岩国城

所在   山口県岩国市横山
見学日 2010年10月13日 

 岩国城は関ヶ原の合戦後に吉川広家が築いた城です。関ヶ原の戦いで毛利家は西軍の総大将となりましたが、関ヶ原の戦場では毛利軍は戦闘に参加しませんでした。これは吉川広家の働きによるものと云われています。しかし戦いの前の毛利家本家の存続の約束は、家康に反故にされます。吉川広家の必死の願いにより、大幅に厳封されてながらも存続は認められます。防長2国の毛利家の山陽道の入口にあたる岩国は、毛利家の領土を守る重要な位置になります。吉川広家はこの地に、当時としては珍しく横山山頂に城を築きます。守りを重視する実践的な城を考えた結果だと思います。また麓には土居と云った居館部分があります。
しかし城が完成して7年後に元和の一国一城令が出て廃城となり、山頂の建物群は取り壊されます。吉川広家はこの取り壊しには反対したと云われますが、結局は徳川家の意向を記にした毛利本家がそれを認めなかったようです。

 

    岩国城は急な山の上にあるため、ロープウエイがあり、それで登りました。ロープウエイの降り口から大手門前までは、岩国城の石垣を楽しみながら歩くことが出来ます。
写真正面は二の丸の石垣で、左側は二の丸大手門を守る出丸の石垣です。
    空堀で幅19.6メートル、深さ10メートルあり、鉄砲を意識した日本最大規模の箱堀構造の空堀だそうです。、
    本丸にある岩国城の天守台です。天守閣はここにあったのですが、麓からよく見える位置に、コンクリート造りの天守が建てられました。
石の積み方は、古式穴太積みと呼ばれる方法を基本として、戦国時代独自の石積みの技術が加わった形で造られたものです。
    天守閣は桃山風の南蛮造り(唐造り)と言われ四層五階の建物でした。南蛮造りとは最上階をその下の階より大きく造り屋根を省略したものです。
昭和37年に現在の位置に外観復元されました。
    写真は、大釣井と呼ばれる大井戸です。築城と同時に造られたもので、非常時の武器や弾薬の収納をはかるとともに、脱出口を備えた井戸でもあったと伝えられているそうです。
    旧藩時代には3階建ての南櫓があった場所ですが、明治18年居館跡が公園になった時にこの絵馬堂、錦雲閣が建設されました。
岩国城の外堀は岩国川で、そこにかかる大手橋は錦帯橋として有名です。

参考 現地説明板等  「日本の名城・古城もの知り事典」(小和田哲男監修 主婦と生活社) 

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