移転させたり、城下町と琵琶湖の水運をつなぐために運河を掘ったりして、商工業の発展を重視した都市計画を造った。長さ六キロに及ぶ八幡堀は明治・大正の頃まで水運としての機能を果たしていた。殺生関白と云われる豊臣秀次であるが、この町造りを見ると相当な善政をしたと思われる。
 豊臣秀次は謀反の罪を着せられ、1595年高野山で命を断った。享年27才であった。 

 八幡山の南の麓にある居館跡の一段目の石垣。写真で分かるように、この石垣はかなり立派です。四名の家老の補佐を受けながら、青年武将秀次は積極的に町造りや城造りを行ったようです。1591年秀次は100万石を与えられ清洲城主となります。
 石垣は三段になっていて、写真は三段目の石垣で高さも約10メートル位あります。
 三段目の石垣の上の平坦地で、広さはかなり広くなっている。
金箔瓦などが出土しており、ここに壮大な安土桃山時代の建築物や庭園があった。現在発掘調査中です。
 ロープウエーで登った先の、本丸虎口です。瑞雲院の入口にもなっています。
瑞雲院は豊臣秀次の母とも(豊臣秀吉の姉)が、亡くなったわが子を弔うため京都に建てたものですが、昭和37年に秀次ゆかりのこの地に移されたものです。
 八幡堀です。明治・大正まで使用されたこの堀も、戦後は交通手段の変化により荒れたままになっていました。昭和46年八幡堀浄化のための住民運動が起こり、保存することになりました。以後、滋賀県の浚渫工事や住民の奉仕活動によって八幡堀はよみがえりました。
今では、近江八幡市は往事の面影を残す町並みもあり、時代劇の撮影にも利用されています。

参考「近江戦国の道」(淡海文化を育てる会編 サンライズ出版 1998年9月30日)
   「城郭と城下町5 近畿」(相賀徹夫編集出版 小学館 昭和62年10月10日)
   文化放送歴史探偵クラブの資料
   現地説明板等 

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