NHK大河の真田丸のホント?

 

 2016年のNHK大河ドラマ真田丸に関係することを、史実に基づき書いて行きます。大河は「ドラマ」ですので、色々主人公には都合よく描かれます。ここでは私が興味を持った事柄が、史実ではどうだったかを書いていきます。

     

1、真田幸村はいなかった

 

 「歴史にふれる会」の2016123日の講座は、香取講師の「真田丸2」でした。
以下は、その時の配布資料と当日の講座から書きます。

 真田幸村という武将は当時存在しませんでした。今日一般的に真田幸村として知られている武将は、真田信繁です。
では真田幸村はいつどうしてできたのでしょうか?

 実は真田幸村という名前が出てきたのは、真田信繁が亡くなってから57年後の寛文12年(1672)の「難波戦記」という軍記物語の中に登場したのが最初です。
以後各種の軍記物語に登場し、それをネタにした講談の世界で名を知られるようになり、元禄時代には「真田三代記」で真田氏の活躍が知られるようになり、幸村の名前がビックネームになりました。
大正時代には少年少女向けの「立川文庫」で「真田幸村」の作品が人気となり、幸村の名前が広く定着し、もはや訂正のしようがないといった状態です。

 真田信繁が活躍した同時代の史料では、彼の名前を知る人は少なかったようです。公家の山科言緒の日記では、大阪夏の陣の活躍を「・・・さなだ武辺・・・」と書かれていてさなだの漢字もはっきり分からなかったようです。
同じことは細川忠興の書簡にも、後藤又兵衛は漢字で書かれているのに対して「さなだ」とひらがなであるだけで、名前の信繁は書かれていません。
このことは、当時の彼は無名な存在で、「真田一族の一人」という程度の認識だったことが分かるのではないかと思います。

 真田信繁は、真田の庄で生まれたのではなく、生まれは甲斐国の府中です。父の昌幸は真田幸隆の3男で、幸隆が武田家に属する際に人質として府中におかれ、その後武田信玄の近衆として仕えました。


2、三男で人質の真田昌幸が真田家を家督相続した訳 


以下の文章は「真田三代」(平山優著 PHP新書)から書いています。

 

 真田信繁の父は真田昌幸ですが、この父の真田昌幸は7歳ごろの時に、真田家が人質として武田信玄のもとへ差し出した人です。しかし昌幸はその後、武田信玄の奥近習衆に抜擢されます。これにより人質から信玄に仕える家臣になりました。信玄の人物眼の確かさと、昌幸が優れた人物だったことによるものと思われます。

真田昌幸の初陣は、永禄4年の川中島の合戦で、この戦いで昌幸は信玄の奥近習衆として本陣を守りました。

その後昌幸は、信玄の母の大井氏の一族の武藤氏の養子になり、武藤喜兵衛尉昌幸となります。昌幸は武藤家の女婿を娶って養子になったのではなく、武藤三郎左衛門尉の夭折に伴う名跡相続であったと考えられる。また、この頃には武田家で足軽大将になっています。

 武田信玄亡き後武田家を継いだ武田勝頼は、長篠合戦で織田・徳川連合軍に敗れます。この戦いに、真田家から当主の真田信綱と弟の昌輝が出陣しますが、二人とも討死してしまいます。真田信綱を失い真田家は当主不在になったが、武田勝頼はその後継者に武藤昌幸を指名した。こうして昌幸は武藤家を出て正式に真田家を正式に相続します。

 

 

3、名門武田家はなぜあれほどあっけなく滅んだのか 

この文章は「天正壬午の乱」(平山優著 学研マーケティング)より書いています。 

長篠合戦で武田軍が織田・徳川軍に敗れたのは、天正3年(15755月でした。当主武田勝頼はその後も遠江で徳川家康と対峙していた。しかし天正93月に徳川方の包囲を受けていた高天神城が、武田勝頼の援軍がないまま落城するにおよび、武田勝頼の求心力は低下し、武田家を離反する動きが始まります。

天正101月信濃・美濃から織田信長の脅威を受けていた木曽義昌が織田家の調略を受け、武田家を離反します。また2月には信濃の有力国衆の小笠原信嶺が織田方に降伏することを表明します。

これに対して武田勝頼が木曽義昌攻略に今福氏を派遣しますが、これが木曽軍と織田軍に敗れます。

武田攻略の主将を命じられたのは、織田家の嫡男の織田信忠でした。織田信忠は天正10年(1582)217日にはすでに信濃の飯田城に入り、武田信玄の弟逍遥軒信綱等がこもる要衝の大島城を攻める準備をします。しかし逍遥軒信綱は織田軍を恐れ、戦わずに甲斐へ逃れます。この頃は、伊那郡で武田方の城としては、武田勝頼の弟、仁科信盛等が守る高遠城だけになってしまいます。

32日はその高遠城も織田軍の攻撃で落城します。翌3日には安曇郡の深志城を守る馬場美濃守が城を織田方に明け渡して退去します。

 駿河では武田家の重臣で江尻城主の穴山梅雪はすでに数年前から織田・徳川家に内通していました。徳川家康は218日に浜松城を出発して、駿府を占領します。また2月終わりごろには北条氏も駿府の東部を侵攻し始めました。

 武田勝頼は諏訪郡の上原に本陣を置いていましたが、穴山梅雪謀反の知らせを受けると甲斐の新府城に撤退しました。しかしこの時には15千人いた軍勢が、新府へ到着した時にはわずか1千人に減っていたといいます。

33日に武田勝頼一行は小山田信茂の岩殿城目指して行きますが、ご承知の通り小山田氏の裏切りにあい、進退窮して、田野で織田軍の攻撃を受け戦死します。武田勝頼37歳、嫡男信勝16歳、正室北条夫人19歳でした。

 

 こうして武田家は亡びましたが、甲斐・信濃・駿河・上野の4か国を支配する大国武田氏のあっけない滅亡は、織田信長にとっても、北条氏や上杉氏にとっても予想外の出来事だったようです。信長は、破竹の勢いで進軍する攻め手の主将である嫡男の信忠やその家臣へ対して、何度も自重するように手紙を出しています。これは武田勝頼の反撃があることを警戒してのことです。

 

4、織田信長は信濃・甲斐をどうやって治めたのか 

 

この文章は「天正壬午の乱」(平山優著 学研マーケティング)より書いています。

 信長は天正10年(1582)329日に論功行賞に伴う知行割を以下のように決めた。

滝川一益は上野国と信濃の佐久郡と小県郡、川尻秀隆は甲斐国と信濃諏訪郡、森長可は川中島4郡、毛利長秀は信濃国伊那郡、また武田氏滅亡のきっかけを作った木曽義昌は木曽郡の本領安堵の他に筑摩・安曇郡を加増されました。徳川家康は駿河1国を与えられたが武田家旧臣の穴山梅雪や曽根昌真は駿河の知行を安堵されています。

さらに滝川一益は「関東御取次役」を命じられ、織田政権の東国政策の中枢に位置付けられました。

武田滅亡の直前に参戦した小田原北条氏は完全に無視されました。そればかりか支配していた西上野や駿河の一部を取り上げられました。

 

 織田信長は、知行割りとともに武田家の残党狩りを行いました。この結果多くの武田一門や、重臣が捕えられ処刑されました。
武田一門衆はほぼ殺され、武田信玄の息子で生き残ったのは武田信清(上杉景勝へ亡命)だけで、孫(男子)では2名の存在が確認される。また信玄の甥(男子)もほとんど殺されました。
同書には殺された武田家臣一覧として、47名のリストがでています(P58)。
またこのリストから、甲斐の重臣などは厳しい処分を受けたが、上野、信濃、駿河の国衆に対しては厳しい処断ではないことがわかるそうです。

