福山城

所在地 広島県福山市丸の内1丁目 

見学日 2010年10月8日   レンタカー使用 

 広島の福嶋正則が改易処分となった後の備後の地に、幕府は譜代大名の水野勝成を封じて毛利氏をはじめとする西国の外様大名の抑えとした。
水野勝成は領地となる土地を歩き城地を探して、この地(常興寺山)に新たな城を築くことにした。元和6年(1620)に工事を開始して同8年に完成した。築城に当たっては、伏見城(家康の)や神辺城の櫓などの遺構が多く移築されたと伝わります。
水野氏は5代続きますが、5代目の勝岑(かつみね)が2歳で亡くなったため改易となり、その後は松平氏が山形より入封し、その後は下野宇都宮より阿部氏が入り幕末まで続きます。
阿部氏は老中を4人も出した名家ですが、特に7代阿部正弘は幕末のペリー来航時の筆頭老中として日米和親条約の締結を行ったことで有名です。 

 

    写真は伏見櫓です。昭和28年の解体修理の際に「松の丸東やぐら」の墨書きが発見されました。この「松の丸」とは伏見城の郭の一つで、この墨書きによって、伏見城遺構が福山城普請に際して利用されたことを証明しています。また同時に幕府が普請に際して後押しをしていたことが分かります。(「日本の名城・古城もの知り辞典」(小和田哲男監修 主婦と生活社)
城郭建築史上初期の様式を残しており、また確かな伏見城の遺構としても貴重である。
    写真は鐘櫓で、築城当時から城加藤に「時の鐘」をつげた遺構で、江戸期には鐘とともに緊急時の武士の召集のための太鼓も備えていました。
城地内に鐘櫓が所在するのは全国的に例がなく貴重な文化家財である。
    筋金御門です。伏見櫓と同じく伏見城から移築されたものです。
各柱の下部と扉にも筋金を打ちつけた堅固な造りにしています。

この筋金門と伏見櫓は現存で2つとも国の重要文化財になっています。
    写真ではちょっと分かりにくいかもしれませんが、右端に見えるのが駅の線路です。城の石垣と長塀が駅からすぐ近くの所にあるのが分かると思います。
    福山藩阿部家7代目の藩主の阿部正弘の像です。若干25歳で幕府の閣老となり、開明的政策を進めました。
福山藩主としても、人材の登用をすすめ、開明的な諸制度を実現しています。教育に力を注ぎ藩校誠之館を開講し西欧の学術をも取り入れ、ここで学んだ人々がその後の福山藩の推進力となった。
    福山城の天守閣です。鉄筋造りです。昭和20年の戦災で消失しますが、それまで現存していた天守閣は北側の壁は鉄板張りであったのが分かります。各階の逓減率が低くずんぐりとしていた姿になっています。
天守閣の他、湯殿、鏡櫓、月見櫓は外観復元しています。

参考 現地説明板 「よみがえる日本の城7」(滑w習研究社)                

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