河後森(かごもり)城

所在地 愛媛県松野町大字松丸

見学日 2010年6月20日 

 河後森城が何時頃築かれたのかはよく分かりません。その位置は伊予と土佐の国境にありますので、16世紀の後半には土佐方勢力の一条氏や長宗我部氏との交戦が行われていたようです。その後天正期には長宗我部氏の侵攻が激しくなり、長宗我部氏は四国全土を併合する勢いになります。
天正13年(1585)には、豊臣秀吉の四国平定が行われます。この後はこの土地の城主は目まぐるしく変わります。
慶長19年(1614)には伊達秀宗が10万石で宇和島に入ります。この時には桑折氏が城代となりました。
城の廃城も良く分からないようですが、元和元年の一国一城令にて廃城されたと思われる。「別冊歴史読本 城を歩く」(新人物往来社 203年3月発行) 

 

    城の登り口は他にもあるようですが、城の北側に松丸中心図という案内板があり、その案内板の通り松野西小学校の近くから登ります。
登り道は写真のように整備されていました。
城はかなり広く大きい遺構が残っているので、一通り見るだけで約2時間架かりました。
    西第2曲輪と西第3曲輪(写真では右側)の間にある、岩盤を溝のように切り抜いた堀切です。写真のようにかなり急こう配です。
幅が1.3〜2.2メートル、深さが1.3〜1.8メートルあるそうですが、現在は堀切を保護して保存する為に埋め戻しているので、深さ幅とも大分小さくなっています。
    城の中心の本曲輪です。手前に入り口の虎口がありますが、2つの時期があり、新しいものは1600年ごろで、石垣を使用して造られています。
城主の住む主殿舎、料理をする台所、見張りなどをする番小屋があったようで、写真のように建物の大きさが分かるようになっています。
    本曲輪から東側にある古城へ向かいます。東曲輪から見た本曲輪です。
    写真は東第4曲輪と古城第2曲輪の間を守る堀切です。東側の堀切ではここが最大の大きさです。この2つの曲輪は橋で連絡されていた可能性があるそうです。
    古城です。発掘調査中のようでした。
    古城から本曲輪へ戻り、今度は西第10曲輪へ向かいましたが、その途中で見える西第10曲輪です。城の西の端にあり、写真で分かるように位置も低いところにあるため敵の侵入を受けやすいところにあるため、土塁や多聞櫓で守りを固めていました。
土塁の高さは約90センチです。
    西第10曲輪にある復元された建物です。建物は2つありましたが、復元したものは1つです。
柱は掘立て造りで、角柱です。壁は土壁が、屋根は「こけら」と呼ぶ薄い板を敷いていました。
2つあった部屋のうち1つは板敷の部屋で、もう一つは土間でした。

参考 現地説明板  「別冊歴史読本 城を歩く」(新人物往来社 203年3月発行)

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