 

 本能寺の変が起き織田信長が殺されると、上記の旧武田家の領地に着任した織田家の武将は、信長の死を知った一揆などの中を、大変な苦労をして自分の本領の地へ逃れます。滝川一益は神流川で北条氏の軍と戦い敗れますが、何とか小諸城へ逃れ、木曽義昌と連絡を取り人質を木曽氏へ預け信濃を脱出します。甲斐の川尻秀隆は、618日甲府で一揆の軍に攻められ討ち取られました。

滝川一益は何とか脱出しますが、織田家の後継者を決める清州会議には間に合いませんでした。

 

5、武田家滅亡後の真田昌幸の必死の生き残り

 

今回は真田昌幸を20161月の歴史にふれる会の講座の配布資料と以前読んだ「天正壬午の乱」(平山優著)を参考にしています。

 

 武田家が亡んだあと、真田昌幸は信長に使者を送り織田政権に属します。

しかしその年(1582)6月2日、織田信長は、明智光秀に攻められ本能寺で亡くなります。

この時上方にいた徳川家康は伊賀越えで何とか切り抜けますが、同行していた武田家の旧臣穴山梅雪は、別行動を取り落人狩りに襲われ亡くなります。

 そして信長の死で、武田旧領は混乱します。信長から甲斐を任された川尻秀隆は、一揆により討たれます。 

 北条氏政、徳川家康、上杉景勝という大勢力が武田旧領に手を伸ばしてきます。また信濃等の各豪族もこの機会に勢力を伸ばそうとします。

 真田昌幸は最初に、北信濃に侵攻しようとした上杉家に仕えます。

しかし北条氏が神流川の合戦で、信長から関東を任された滝川一益を破り上野を支配し、さらに信濃進出のために各豪族を調略します。

この時に真田昌幸も北条氏に従うようになります。

 

6、北条氏の上野・信濃進出と徳川家康との対決

    この項は、やはり「天正壬午の乱」(平山優著)より書いています。

 天正10年(1582)712日頃北条氏直は2万を超える大軍を率いて信濃へ進出し、上杉景勝と対峙します。上杉軍は8千人ぐらいといわれています。この時に真田昌幸の調略により海津城主の春日信達が北条側へ寝返る予定だったといわれます。ところがこの寝返りが上杉方の知るところとなり、春日一族は捕えられ磔にされたといわれます。
大河ドラマでは真田昌幸の弟が刺殺しますが、事実は違うようです。
上杉軍は要衝を抑えて北条軍を待ちかまえます。春日氏の寝返りにより上杉軍を簡単に破れると考えていた北条軍は、うかつに攻められなくなります。真田昌幸は上杉軍との決戦を主張しますが、北条氏直は甲斐への進軍を決めます。
北条氏直の母は武田信玄の娘であり、氏直は武田信玄の孫にもなります。甲斐への進軍を決めたのはそのことも関係があるかもしれません。北条軍は南下して甲斐を目指します。

この時真田昌幸は、北条軍には同道せず本領に残り上杉軍に備えます。

 北条氏の大軍と徳川氏が新府城付近で対峙します。

北条氏は別働隊を1万を派遣して、黒駒で徳川方と戦いますが、徳川方の鳥居・内藤・水野軍は少数であったものの

各個撃破し、北条軍は大混乱になり総崩れになります。

徳川方は少数であったので、各砦に籠り守りを固めていましたが、黒駒の戦いで打ち取った北条方の首を敵前に晒したと云われます。

これにより北条氏の軍は戦意を低下させます。 

 黒駒の戦いで勝利したことにより、情勢を見守っていた甲斐の豪族が徳川方に従うことになります。

 今度は対峙していた徳川軍が別働隊を派遣して、北条軍の後方の砦を陥落させます。これは徳川に従った武田家の遺臣の活躍によるものです。

これにより大軍であったために、北条方は食料の調達が難しくなります。 

 この頃真田昌幸も徳川方の調略を受けていたようで、徳川家康が上杉景勝へ対して、家康の味方となった真田昌幸を攻めないように依頼しているそうです。

この後真田昌幸は、北条氏へ手切れを通告します。

 

 その後天正10年(1582)10月29日、北条氏と徳川氏は和睦し、同盟を結ぶことになります。この和睦を働きかけたのは織田信雄でした。織田信雄は徳川家康を味方につけ、自分をないがしろにして力を付ける豊臣秀吉に対抗しようとしたものです。徳川家康はその後も12月まで甲斐に留まり旧武田家家臣団に対して所領安堵状を出して自分の家臣に組み入れました。しかし信濃までは手が回らず、一度浜松へ帰り、翌年再び甲斐に出て信濃経略に努めますが、甲斐のようには順調にはいかなかったようです。北条氏が信濃から手を引くと言っても、自分の力でその地を経略していく必要がありました。

 

7、室賀氏の暗殺と真田昌幸暗殺計画はあったのか 

 NHK大河ドラマ11話では、室賀が真田昌幸の暗殺を徳川家から持ち込まれ、苦渋の選択でそれを受け実行しようとして逆に討ち取られます。この話はドラマでつくられた史実ではない話だと思っていましたが、そうでもないようです。

「真田三代」(平山優著 PHP新書)のP199以下に「昌幸暗殺が策定される」の項目があります。以下はそこから書きます。

徳川家康は沼田・吾妻を北条氏へ引き渡すように真田昌幸に命じたものの、昌幸の頑強な抵抗にあっていた。そこで真田昌幸の暗殺を計画したといわれます。その役目を命じられたのは、小県郡の有力国衆の室賀正武でした。

「加沢紀」によると、室賀は天正126月、家康の密命を帯びた鳥居元忠より昌幸暗殺を命じられ、これを承知します。翌7月上方から囲碁の名手が真田昌幸のもとを訪れることになり、室賀も上田城へ招かれた。これを好機と見た室賀は家臣室賀孫右衛門を使者として鳥居元忠の所へ派遣し、77日に真田昌幸の居城へ参上することになったので援軍の要請を知らせようとした。ところが室賀孫右衛門はすでに昌幸に内通していたため、計画は昌幸の知るところになった。

そうとは知らぬ室賀正武は、昌幸を油断させるためわずかな供回りだけを連れて上田城に参上したところ、待ち伏せた真田勢によって暗殺されました。真田昌幸は、すでに室賀家中に内通者を多数抱えていました。

 

この室賀の謀殺は史実で、常福寺善誉という僧侶が、上杉家臣栗田可休斉に宛てた書状からも証明されるそうですこの書状では、善誉は栗田氏に室賀の遺族の保護を依頼していることや、真田昌幸が上杉家家臣の栗田可休斉と連絡を取ろうとしていることもわかるそうです。

この「加沢紀」の記載がどこまで史実なのかはわかりませんが、家康と対立した真田昌幸を室賀正武は危ういと見ていたのでしょう。上杉を裏切り北条へ味方し、さらに北条を裏切り徳川へ味方したのに、その徳川と対立すれば生き残る道は容易ではありません。徳川家康の意を汲んで真田昌幸を除く決意をしたのではないでしょうか。もちろんその手段は暗殺だったのかどうかは分かりません。その対立が、真田昌幸の室賀正武の謀殺という結果になったのではないでしょうか。もちろん大河ドラマのように、真田信繁の結婚式が利用されたわけではありません。

真田昌幸が徳川との関係が悪化すると、もう一度上杉氏を頼ろうとしますが、上杉景勝は一度裏切った真田昌幸を容易に信用せず、話があってから約1年後にようやく関係を修復し受け入れをします。

 

8、徳川家と戦った第一次上田合戦の経過 

 

