中村城

所在地 四万十川市中村丸の内 

見学日 2010年6月19日 

 

 一条氏の居城、小京都と呼ばれますが、応仁の乱を避けて前の関白一条教房が土佐の幡多郡の中村の荘園に移住したのが応仁2年(1468)です。
教房の子房家は中村城を居城として整備するとともに城下を京都風に整備し、城の麓に設けられた一条氏の居館は中村御所と呼ばれ土佐の文化的な中心地となっていきます。
 土佐の岡豊城の長宗我部氏は一条氏と友好関係にありましたが、一条氏の5代目当主一条兼定の時に一条氏の内部にいざこざが絶えず、天正2年(1574)に、当主兼定は豊後の大友宗麟のもとへ追放されてしまいます。長宗我部氏はこの争いを利用して、兼定の後を継いだ内正を手なづけ一条氏の領土を奪ってしまいます。
関ヶ原の合戦の後に山内一豊が土佐に封されると、山内康豊が支藩中村山内家を開き中村城主となった。
元禄2年(1689)改易となり、本藩に併合された。
 

 

    写真中央下の雪面版によると、中村城は、西に四万十川、東に後川を自然の堀として中村平野を一望できる丘陵に築城された。
東城、為松城、中の森、御城、今城の5郡の城を統合したもので、当座に通じる陸路の要を押さえる地に立地している。
写真は城の入り口を登った大手の虎口(?)です。
    城跡は為松公園となっていますが、そこに立つ幡多郷土資料館です。
一条氏時代の山城の二の丸になります。
    本丸の土塁(あるいは石垣)だったと思います(記憶がはっきりしていません)。
    郷土資料館に展示してあった中村城の復元図です。中村城を構成する他の城の復元図も展示してありました。
また、一条兼定が中村城奪還を目指した四万十川合戦についての展示もありました。この戦では一条兼定は長宗我部軍に敗れます。

参考 現地説明板 「日本の名城・古城もの知り辞典」(小和田哲男監修 主婦と生活社) 

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