岡豊(おこう)城

所在地 南国市岡豊八幡  城跡は岡豊山歴史公園になっています。

見学日 2010年6月20

  長宗我部氏の代々の居城となっていた城で、天正16年(1588)に大高坂山城に移るまで中世の頃から21代にわたってこの城にいました。
永正6年(1509)に本山氏等の攻撃を受けて、城は落城しますが、この時に嫡子長宗我部国親は脱出し、中村の一条氏を頼ります。一条氏の庇護を受けて成長した国親は一条房家のあっ旋により永正15年岡豊城へ復帰することが出来ました。
長宗我部国親は、弘治2年(1556)までには、山田氏を倒し、香宗我部氏を屈服させるなど着々と勢力を拡大させます。そして宿敵本山氏打倒の兵を挙げます。
両軍は激しく戦いますが、永禄3年(1560)5月の長浜城(高知市)をめぐる戦いで長宗我部軍は勝利を収めると、以後は長宗我部軍が優位に立ちます。
長宗我部国親が亡くなると後をついた長宗我部元親も本山氏との戦いを続け永禄11年に本山氏は長宗我部元親に降伏します。
以後元親は、岡豊城を拠点に土佐統一を進め、天正2年(1574)には中村の一条氏勢力も駆逐し土佐を統一します。その後も勢力を拡大して天正13年頃までには、四国のほとんどを制圧します。(参考 「日本の名城・古城もの知り辞典」(小和田哲男監修 主婦と生活社)

 

     岡豊城のある公園には、高知県立歴史民俗資料館があり、長宗我部氏と岡豊城の展示物もあります。
 写真は、主郭の北東側にある二の段です。長さ約45メートル、最大幅20メートルの三角形をしています。
 南側には土塁の一部が残っていますが、発掘調査では高さ1メートル、幅3メートルの大きさだったことが確認されています。
    二ノ段のと詰めの下段との間には堀切があります。堀切の底は、石積みをしています。
また堀切の中央には井戸があります。井戸の底は岩盤になっていて、湧水ではなく雨水をためるようになっていたようです。
 写真は「詰の下段」です。「詰下段」は、二の段から「詰」来る敵を守るための曲輪で、礎石建物(二間×五間)がありました。
    写真は「詰」の曲輪です。普通でいうと本丸又は主郭ですので岡豊城の中心の曲輪です。標高97メートルの岡豊山の頂上部分にあります。広さは1辺40メートルの三角形をしています。
ここには、礎石建物が2棟(5間×4間と1間四方)あり、礎石建物は2階以上の建物で天守閣の前身と見ることが出来るそうです。
    写真は三の段です。写真のように土塁の内側には石垣が積まれています。また詰への登り口は岩盤を削った石段になっています。
三の段の西部の北半には面積125平方メートルの礎石建物が建っていました。
    写真は伝厩跡曲輪です。この曲輪は「詰」の西南にある出城で、長さ30メートル、幅17メートルで周囲は急な斜面に囲まれています。
北西方向には2重の堀切と南側斜面には縦堀により守りを固めています。

参考 現地説明板等(写真の説明は現地にある説明板からです。色々な説明板が要所要所にあります。  
   「日本の名城・古城もの知り辞典」(小和田哲男監修 主婦と生活社

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