 6では、徳川氏と北条氏の和睦を書きました。この和睦が真田氏にとっては問題でした。

 1582年の10月29日の徳川氏と北条氏の和睦内容は、簡単に言えば、北条氏は争っている甲斐・信濃から手を引くので、上野は北条氏の支配を認めるというものでした。また、徳川家康の娘の督姫を、北条氏直に嫁がせます。

 そのわずか1か月前、真田昌幸が徳川氏に味方する時には、徳川家康は真田家の領有する沼田・吾妻・小県の本領安堵を認めています。
この沼田・吾妻は上野に入ります。この当時真田昌幸は上田城へ城を築き始め、小県へ勢力を拡大していました。

 徳川家康は、約束通り北条氏から甲斐の諏訪郡などの割譲を受け、自分も北条氏へ上野の沼田・吾妻を引き渡すと伝えます。
そのうえで、真田昌幸へ対して沼田城を北条氏へ渡すよう言います。
これに対して真田昌幸は、「沼田は家康から与えられたものではなく自分でとったものです。」と拒否します。真田にとっては何の相談もなく、勝手に自分の領国をとりあげるという理不尽なものです。
真田昌幸は家康と北条氏との和議をすでに知っていてのだろうと思います。
家康と北条はすでに手を組んでいます。この家康・北条氏と戦う場合、頼むのは上杉氏になります。一度上杉氏から徳川氏へ主君を変えた真田ですが、上杉氏との接触をしていました。そうして次男の信繁を人質として上杉家へ差出し、再び上杉氏に臣従します。
上杉氏はこれにより、上田城の築城を信濃の武将に応援させます。

 こうしてついに15858月、徳川家康は、家臣の鳥居・大久保・平岩氏等と信濃の武将計7千人を上田城攻めに派遣します。
上田を守る真田は2千人と云われます。これに上杉からの援軍がいくらか加わったようです。
巧みな真田昌幸の戦術と領民の支援もあり、真田は徳川の攻撃をかわし、それどころか信幸の手紙によれば徳川方1300を討ち取るという大戦果を挙げます。
徳川軍も負けてばかりではだめだと丸子城を攻撃しますが、それにも失敗します。
同じころ上野では北条氏も沼田城を攻めますが、こちらも失敗して撤退します。

 これらの一連の敗戦に、家康も井伊直政・松平康重らの重臣に5千の兵をつけて派遣します。北条氏への手前もありなんとしても上田城は落としたいと思っていたのでしょう。
しかし158511月、徳川方は撤退します。それは領国で、宿老の石川数正が豊臣秀吉のもとに出奔するという事件によるものです。豊臣氏と緊張関係にあった徳川氏も、真田攻めどころではなくなったようです。

 なおNHK大河ドラマでは、この第一次上田合戦では主役の真田信繁が大活躍をしています。しかし彼はこの時には上杉家の人質となっていますので、この戦いに加わることはなかったはずです。真田信繁の初陣は、1590年の小田原攻めだと云われています。
 
参考「真説・智謀の一族 真田三代」(三池純正著 洋泉社新書)

 

 

9、第一次上田合戦の頃の中央の情勢

   

NHK大河の13回は第一次上田合戦でした。この戦いは15858月に徳川軍は7000の軍勢を上田城攻撃のため出兵させ、翌閏8月上田城を攻めますが、真田氏は上田城を守り徳川軍を撃退します。この頃の豊臣秀吉の動きを見てみましょう。

  天正11年(1583)4月、豊臣秀吉は賤ガ岳の戦いで柴田勝家を破り、5月には柴田勝家に味方した織田信孝を殺します。

翌天正12年(1584)3月から豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康が小牧・長久手で戦いますが、同年11月に豊臣秀吉は織田信雄と講和します。これにより徳川家康も兵を引きますが、豊臣秀吉との緊張関係はこの後も続きます。

15853月、秀吉は小牧・長久手の戦いで織田信雄・徳川家康に味方した紀州を攻めます。根来寺を攻め、その後は雑賀に進み、4月には太田城(現在の和歌山市)を水攻めにして開城させます。

同年6月、織田信雄・徳川家康に味方した四国の長宗我部氏攻めのため、秀吉の弟秀長が率いる秀吉軍は、四国へ渡ります。8月には長宗我部氏は秀吉軍に降伏します。

この間の7月、豊臣秀吉は関白となります。

同年8月、今度は越中の佐々成政攻めのため豊臣秀吉が兵を率いて出陣します。この時、越後の上杉家にも同時に佐々を越後から攻めるよう要請します。

このため上杉景勝は出陣の準備をしていて、真田昌幸の援軍要請には十分な兵を割くことが出来ませんでした。といって大河ドラマのように老人と女子供の兵を申し訳程度に差し向けたわけではなく、「真説・智謀の一族真田三代」(三池純正著 洋泉社新書)によれば北信濃の11人の武将に真田家の加勢を命じています。

佐々成政は826日秀吉へ降伏しています。秀吉方のこれら一連の攻略のため徳川家康も本拠を離れて、真田攻めに自身が出兵することは出来ませんでした。

秀吉の動きについては、「日本の歴史11 天下一統」(熱田公著 集英社)を基に書いています。


                                   上田城 

10、真田昌幸と豊臣秀吉

 

大河ドラマ「真田丸 第14話大坂」では、豊臣秀吉から真田昌幸のところへ上洛要請のための手紙が来て、それに対して昌幸は「しばらくほっとけ わしはじっくり見極める」と話していますが、実際はどうだったのでしょか。
以下は「真田三代軍記」(小林計一郎著 新人物往来社)P84以下「表裏比興の者・昌幸の苦衷」から書きます。

 その秀吉からの手紙ですが、第1次上田合戦の頃真田昌幸が出した手紙の返事になっていますので。最初に秀吉に手紙を出したのは昌幸になります。
 真田昌幸は、徳川家と対立する際には、上杉氏が臣従した豊臣家とも繋がりを持とうとして、秀吉に援助を求めたと思われます。

 同書によればその1017日付の手紙の内容は、「まだその方と交通したことはないが、道茂のところへのお前の手紙を拝見し委細を聞き届けた。お前の進退については、事態がどう変わろうとお前が困ることのないように申し付けるから、安心するように。・・・中略・・・。詳しいことは道茂が伝達する。」(同書より引用)、となっています。

さらに翌月の1119日付の手紙で秀吉は、「秀吉に対して家康が表裏を構えたので、家康の使者石川数正に対して家康の重臣連中の人質を出すように要求したところ重臣どもは家康の不実を知っているから人質を出さない。そこで石川は家族を連れて尾州へ逃げてきた。」(同書より引用)説明しています。

 上の手紙の「道茂」は誰のことは分かりませんが、秀吉の側近で祐筆のような人でしょうか。真田昌幸は直接、秀吉へ手紙を書くことは当時ではできませんでした。
また、石川数正は当時徳川方を代表して、豊臣家との外交担当となっていました。
このことから彼の離反は、その過程で秀吉方から調略を受けていたことによるものだと分かります。
真田昌幸の弟が牢屋の中から、石川数正を調略できるはずがありません。

 

秀吉としても真田が信州で徳川方を防いでくれるのは都合が良かったのでしょう。
その後は、「家康が不実なので、この上は成敗のため秀吉が自ら出馬する」などと威勢の良いことを書いてきています。

 しかしその後、秀吉は徳川家康を武力で討つことをあきらめ、平和裏に臣従させようとするようになります。
御存じのとおり、家康に妹を嫁がせたり、母を人質として譲歩して
ようやく天正10年(158610月に家康を臣従させます。
この過程で秀吉は、家康の真田攻めを積極的に認めると言い出したりします。

