三原城

所在地 広島県三原市館町
見学日 2010年10月8日

 三原城は毛利元就の3男の小早川隆景が、整備拡張した城です。毛利氏の両川と云われた小早川隆景は12歳の時に竹原小早川氏の養子になりました。やがて、本家筋の沼田小早川氏を圧倒して当主の妹と結婚して小早川氏を1つにまとめます。小早川氏は瀬戸内海に勢力をふるった海賊衆であった。
毛利元就が死去すると毛利家を継いだのはまだ幼い元就の孫の輝元でした。そこで小早川隆景は毛利本家のために色々活躍します。兄の吉川元春が主に山陰方面、小早川隆景は山陽方面で毛利家のために活動します。
やがて毛利家は織田信長と対決するようになると、三原城は毛利水軍の出動基地となり、本営にもなります。三原城の整備拡張はその後の信長亡き後も続けられます。小早川隆景は豊臣秀吉政権下でも重きをなし、筑前が与えられます。秀吉の甥の秀秋が養子に入ります。小早川隆景は小早川家を秀秋に譲り、文禄4年(1595)年に、自分は元の三原城へ戻り三原城の工事を進めました。しかし翌年に亡くなります。
城はその後、福島氏、広島浅野氏の支城となります。 

 

    「歴史群像シリーズ よみがえる日本の城7」(滑w習研究社)の三原城の復元イラストを見ると、実に複雑な形をした海城であることが分かります。
沼田川河口の大島と小島を石垣でつないで築いた城で、満潮時には城の姿が海に浮かぶように見えたことから「浮城」と呼ばれました。上に見えるのが、三原駅で山陽鉄道の開通により城郭はほとんど壊されました。
    写真は天守台です。日本一の規模を誇る天守台ですが、築城当時は天守閣を造る思想のない時代だと考えられるそうです。
上記の「三原城の復元イラスト」でも隅櫓と多聞櫓それに塀が石垣上に造られていました
    写真は、天守台を中から見たところです。
三原駅が本丸の御殿で城の中心部でした。
    写真は、城町1にある船入櫓跡です。船が出入りした所になります。

参考 現地説明板等 「日本の名城・古城もの知り辞典」(小和田哲男監修 主婦と生活社)
    「よみがえる日本の城7」(滑w習研究者 )  
        

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