岡山城

見学日 2003年9月14日 歴史にふれる会で見学、その他にも2回見学
所在地 岡山市丸の内

 岡山城は宇喜多直家が1573年に、以前からあった城を壊して築いたものです。その後子供の宇喜多秀家が、1590年から大規模な改修工事を行いました。岡山城の天守閣は、織田信長の築いた安土城を擬して造られたものです。豊臣秀吉が播磨の姫路城に本拠を置き、織田信長の中国方面への司令官となっていました。時に備前を支配していた宇喜多直家は、最終的には織田方(秀吉軍)へ味方します。間もなく宇喜多直家は亡くなり、10歳の秀家が家を継ぎます。豊臣秀吉は、この秀家を大変可愛がりました。後に、前田利家から養子にもらった郷姫を秀家と夫婦にします。宇喜多秀家は、豊臣秀吉の天下の基で、順調に出世し、57万石の大大名になり、秀吉の晩年には5大老になります。
やがて、秀吉が亡くなってからの関ヶ原の戦いでは、秀家は28歳の若さでしたが、石田三成とともに西軍の中心となり、東軍と戦います。しかし戦いは、小早川軍の寝返りなどのために敗れます。宇喜多秀家はしばらくの間、薩摩の島津家で匿われていましたが、島津家が徳川家と和睦する際には、徳川家に引き渡され、久能山へ幽閉されます。その後八丈島へ流され84歳で亡くなるまでそこで暮らしました。
 岡山城には、宇喜多秀家の後は小早川秀秋が入り、その後は池田家が幕末まで続きます。


 城の直ぐ隣にある岡山後楽園です。岡山後楽園は、1687年に岡山藩主池田綱政が家臣の津田永忠に造らせたもので、1700年に完成しました。昭和27年に「特別名勝」に指定された、日本三名園の一つで、江戸時代を代表する大名庭園です。後楽園は、藩主の静養や来賓の接待用として使用されていましたが、日を定めて藩内の人にも鑑賞が許されていたそうです。
入り口から入ると、大変広い芝生が見えて、何となく西洋式の庭園を思わせます。庭園の中を、流れている小川の水も大変綺麗で、気持ちの良いものです。
 後楽園方向から来る時に、本丸の入口になる廊下門です。
表書院の通用門で、上が本段(天守があるところ)と中の段を結ぶ廊下となっているところから、廊下門と呼ばれていた。昭和41年に復元されたものです。
 本段にある、天守閣の礎石です。現在は本段の南東に並べられていますが、もちろん当時は天守閣のある位置にあり、大きな天守の柱などを支えていたものです。岡山城の石積みは、天守閣を中心に古い時代の野面積みと、月見櫓付近の打込萩という二つの石積みを見ることが出来ます。
岡山城の天守閣です。岡山城の天守は、外壁の下見板には黒漆が塗られていました。そのため太陽の日が当たると、カラスの濡れた羽の色に似ているため烏城(うじょう)とも呼ばれていました。天守閣は国宝とされ、昭和20年まで残っていましたが、同年の6月29日の岡山空襲で焼失しました。昭和41年に鉄筋コンクリートで、外観は当時のままに造られました。現在天守の中は、岡山の戦国・江戸時代の様々のものを展示しています。
 こ旭川に架かる月見橋から岡山城天守を見たところ。宇喜多秀家は旭川の川道を変えて、城の北側と東側に流して濠の役目をさせました。
かつての岡山城は、外濠が現在の町中の柳川筋や番長筋まである大きな城で、櫓が35棟、城門が21棟もある日本を代表する城でした。

参考 「岡山城」(加原耕作文 山陽新聞社発行)
    現地説明板等


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