 この時の真田攻めに対して、石田三成は上杉景勝に対して「真田は表裏比興のものだから成敗するので、あなたの方から真田を助けることがないよう」命じる手紙を出しています。
この経過では、表裏比興はむしろ「秀吉」の方ですが・・・・。
この真田攻めは結局中止になりました。

 最終的に豊臣秀吉は、天正1411月真田昌幸・小笠原貞慶・木曽義昌を家康の配下と定めました。
真田昌幸は、長子信之を家康へ出仕させ、次子信繁を秀吉に出仕させます。
その後、信之は徳川家の重臣本多忠勝の娘を娶ります。信繁は秀吉の直臣となり、その奉行大谷吉継の娘を娶ります。

 こうして真田昌幸は主家武田家の滅亡、そしてその後の織田信長の死による信濃・甲斐・上野の大混乱の中で真田家を守り生き抜いていきました。そしてその過程で一大名として自立しました。


11、秀吉に救われた真田昌幸 

 

 今回は「真説・智謀の一族 真田三代」(三池純正著 洋泉社y新書)の第9章から書きます。

 

徳川家康は当時豊臣秀吉と緊張関係にありますので、北条氏と友好関係を維持していくことは大変大事なことです。そのため自分の命令に従わずに沼田城を明け渡さない真田昌幸に対して7000の兵を差向かわせ、その兵が真田攻めに手こずると、更に5000の兵を派遣します。しかし重臣の石川数正が秀吉に調略されたために、それどころではなくなり兵を引き揚げさせます。この石川数正の寝返りに前後して、信州松本城の小笠原貞慶や遠江刈谷城の水野忠重も秀吉に寝返っているそうです。家康が秀吉方の調略に驚き、兵を引き返させたのは当然だったのでしょう。

真田昌幸は、この突然の徳川軍の退却の理由が分かりませんでした。この時に上杉景勝へ出した手紙で「徳川軍がなぜ兵を引いたのか分かりません」と書いています。のちに秀吉から手紙(1119日付)をもらって、その理由(石川数正の出奔)を知りました。

徳川家は宿老の石川和正が豊臣方になったため、徳川家の軍事機密が豊臣家に漏れたため、これを機に徳川家の軍制を改め、その際には、武田家の軍制を大幅に取り入れたと云われます。

 

天正13年の年末、真田昌幸は、秀吉の上洛要請により長男信之、二男信繁を連れて大阪城へ行き初めて秀吉に会い、臣下の礼を取ります(同書P157)。しかしこの昌幸の大坂行きは、他の説があります。真田信繁が人質として大坂へ送られたのが、天正13年の冬で、真田昌幸の大坂行は天正15年とするものが多いようです。ちなみに上杉景勝の初上洛は天正146月になります。大河ドラマのようにこの時に信繁を同道したという説もあるようです。真田信繁は人質として大坂へ行きましたが、後に真田昌幸の妻が人質として大坂へ送られます。その頃までには秀吉に気に入られ、人質の身分ではなくなっているようです。 

この後秀吉は対徳川政策を武力討伐から切り替えます。秀吉の妹朝日姫を無理に離婚までさせて、家康に嫁がせようとします。真田昌幸は徳川が秀吉との対応に追われているこの時に、佐久郡に兵を進めます。これに怒った徳川家康は、天正147月、自ら真田を討つため出陣し甲府へ入ります。この動きに対して秀吉は上杉景勝に対して、今回は真田を助けないように釘を刺す手紙を送ります。

しかしなぜか徳川家康はそれ以上には進軍せず、820日に兵を引いて居城の浜松へ戻っています。明らかに真田征伐を取りやめたのです。真田征伐は豊臣秀吉の了解のもとで行っていました。しかしこの時の徳川家康に、それを取り止めさせることが出来る者は秀吉しかいないと思われます。秀吉は家康に真田の首を討てと言いながら、陰では真田征伐を中止するよう密かに働きかけていたのです。925日に秀吉が上杉景勝に出した手紙では「真田は表裏者であるから、家康が成敗すると言っているが、今回は取り止めにする」書いています。

秀吉は一応形だけは家康に同調して真田征伐を支援するようなそぶりを見せながら、その本心では真田昌幸を征伐するつもりはなかったのでしょう。

 

12、真田信繁が大阪へ行ったのは何時か

 

 大河ドラマの真田丸は主人公の真田信繁が大坂で秀吉や三成、淀殿などに気に入られ、大活躍しています。

 真田信繁が何時大坂へ人質としていったのか、気になりました。
前の日記「秀吉に救われた真田昌幸」でも少し書きましたが、その時期は本によって異なり、はっきりしていないようです。
はっきりしていないため、大河ドラマでは主人公の信繁を自由に活躍させているのでしょう。

 「真田三代」(平山優著 PHP新書)では、その時期を理由も含めて書いているので、以下に紹介します(同書P242以下を引用しています)。

 信繁が秀吉に人質として送られたのは、判然としないが、もっとも可能性が高いのは、昌幸が徳川家康との対立を豊臣秀吉の調停によって解消するとともに、上洛して豊臣政権への従属を誓約した天正15年であろう。
 それはなぜか。天正149月に、秀吉は家康に対抗すべく真田昌幸の支援申し入れを受諾し、上杉景勝、木曽義昌、小笠原貞慶らに真田支援を命じているが、家康が上洛を決定すると昌幸に人質を出すよう命じている。
ところが昌幸はこれに従わなかっため、秀吉の怒りを買った事実があるのである。
このことは天正149月の時点で、昌幸は人質を秀吉に提出していなかったことをはっきり示している。
しかも真田昌幸正室は、この時期上杉方の海津城に人質として留っているので、この時点で信繁もまだ上杉方に留っていたのであろう。
これが解消されるのは、正式に昌幸が上洛して秀吉に臣従した時期と想定して誤りではあるまい。
以上同書からの引用です。


 ちなみに、秀吉方の調略を受け、徳川方から秀吉方に変わった、木曽義昌や小笠原貞慶は、上杉景勝が上洛した頃には、秀吉の求めに応じて、上洛しています。ところが真田昌幸は上洛していません。
これは、信濃での徳川氏や上野での北条氏との緊張関係があり、上洛したくとも出来なかったというのが、実状だったように思います。

松代城   

 

13、木曽義昌の生き残り 

 

 真田昌幸は領土を守るため、主を変え必死の生き残りを図ります。では他の武将はどうだったのでしょうか?信濃の有力武将の木曽義昌を見てみましょう。

 

木曽氏は武田信玄の信濃侵攻に対しては、当初は信濃守護の小笠原長時と行動を共にして武田軍と戦っていましたが、やがて小笠原氏が信濃を追われてしまうと、1555年武田信玄に降伏し、臣従することになります。木曽義昌の父の代の時です。木曽氏は本領を安堵され、息子の木曽義昌は武田信玄の娘を娶り武田家の親族衆として処遇されます。

 武田信玄亡き後、武田家を継いだ武田勝頼が長篠の合戦に敗れて、武田家の勢力に陰りが見えてくると、織田家との境を守る木曽義昌には織田家からの圧力とともに調略が伸びてきます。木曽義昌は武田家を離れ織田家に味方することを決めます。

15821月、木曽義昌寝返りの報を聞いた武田勝頼は、直ちに家臣を追討に向かわせ、その後自身も出陣します。この出陣に際して、木曽義昌からの人質の母、岩姫、千太郎の3人を処刑しています。

15822月、織田信忠軍が伊那口から、飛騨口から金森長近軍が、駿河口から徳川家康が甲府を目指して攻め寄せてきます。こうして同年3月、武田家は亡んでしまします。

 しかしこのわずか3か月後の15826月に、織田信長が明智光秀に討たれてしまい、信濃は混乱します。

 

