備中松山城

見学日 2003年10月11日 「蒼龍窟が行く」HPのオフ会
所在地 岡山県高梁市

 現存12天守閣のある城の一つです。現存天守の有る城では唯一の山城で、現在備中松山城と云われるのは小松山山頂(標高約430メートル)を中心とした近世の城郭で、天守の現存する山城としては日本一の高さです。城は要衝の地にあるために、戦国時代にも争奪の場所となっています。1561年には、毛利氏の後ろ盾を受けた三村家親がこの城に入ります。しかし1566年、三村家親は備前の宇喜多直家によって暗殺されます。1571年に三村家親の子元親がこの城に再入城します。しかし三村元親は、毛利氏が敵の宇喜多氏と手を組んだことに腹を立て、織田信長と同盟を結び毛利氏・宇喜多氏と備中各地で戦います(備中兵乱)。しかし1575年ついに三村氏は滅びます。これ以後備中松山城は毛利氏が支配していたが、1600年の関ヶ原後は、徳川氏の備中代官として小堀遠州親子が入城して、城の改修をおこなった。
その後池田氏・水谷氏・安藤氏・石川氏・板倉氏と城主が変わりました。水谷氏の時に、お家断絶があり、城の受け取りに指名されたのは浅野匠頭でした。赤穂藩の家老の大石内蔵助が城の受け取り準備の為に先行して行きます。大石内蔵助は、城受け取り後も1年7ヶ月の間城番として備中松山にいました。
 板倉氏の時には、幕末に藩主板倉勝静の元で、山田方谷が藩政改革に活躍しました。
 

 写真左手が、大手門の場所になります。右側には、大きな自然石があります。石積みと、大きな自然石を巧みに利用しています。元々岩の多い山だったのでしょう。
 二の丸から見た、本丸にある五の平櫓(右側)と六の平櫓(左側)。いずれも復元です。二つの櫓の間には、本丸への正面玄関に当たる、本丸南御門(復元)があります。
 現存の二層二階の天守閣です。天守石垣の下には、やはり大きな岩があります。案内板の復古図によれば、左側手前に八の平櫓があり、天守へはそこから入るようです。写真の左側にある付け櫓風の入口は、昭和になって付け足されたものだそうです。
天守一階の内部には、石の囲炉裏がありますが、珍しいと思います。
 国指定重要文化財の二重櫓です。やはり大きな岩の上に石垣が組まれています。天守が二重であるためか、この櫓以外は一重の平櫓です。
 小松山と大松山の、境の狭くなっているとところにある堀切です。戦国時代の備中松山城は、この大松山まで城地としていました。両側が石垣で出来ているのも少ないと思われます。

参考 「日本の名城・古城ものしり事典」(小和田哲男監修 主婦と生活社)
    「城郭探検倶楽部」(中井均・加藤理文著 新人物往来社)
    現地案内板等

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