吉田郡山城

所在地  安芸高田市吉田町郡山
見学日  2010年10月12日
  当日は駐車場へ続く道が工事中で学校の裏手の道を歩いて登りました。

 中国毛利氏の代々の本城です。吉田郡山城は15世紀中ごろまでには築かれたようです。有名な戦国武将の毛利元就が毛利家の幼少の当主が早世したため、毛利家を継いだのが大永3年(1523)です。元就が家督を相続した時には毛利氏は出雲の尼子氏に属していたが、その後山口の大内氏方に味方します。天文9年(1540)、尼子方は毛利氏の郡山城を3万の大軍で攻めよせます。この時郡山城には毛利軍3千が籠城し、あわせてその家族・領民8千人が籠城しました。郡山城もかなりの要害であったためか尼子軍の攻撃を跳ね返します。籠城3カ月後には大内氏の援軍陶隆房が、兵1万を率いて来ます。こうして翌年正月、毛利氏と大内軍は協力して尼子軍を追い払います。この戦いで毛利元就の武名は安芸に鳴り響き、後の毛利氏の飛躍の始まりになります。
毛利元就はその後毛利氏の発展とともに郡山城を整備拡張し、それは孫の輝元の時代にも引き継がれます。
毛利氏は天正19年本拠を広島に移しますが、郡山城はそのまま存続したし、廃城となったのは毛利氏が関ヶ原の戦いの後、防長2カ国に移封された1600年11月遺構のことである。  

 

    吉田郡山城の改築工事で、本丸石段の普請工事が難航したときに、人柱に代えて本丸裏手の「姫の丸」にこの句を彫り込んだ石を埋めたところ、不信は無事終えたと伝わる。言葉の意味は、皆で力を合わせれば何事も為し得るということです。(以上はウイキペディアより)。
写真は毛利元就墓所近くへある、復元された石碑。
郡山城は大変広大な城で、道を通って一通り見るだけでも2時間ほどかかりました。
    瀬溜の壇です。この曲輪は、本丸の南西方向に伸びる尾根を守るため御蔵屋敷を堀切で区切り、その下に10個の曲輪を造り守りを固めたものです。
    本丸すぐ南にある二の丸です。東西36メートル、南北20メートルの広さがあるが、石塁や石垣で27メートルと15メートルに企画されている。南側に三の丸があるが、そこには門があったと思われる。
   本丸です。広さは一辺が約35メートルの方形で、北側には一段高くなった櫓台があります。その高さは標高389.7メートルで、城の中では一番高いところです。
郡山城の曲輪は大小合わせて270段以上あります。
    釣井壇です。長さ75メートル、幅15メートルの長大な曲輪で、基部には石垣が見られます。ここには直径2.5メートルの石組の井戸があります。
    厩の壇です。本丸の南東方向にある長さ400メートルにも達する長大な尾根の基部にあります。尾根に沿って7段と北に分かれる4段の曲輪から成ります。

参考 現地説明板等 「広島城と毛利氏の居城」((財)広島市文化財団広島城)
    「日本の名城・古城もの知り事典(小和田哲男監修 主婦と生活社) 

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