 木曽義昌は織田信長にいち早く味方して、木曽郡の本領安堵と安墨郡と筑摩群を加増されていました。この機会を利用して勢力拡大を図るために深志城(現松本市)に入り、旧小笠原氏の国人衆と戦いますが、双方とも大きな損害を出します。やがて上杉景勝の援助を受けた小笠原洞雪斉が深志城へ迫ると、木曽義昌は深志城を明け渡し、木曽へ退きます。この時に、上杉と対抗するため信濃へ大軍で進軍してきていた北条氏直に従います。北条氏から調略があったためだと思われます。生き残りをかけ、力の強い、良い条件の勢力に味方するのはどの武将も同じでした。

 

 この後は大軍を率いた北条氏直が川中島で上杉軍と対峙し、その後信濃を南下して甲斐を目指します。そうして徳川軍と信濃・甲斐の支配を争います。

木曽義昌もこの両者の争いの時に、今度は北条氏から離れ徳川方に味方しますが、真田昌幸と同じです。

その後の対決のあと、158210月北条氏と徳川氏は和睦し同盟を結び、決着します。

 

 その後、今度は徳川家康と豊臣秀吉の関係が悪くなり、小牧・長久手の戦いが始まります。この戦いのころから、豊臣秀吉は信濃の有力豪族を調略します。その調略は家康の重臣の石川数正にまで及びます。

この秀吉の調略に応じて、徳川方から豊臣秀吉方へ味方した中に、木曽義昌、小笠原貞慶(信濃守護の小笠原長時の子供)がいました。

 こうしてみると、木曽義昌も、織田家、北条家、徳川家、豊臣家と盟主を変え必死の生き残りを図りました。

 

 なお木曽義昌はその後、1590年、徳川家康の関東移封の際に下総国阿地土(あじと)に1万石で移されます。木曽義昌は其処で亡くなります。木曽義昌は其処で善政をして領民から慕われ、現在の千葉県旭市の名前は、木曽義昌が源平の争いの時に活躍した木曽義仲の「朝日将軍」から「旭市」になりました。

 

14、真田昌幸の上洛 

 

58日のNHK大河「真田丸18上洛」をドラマではなく史実として見ると
どうなるでしょうか?ただしあくまで私の目線での話になります。

 以前の日記にも書きましたが、真田昌幸と豊臣秀吉の関係を見ながら考えてみましょう。

 第1次上田合戦の時に、真田昌幸は徳川軍の攻撃を受けます。同じころ上野では、北条軍から沼田城も攻撃されます。
真田昌幸は、これを何とか撃退し、上田城や沼田城を守ることが出来ました。しかし徳川・北条両軍は、徳川は豊臣と緊張関係にあり、北条は佐竹氏と緊張関係にあり、全力で攻撃したわけではありません。
これを考えると上杉だけでは心もとないと考え、真田昌幸は、秀吉によしみを結ぶために手紙をだします。
秀吉はこの手紙に対して、徳川家を武力制圧しようと思っていた時期なので、真田は守ってやるから安心しなさいという返事をします。

 しかしその後天正の大地震があったりして、秀吉の領地が大きな被害を受けるにおよび、徳川を武力討伐から圧力をかけて臣従させようと方針を転換します。
秀吉の妹を家康の正妻としたり、家康の重臣の石川数正を調略したり、信濃の有力な武将木曽義昌や小笠原貞慶を調略により徳川方から秀吉方に取り込みます。

 木曽義昌や小笠原貞慶は、秀吉の求めに応じて大坂へ行き秀吉に臣従します。
しかし秀吉の助力を求めた、真田昌幸はこの時まで、人質を出すことや大坂まで出向くこともしませんでした。
豊臣秀吉は、真田昌幸のこの態度に怒り、徳川が真田を攻めるのは、もっともであるとして、その時には上杉に真田を助けないように言い含め、いうことを聞かないなら自分も真田を攻めるであろうと発表します。

 しかしこれは徳川に対するリップサービスのようでその後、「家康に真田攻めを命じたが、ひとまず中止した」と上杉家に知らせています。
そして徳川家康が大坂へきて、秀吉に臣従するようになると、天正1411月に、信濃の木曽義昌、小笠原貞慶、真田昌幸を徳川家康の与力大名にすることを決めます。真田昌幸が臣従していた上杉景勝に知らせているようですので、真田昌幸もこのことについては、上杉家から聞かされていただろうと思います。

 秀吉はドラマのように真田昌幸だけに意地悪をして、徳川家康の与力大名としたわけでもなく、また上洛して秀吉からそれをきくまで真田昌幸が全く知らなかったわけではないと思われます。
徳川から豊臣秀吉に鞍替えした、3人の信濃の有力武将を同じように処遇したことになります。

 さらにドラマでは、真田信繁が豊臣秀吉に対して「父は国元へ帰り戦支度をするでしょう」等と脅しのようなことを云います。当時信繁は大坂にいたかどうか分かりませんが、かりにいたとしても人質でした。人質の信繁が豊臣秀吉と直接話すことは出来なかったでしょう。もし万一話すことが出来て、そのような無礼なことを秀吉に言ったら、真田信繁は多分殺されていたでしょう。真田昌幸や真田信之の二人も重い処分を受けて真田家は潰されていた可能性が高いはずです。


 ちなみに後年小田原攻めの後、徳川家康は関東に移封されますが、木曽義昌、小笠原貞慶も信濃を追われ、関東に移封されます。木曽氏は1万石、小笠原貞慶は3万石です。家康から寝返ったことで冷遇されたように思われますが、どうでしょうか?
この時真田昌幸は本領にそのままとどまることが出来ました。

 

15、年表 

    これまで書いて来たことを年表にしました。武田家の滅亡から真田昌幸の上洛までです。

 

  1582  3     武田氏、織田信長に攻められ亡ぶ

          4     真田昌幸、織田信長に臣従する

          6     織田信長本能寺にて明智光秀に討たれる

                  滝川一益、神流川で北条氏と戦い敗れる

                  真田昌幸、上杉景勝に臣従する

          7     北条氏直大軍を率いて信濃へ進出し上杉軍と対峙する

                  真田昌幸、上杉氏を離れ北条氏へ臣従する

          8     北条氏直、信濃を南下して甲斐へ向かう

          9     北条氏直、甲斐で徳川家康と対峙する

                真田昌幸、北条氏を離れ、徳川氏に臣従する

          10    徳川氏と北条氏和睦して同盟を結ぶ

  1583  4     真田昌幸、上田城の築城を始める

                豊臣秀吉、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る

          8     豊臣秀吉大坂城の築城を始める

  1584  4     小牧長久手の戦いで、徳川軍が豊臣秀吉軍を破る

          6     真田昌幸、室賀正武を暗殺する。

          11    豊臣秀吉、織田信雄と和睦する

          12    徳川家康次男の秀康を人質(養子)として大坂城へ送る

  1585  6     豊臣秀吉、四国の長宗我部を攻める

          7     真田昌幸上杉景勝の支援を乞う。

真田信繁人質として上杉家へ行く。

          8     四国の長宗我部氏、豊臣秀吉に降伏

          8  真田昌幸、上田城を攻撃した徳川軍を破る

                  北条氏、沼田城を攻めるが、真田氏は沼田城を守る。

          89月頃    真田昌幸、豊臣秀吉へ厚誼を結びたいとの手紙を出す

          11    石川数正、徳川家を出奔する。徳川家は領国の防備を固める

  1586  5     徳川家康、豊臣秀吉の妹旭姫を正妻として迎える

          6     上杉景勝、大坂へ行き豊臣秀吉に臣従する
          
          7     徳川家康、真田攻めの準備をするが、豊臣秀吉の求めにより中止する。

          10    徳川家康、大坂へ行き豊臣秀吉に臣従する

  1587  3     真田昌幸、大坂へ行き豊臣秀吉へ臣従する。

真田信繁大坂へ人質としていく。

                  豊臣秀吉、九州の島津攻めのため出陣する

     6     島津氏豊臣秀吉へ降伏する

 

