人吉城

訪問日 2005年8月19日 単独
所在地 熊本県人吉市麓町

 人吉城は鎌倉時代から相良氏の城です。室町時代の人吉城は東南の台地上にあり、空堀や堀切で守られていた山城でした。相良氏は戦国時代の一時期には、球磨郡、葦北、八代の三郡に支配する戦国大名になります。1587年の豊臣秀吉の九州征伐により球磨郡のみを支配することになります。やがて江戸時代には人吉藩2万2千石の藩となり、幕末まで続きます。相良氏は、鎌倉時代から数えるとなんと670年位もこの地方を続けて支配していたことになります。
 人吉城が近世の城として築かれるのは、1589年から1639年までの間で、本丸・二の丸・三の丸総曲輪を持つ規模の大きい平山城に生まれ変わりました。。北を流れる球磨川と、西を流れる胸川を外堀をしています。とても2万2千石の大名の城とは思えないほど大きな城です。
幕末の人吉藩では、旧守派と洋式派の争いがあり、上意討ちにより洋式派の14名が惨殺されるという流血の事件が起こります。また、西南戦争では田原坂で敗れた西郷軍が一時期人吉を本営としてここで1ヶ月の攻防が繰り広げられました。

 写真は球磨川と胸川(手前の川)の合流地点に建つ隅櫓(写真の左側)です。

 城の西の隅に建てられた櫓で、1862年の大火事の際にも焼けないで残りましたが、明治になって払い下げによりなくなりましたが、平成5年に復元されました。この写真では分かりにくいですが、形は長方形(22メートル7メートル)をしています。その右側に続いているのは、やはり復元された長塀です。
 写真の右側は大手門跡です。

 大手門は石垣の上に櫓を渡してその下に門を設けました。1644年から1648年に建てられましたが、1720年に造り替えられました。実際の大手門は写真よりももっと右側まで続いていました。枡形になっていて守りを固めていました。写真左側にあるのは、平成5年に復元された多聞櫓です。 
 写真は水の手門跡です。

 前に流れているのは球磨川です。この門は球磨川の水運のための門であったことから水の手門と名付けられました。球磨川に面するところには船着き場が設けられましたが、この水の手門の外にあった船着き場が最も大きいものでした。水の手門の周辺には、米倉などがあり物資の運搬に利用されていました。
 写真は御下門のあったところの石垣です。

 御下門は、石垣の上にある20メートルの長さの櫓門で、人吉城の中心部へ入る唯一の門でした。した。この門を入ると、三の丸になり、そこから二の丸、本丸と続きます。
 写真は二の丸で、ここには城主の住む御殿が造られていました江戸時代にはここが本城と呼ばれていました。写真の正面奥にある小高いところが本丸です。
本丸には天守閣は建てられませんでしたが、1626年護摩堂が建てられていました。またここには、御先祖堂や時を知らせる太鼓屋、山伏番所がありました。
 写真は御館北の石垣(武者返し)です。この石垣の上には長櫓があったが、1862年の大火で焼失しました。
翌年の工事では櫓は造られずに、石垣を高くしてその上に槹出工法で武者返しを作りました。この工法は西洋式の築城技術で、台場や五稜郭や龍岡城などの西洋式の城郭に利用されています。旧来の城郭で採用されているのは、人吉城だけです。
この写真の左側には水の手門があります。

参考 現地説明板等
    「日本の名城・古城もの知り事典」(小和田哲男監修 主婦と生活社)

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