鹿児島(鶴丸)城

見学日 2005年8月20・21日 
所在地 鹿児島市城山

 薩摩島津77万石の居城ですが、それにしては堀や石垣が小さいと感じます。その理由は、薩摩は家臣を家臣を色々な地へ派遣し、そこに残っていた戦国時代の山城などを鹿児島城の支城(外城)として活用していたためです。鹿児島城は、背後の山(城山)が、鶴の形に似ているところから鶴丸城とも呼ばれました。
 島津氏が鹿児島を拠点としたのは、南北朝の島津貞久の時ですが、その頃は島津氏の中で内紛が激しく、それぞれの島津氏が独立して薩摩各地にいました。やがて戦国時代の時に島津貴久が宗家を継ぎ有力となり、その子の島津義久・義弘の代に薩摩半島を統一し、更に大隅半島を統一して勢力を広げました。やがてその勢力は飫肥の伊東氏を破り、その次には相良氏を攻め、九州制覇へと向かいます。1578年、当時九州の最大勢力の大友氏の当主大友宗麟が自ら4万と云われる大軍を率いて、島津氏を攻めてきます。この耳川の戦いで、島津軍は大友氏を破ります。1584年北九州で、有力な勢力を持つ肥前の龍造寺氏の大軍を沖田畷の戦いで破ります。この戦いでは、龍造氏の当主龍造寺隆信が戦死します。九州の2大勢力を破ったこの時点では、九州全土を島津氏が勢力範囲とする日も近いと思われました。
しかし18587年、全国統一を目指す豊臣秀吉の九州征伐で島津氏は秀吉軍に敗れ、降伏します。
1600年の関ヶ原では、当主の島津義弘と前当主の兄の島津義久の意見が合わず、その為当主の島津義久は僅か1500名の軍勢で天下分け目の合戦に西軍として参戦します。勝敗が着いた後で、島津の敵中突破の退却戦として有名な戦いをします。
 幕末には、名君島津斉彬が奇跡的とも言える数々の改革を行います。島津斉彬は複雑な藩内事情のために、43才になってようやく藩主となり、僅か50才で急死しますが、その藩主時代は驚くほど色々な改革を押し進めます。その事績は、日記をローマ字で書いたり、ガス灯を鹿児島に設置、電報を城内に引く、西洋風の大船を製造、砲台の設置、反射炉の製造、蒸気機関の研究、写真の撮影、鹿児島湾に機雷の設置等まさに一人の人が行ったとは思えないような様々の業績を残します。また人材の登用では、西郷隆盛などの優秀な若手を抜擢します。島津斉彬の死はあまりにも突然だったために、西郷隆盛はその死を不自然なものとして思っていたようです。 


 写真は大手門のあった本丸の石垣と堀です。写真で分かるとおり、堀の幅は狭く、石垣もそれ程高くありません。
城はいざという時には、本丸後の城山を利用するつもりだったと思われます。
 写真は本丸大手門の枡形虎口です。大手門や本丸御殿がありましたが、明治7年の火災で焼失しました。
ここから入ると、本丸には御殿がありましたが、現在は黎明館という博物館があり鹿児島の歴史の展示をしています。
 鹿児島城の隣にある私学校の石垣とそこに残る銃弾跡です。
私学校は征韓論に敗れた西郷が、青年子弟の教育のために開校したものです。
 鹿児島城の近くにある西郷さんの像です。東京の上野にある像が、私服で散歩姿なのに対してこちらは陸軍の軍服姿です。

参考 「城郭と城下町 10」(小学館)
    現地説明板等



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