真田氏本城   真田氏が上田城を築く前の真田氏の本城

 

16、加藤清正の九州行きの理由 

 

真田丸19話は、秀吉が茶々に夢中になり、まるで秀吉の恋狂いのホームドラマのようで、秀吉はもはや仕事もしていないのではないかとも思われました。しかし当然そんなわけはありません。

 

加藤清正の九州行にはもっとせっぱつまった理由がありました。そのあたりのことがドラマでは何も触れていないので、以下それを簡単に書きます。

 

秀吉は15873月九州へ出陣して島津氏を降伏させ7月に大坂へ帰ります。そして九州の国分けをします。その際に肥後国の大部分は佐々成政に与えられます。越中で秀吉に反抗して降伏した佐々成政は、越中で一郡を残して領地を没収されていましたが、秀吉の九州攻めに従軍しその功を認められたわけです。秀吉の度量を示した人事だとも云われました。自分に反抗したものも優秀な人物なら許して、きちんと処遇するという訳です。

 

佐々成政は新しい領地で、秀吉のこの処遇にこたえようと検地を実行しようとしますが、それぞれの土地に結び付いた国人のたちの反発を買います。武力でそれを抑え込もうとしますが、それが反って大規模な一揆として蜂起することになりました。佐々成政は熊本に孤立してしまい、もはや独力では鎮めることが出来なくなります。秀吉は小早川隆景、黒田孝高等九州の諸大名に出陣を命じ、毛利輝元を総大将にしてようやく鎮圧します。15881月までに国人千人の首がはねられ、首謀者百余名の首が大坂へ送られるという徹底的な弾圧が行われました。この反乱の責任を佐々成政は負い、摂津尼崎で閏5月秀吉から死を命ぜられます。

 

この佐々成政の後に肥後国を与えられたのが、加藤清正と小西行長になります。加藤清正は熊本を居城とし、小西行長は宇土を居城にします。のちにこの二人が朝鮮へ渡る先陣を務めることになります。

 

17、聚楽第落書事件 

 

大河の第20話では、聚楽第の落首事件が描かれていました。
これまでの豊臣秀吉主人公の大河ドラマでは、取り上げていない話だろうと思います。

 「クロニック戦国全史」では、天正17年(158939日、京都の聚楽第の壁に落書があり、豊臣秀吉が犯人を六条河原で磔刑に処す。と書かれています。

 落書きではなく、歌が詠まれていたという話もありますが、具体的にどのような歌だったのかは分かっていません。
 秀吉の政治を批判したものとしては、その2年後に京都に張り出された落首がメモされ伝わっていますが・・・。

 秀吉の政治を批判したものだということは分かります。
秀吉は武力でのし上がった独裁者ですので、自分への批判は許さなかったことは容易に想像できます。

 「一冊で読む豊臣秀吉のすべて」(小和田哲男著 三笠書房)では、その時の秀吉のことを、犯人17名は捕えられ、一日目に鼻を削がれ、二日目に耳を削がれ、逆さ磔にされて殺されている。落首ですら命がけだったのである。

 ここでは犯人と書いてあるが、犯人ではなくドラマの通り、聚楽第の門番が責任を取らされたりするものもあります。また本願寺へ逃れた2人の首を要求し、本願寺側はその首を差し出したとも言われます。
さらにその2名の住んでいた町の一画を焼き払ったとも言われます。

 もちろんこの事件に真田信繁が関わったとしているものはありません(断言してようものか?)。
ましてや、石田三成が豊臣秀吉の暴走を、命がけで阻止したなどということも全くわかりません。
石田三成は自ら本願寺へ行き、犯人の引き渡しを要求したとも云われています。

 激怒した独裁者に苦言を呈すことの出来るものは、誰もいなかったと思われます。
人の命は今よりもずーーーーと軽かった時代です。

 

  松本城

18、秀吉と北条氏の上洛 

   

 今回の参考は「小田原合戦と北条氏」(黒田基樹著 吉川弘文館)です。

 

秀吉と北条氏の間では色々やり取りがありましたが、15885月、徳川家康の強い勧めで北条氏は豊臣秀吉に従属することを決めます。秀吉はその申し出を受け、北条氏を許すことを伝えます。
北条氏はそのお礼のため、北条氏規(北条氏政の弟)を派遣し、15888月秀吉は京都で会います。

 この北条氏規の上洛は、北条家の当主北条氏直、北条氏規の強い意志によって行われたと考えられ、北条氏政は消極的だったようです。
しかしこれにより、北条氏は秀吉に従属したわけで、この後は、当主の北条氏直か北条氏政の上洛が求められ、他の大名と同じように京大阪へ出仕して秀吉に仕えることを求められるようになります。

 この段階になり、北条氏は沼田領問題を持ち出します。

 徳川氏と合意した沼田領の明け渡しですが、当時は一般的には、その内容の実現は武力行使で実行することが求められます。
徳川家康も約束通りに甲斐・信濃から兵を引いた北条氏から領地を引き渡してもらったわけではありません。
反徳川方の信濃の国人衆を攻め、調略して自分ものとしました。最後まで抵抗して、北条氏の元へ逃れた国人衆もいます。

同様に北条氏も、その後沼田城を何度か攻めましたが、真田氏の守る沼田城を攻略することは出来ませんでした。
同盟した当時、徳川氏は強大な豊臣と対抗していたため、どうしても北条氏を味方にしておく必要がありました。多少北条氏に都合の良いことを言ったかもしれません。

 北条氏が持ち出した沼田領問題を解決するために、秀吉は北条氏に対して、言い分を聞き届けるので家臣を派遣するように伝えます。
これに対して北条氏は、15892月宿老の板部岡江雪を派遣します。秀吉は北条氏から直接言い分を聞こうとします。

 秀吉はこの板部岡江雪の話を聞いて裁定を下しますが、これ以前に徳川、真田からの言い分も聞いていただろうと思います。

 秀吉の裁定は、沼田領のうち沼田・岩櫃を含む2/3は北条氏へ、残りの1/3は真田氏へ留保し、真田が北条氏へ割譲した替地を徳川が真田に与える、というものでした。この裁定を北条氏が受け入れ、上洛・出仕するという一礼を提出すれば、直ちに上使を派遣して沼田城等の引き渡しを実現することを伝えた。

 これを受けて、板部岡江雪は帰国します。
北条氏ではこの秀吉の裁定を受け入れるか協議しますが、結局受け入れることに決まります。15896月秀吉の使者へ書状を提出し、12月には北条氏政が上洛することを伝えます。

 北条氏からのこの書状を受けて、15897月、秀吉は、駿府にいた真田信幸に対して、上使を派遣するので沼田まで案内することを命じます。家康も家臣榊原康政を派遣し、北条氏も受け入れ準備をし、北条氏邦がこれにあたることになります。
北条氏政の上洛に関しては、領国に上洛費用を出すように命じています。

 

19、沼田裁定 

   

