備中高松城     

見学日 2003年9月15日 歴史にふれる会
所在地 岡山市高松


 豊臣秀吉の水攻めで名高い備中高松城です。この城の城主は三村氏の配下の石川氏だったが、当主養子が相継いで亡くなった混乱を機会に、1565年清水宗治が城主になり、毛利氏に属しました。豊臣秀吉が播磨の国を切り従え、備前の宇喜多氏を見方に付けいよいよ備中に進出してきたのは、1582年です。毛利氏も高松城は十分警戒をしており、十分に兵力を入れていました。秀吉は最初は力攻めをしますが、沼を守りにしているこの城はなかなか落ちません。そこで水攻めにすることにしました。
 水攻めの最中に信長の死を知った秀吉は、この城を講話で落とし急いで反転し、あの有名な中国大返しを行います。そして山崎で明智光秀と戦います。


 写真は「蛙が鼻築堤跡」で、豊臣秀吉方が造った今に残る水攻めの際の堤防跡です。堤は基底部が20〜24メートル、上幅は10〜12メートルで高さは7〜8メートルという大きさで、足守駅の下手まで築かれていました。長さは約2.6キロです。この堤は秀吉がお金をふんだんに使ったこともあり、わずか12日間で完成しました。
 現在は、高松城水攻め史跡公園となっています。公園には高松城高さ表示板があり、それによると、6メートルで本丸中段、7メートルで本丸最上段の高さになっています。当時は湿地帯で地面はもっと低かったようで堤防の最上段はその高さ表示板では7メートルをかなり超えています。
 清水宗治自刃の地の碑・墓です。清水宗治が自刃したのは小船の上ですので、ここも足守川を堰き止めた水で一杯だったことでしょう。清水宗治は、自分の自刃により城内にいる兵を助けることにしました。
 備中高松城の本丸です。城は沼地に築かれており、土の城で本丸は約50メートルの方形をしていました。秀吉は運も良かったのでしょうか、堤防を築いたあたりから梅雨の為もあり、雨が降り始めます。やがて本丸まで水に浸されたと云われます。兵は本丸の屋根に上がる等して水を避けます。清水宗治や他の城兵達もまさかこんな風な戦いをするなどとは思っていなかったでしょう。
 本丸にある清水宗治の首塚です。明治末年に移転改装されたそうです。

参考図書等 「日本の名城・古城ものしり事典」 小和田哲男監修 主婦と生活社
         現地の説明板等


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