今回も、「小田原合戦と北条氏」(黒田基樹著 吉川弘文堂)から書きます。

 沼田裁定ですが、その内容は前の日記に書きましたが、ほぼ大河ドラマと同じです。
違うところは、真田が北条氏へ明け渡す所領の分を、徳川氏に保障させたことです。真田昌幸はドラマでは、そんなものは「イラナイ」と言っていましたが、秀吉の裁定で、徳川家康は信濃伊奈郡で替地を与えます。真田昌幸は沼田で所領を失った家臣へ対して、その土地を与えています。

 さて沼田裁定の実施ですが、秀吉はそのため上使として津田、富田氏の2名を派遣します。北条氏は鉢形城主の北条氏邦(北条氏政の弟)と北条氏忠を、徳川氏は榊原康政を派遣します。秀吉の上使と榊原康政を、駿府から現地まで案内したのは、真田信之でした。

 こうして沼田領の引き渡しは、裁定通り無事行われました。この際に北条氏政が大軍を動員して、圧力をかけたというようなことはありません。
ただ、この沼田領の2/31/3の具体的な内容は分からないようですが、沼田城は北条氏へ渡し、名胡桃城は真田氏に残されました。
 
 15899月、北条氏は受け取った沼田領の管理を沼田城の管轄として、沼田城には重臣猪俣邦憲を入れました。

 しかし113日、徳川家康の元へ沼田城主の猪俣邦憲が名胡桃城を攻め取ったという報告が、真田氏から届きます。真田氏は徳川家康の与力大名なので、まず徳川へ伝えたのでしょう。この時、当主の真田昌幸は上洛中でした。

 1120日、秀吉は北条氏政の年内の上洛が実行されず、そのうえ名胡桃城のこともあるので、来春討伐のために出陣することを決め、そのための軍役を定めた条書が発表されました。
11
24日、豊臣秀吉は北条氏直に対して有名な「宣戦布告状」を書き送ります。
この書状は北条氏へ送られただけではなく、他の諸大名にも知らせたようです。

 

  沼田城

 

20、小田原攻め 

   

NHK大河もいよいよ北条攻めが始まりました。 今回も参考は、「小田原合戦と北条氏」(黒田基樹著 吉川弘文館)です。

 NHK大河ドラマでは、真田信繁は秀吉本隊と行動を共にしています。
この戦いで、真田信繁がどのように活躍したのかは、実は良くわかりません。これは当時真田信繁が、まだ世の中に知られていない無名の存在だったことが大きいことだと思われます。

 父の真田昌幸や兄の真田信之は、前田・上杉の北国軍と行動を共にしていますので、真田信繁もこちらに参加している可能性が高いと思われます。
またドラマでは、真田昌幸は秀吉に対して不穏な動きを見せますが、そんなことはありません。徳川・北条・伊達さえも対抗できないのですから、この段階でそんな不審な動きをしたら潰されるのは自明のことです。

 真田軍と同じく信州の依田軍は、北国軍の先陣として碓氷峠に向かい、1590315日、そこで北条軍の松井田城主大道寺氏の碓氷峠の見張りの軍と戦闘が行われます。
その後、前田・上杉の軍勢が到着すると、松井田城(群馬県松井田町)を取り囲みます。

 420日大道寺政繁は開城して秀吉の北国軍に降伏します。この松井田城は北条氏の重臣大道寺氏の守る拠点の城であったため、この城の落城はこの地域の北条方に大きな影響を与えます。
この城の落城により424日ごろまでには、箕輪城、前橋城、川越城(大道寺氏の本拠の城)も秀吉方に開城することになります。
こうして西上野は秀吉軍に制圧され、5月初めごろまでには、東上野、西下野も同様に秀吉軍に制圧されます。
 
 上野・下野を制圧した北国秀吉軍は、武蔵へ南下することになります。大道寺氏は北国軍の道案内を務め、戦闘では前線に配置されることになります。

 一方秀吉本隊の東海道軍は、北条氏の箱根口の拠点の城、山中城を力攻めします。329日豊臣秀次を総大将として大軍で攻撃し、1日で落城させます。討ち取った首は千余と云われます。
この勢いに押され、足柄城や根府川城は戦わずに開城します。
伊豆の韮山城は開城せず、秀吉軍はこれを包囲しています。
 こうして4月上旬には、東海道軍は北条氏の本拠の小田原城を包囲します。

 秀吉は今回の出陣は、小田原の北条氏を攻めることだけが目的ではなく、その後は奥羽の仕置きを行い予定であり今回の出陣は長期にわたることを、妻の北政所にあてた手紙(413日)で述べています。
長期にわたる戦のため、石垣山に城を築き始め、また淀の方を呼び寄せます。

 またドラマでは、北条氏政が北条氏が上杉・徳川氏と同じように秀吉の重臣として名誉ある地位を与えられるなら、秀吉の家臣にもなろう、と話す場面がありますが、考えられません。
戦をする前ならばそのような条件提示も考えられますが、各地で戦闘が始まり、本城を包囲され援軍もないこの状態では、無理な話です。

 

小田原城  

21、北条氏の滅亡

    

6月19日放映の大河真田丸第24話は、主人公の真田信繁は大活躍していますが、そこはすべてフィクションでしょう。

 

 織田信雄や徳川家康は小牧長久手の戦の時には、北条氏と同盟をしていたので、北条氏と開城に向けて色々接触していたようです。

また、当主の北条氏直は家康の親族(娘婿)でもあります。そして家康は、豊臣秀吉の妹を妻にする豊臣家の姻族でもあります。 

 そんな理由もあり、当主の北条氏直は開城しても助命されます。

しかしその代わり、北条氏政、北条氏照(氏政の弟)、宿老の松田憲秀と大道寺政繁の4名は切腹を命じられます。

大道寺政繁は、松井田城を開城して前田・上杉の北国軍の道案内をした者です。

「小田原合戦と北条氏」(黒田基樹著)によれば、この時に北条氏政・氏直親子の助命嘆願を涙ながらに秀吉にした斯波三松は、兄弟もろとも秀吉から追放されています。

ドラマのように、北条氏政の助命などを言い出せるような状態ではなかったようです。

 

 真田昌幸はドラマの通り、徳川の与力大名を離れ、独立した大名となります。しかしそうはいっても真田信之は、今まで与力大名として徳川家に仕えていたため、今後も徳川家とは近い立場をとります。

 

 大河ドラマでは、伊達政宗が今回登場して「ずんだ餅」をついていました。

伊達家中での不穏な動きがあり、そのため彼は自分の弟を殺し、母親を追放するという大きな犠牲を払い、小田原へきて秀吉に臣従しました。

 

 なおドラマでは描かれていませんが、小田原籠城中の612日、北条氏政の母と妻、二人が揃って城内で自害しているそうです(「小田原合戦と北条氏」黒田基樹著)。

北条氏政は大きな衝撃を受けたことでしょう。

 最後に北条氏照の辞世の句をあげておきます。。

 

天地(あまつち)の清き中より生まれきて

  もとのすみかに帰るべらなり

 この句は、「戦国関東血風録」(伊東潤著)で知りました。同書は北条氏照を主人公にした書です。

 

 

22、千利休の死 

   

今日の真田丸は、千利休の切腹から番組が始まりました。

 ドラマによると、小田原城へ内密に北条氏政の説得に行った真田信繁が鉄砲の玉の原料となる鉛の塊を偶然見つけそれを持ち帰ります。
それには千利休の刻印が押してあり、利休が北条氏へそれを密かに高く売っていたことが疑われます。

 真田信繁は小田原城内から帰り、持ち帰った鉛の塊を大谷、三成に見せ、報告します。

 これによって、大谷刑部、石田三成は千利休の追い落としに取り掛かりますが、秀吉がウンと云いません。
そこで秀吉の弟、豊臣秀長に訴え、秀長から秀吉を説得してもらいます。
こうして千利休が秀吉の怒りをかい、切腹させられます。

 しかし史実的には、とても違う流れになります。

 まず、真田信繁ですが籠城している小田原城へ入り、北条氏政と会ったとするのは無理でしょう。
この話の元になったのは、大阪城内での北条氏の使者の板部岡氏との沼田問題の争論ですが、そもそもそういう事実はありません。
当然のことながら、千利休の刻印のある鉛の塊を見ることは出来ません。
そうするとその後のすべてのことは、史実とは異なることになります。
千利休が秀吉の怒りをかい、切腹させられたことだけは史実なのですが・・・・。

 千利休が切腹させられたのは、秀吉の弟豊臣秀長が亡くなったことが大きいと云われています。
 この当時、豊臣秀長と千利休は豊臣政権を支える一大ブレーンでした。しかしそれに対抗してきたのが、近江出身者の石田三成や大谷刑部などの新たな官僚でした。
この豊臣内部の主導権争いが激しくなる中、秀長が亡くなり、その後ろ盾を失った千利休が失脚したものと考えられます。
豊臣秀長が自分と親しいブレーンの千利休のことを、秀吉に悪く言うはずはないのです。

 千利休の死の原因について、「集英社版 日本の歴史11 天下一統」(熱田公著)は、「・・・・・古来種々の説があるが、たしかなことは、豊臣政権内には、石田三成を筆頭とするエリート官僚のグループと、徳川家康を筆頭に領国経営をしっかりやっていこうとするグループとの亀裂が、東国経営を機に明白になりつつあったことである。・・・・秀長の死が大きな意味を持った。利休は秀長と親しかったが、何よりも亀裂が深まった豊臣政権の前途に悲観して、自らも死を選んだのではなかろうか。」(同書P323以下引用)とあります。
どうでしょうか。

  名護屋城(佐賀県)

 

23、真田昌幸の妻山之手殿と石田三成の妻 

   

 真田昌幸の妻は山之手殿と云われ、その出自は各説あります。「真田三代軍記」(小林計一郎著 新人物往来社)によれば以下の通りになります(同書P54以下)。

@    菊亭大納言の娘

A    正親町氏の娘

B    宇田(多)頼忠の娘

C    遠山右馬之亮の娘

他の本を読むとそのほかにもあるようですが、大河ドラマでは都の公家育ちと云われていますので、@又はAを考えているのでしょう。

 

面白いのは、大河ドラマでは真田信繁の兄弟姉妹は3人で、姉の村松殿以外は女性の兄弟は登場しないのですが、他にも女性の姉妹が4人います。その一人が宇田(多)頼忠の子(甥という説もあり)頼次の妻になっています。

そして石田三成の妻は、この宇田頼次の兄弟姉妹なのです。

石田三成から見れば自分の妻の兄か弟の妻が、真田昌幸の息女になり、今の民法でいえば2親等の姻族というかなり近い親族になります。もちろん真田信之や真田信繁も親族になります。

また、真田昌幸の妻山之手殿が上に掲げたAの宇田(多)頼忠の娘であるならば、妻の妹が石田三成の妻ということになります。

このあたりは最新の研究ではどのようになっているのでしょうか。

 

24、豊臣秀吉の朝鮮出兵 

 

  (1)朝鮮出兵の始まり 

   大河の真田丸は朝鮮出兵のことをあまり取り上げていませんが、少し詳しく見てみたいと思います。

この文章は、2008年の歴史にふれる会の4回の講座、「内藤如安と秀吉の朝鮮出兵」の時の私の講義メモから書いています。講師は歴史作家の楠戸義昭氏です。
聞き違えやメモ誤りがあるかもしれません。

 秀吉の朝鮮出兵は、外国との戦争という認識が少なく、国内戦の延長と考えていた。秀吉には国際感覚がなかったが、さらに平和ボケをしていたのが当時の朝鮮でした。
文化の中心は中国にあり、日本のことを東夷だと思い、自国の儒教の高い文化を知れば、日本は攻めてくることなどないと考えていました。

 日本と朝鮮の間の対馬の宗氏は、そのことを十分理解していたので、秀吉が求めている臣下の礼などとても無理なので、正式な使節の派遣を求めました。
当時の宗氏の藩主と小西行長は親族でもあったので、小西行長に色々相談しています。

 この朝鮮の使節と秀吉は子連れで面接しますが、子連れで使節に会うことは、朝鮮では大変失礼なこととされていたようです。
帰国した朝鮮の使節は、正使が秀吉の朝鮮出兵はあると報告し、副使はないと報告しました。朝鮮王は自分に都合の良い「出兵はない」を採用します。

 しかし秀吉は、鶴松が亡くなると朝鮮へ出兵します。
先鋒は、小西行長と加藤清正軍です。
小西行長軍はキリスタン信者が多くいました。宣教師は不信神の者は罪になり異教徒は殺しても構わないという教えでした。小西軍はまさにこれを実行し、女性や子供を略奪したと云われます。
小西軍は、朝鮮で捕まえた人を奴隷として国内へ連れてきて農民の穴を埋めました。
小西軍のうち3分の一は非戦闘員で、略奪だけが目的だったと云われます。

 日本軍9軍がすべて漢城(首都)を目指します。国王は最高司令官を任命し、最高司令官は軍隊を集めますが、300名の軍隊が集まりませんでした。出撃を3日間延期して兵を集めてサンジュソンの城へ行きます。
天然の要害の城でしたが、集まった兵が少なく、小西軍の攻撃であっさり陥落します。
この知らせを国王は聞き、漢城を捨てる決意をします。祖先の地を捨てるのは、最大の恥になります。ここで国王は中国の明へ応援を要請します。
当時の朝鮮は、一部の宮廷人の他、民衆の多くは奴隷の身分でした。
宮廷人がいなくなった各地の宮殿では、奴隷が暴動をおこし自分たちの奴隷という記録を焼き払い、宮殿も燃やされたと云われます。

 (2)日本軍の朝鮮分割統治

 やはり歴史にふれる会の講座メモから書きます。

日本軍の先鋒は小西行長と加藤清正でしたが、この二人は全く異なる考えを持っていました。
加藤清正は秀吉の武力討伐の実現を、現地の武将として実行していましたが、小西行長は父が商人であっためもあり、戦を早急に終わらせ朝鮮・中国との貿易の実現を考えていました。

 第1軍の小西軍は漢城(ソウル)から、朝鮮国王の移っていた平壌を攻略します。その後第2軍の加藤軍は会寧を攻略し朝鮮の2皇子を捕虜にしますが、この時には現地の人たちの協力があったと云われます。

 日本軍は朝鮮の8道を、それぞれの軍に分け分割統治を始めます。
朝鮮から援軍の要請のあった明ですが、出兵は遅れます。その理由は日本軍と朝鮮が手を組み中国軍を攻撃するのではないかという恐れがあったためと云われます。
そのあと援軍を送った後も、朝鮮と明軍とは意思の疎通がなかなか上手くいきませんでした。

 しかし日本が日本式の分割統治を始めると、朝鮮の民衆は急激に日本から離れていき、抗日運動が起こりゲリラ活動が活発化します。
更に、李舜臣らの水軍が活躍し、日本軍の水軍は破れ、日本は制海権を失い、これにより日本からの食糧の輸送が困難となり、現地では食料危機が深刻になります。
日本軍が現地で食料を調達しようとして、さらに朝鮮の民衆は抗日運動を強めるということになります。

 秀吉の2度の朝鮮出兵で、日本軍は約75千人の損害を出したと云われますが、この大分は食糧難からくる病死・餓死でした。
NHK
大河ドラマでは、お江の2度目の夫の秀勝(?)も亡くなっています。

 やがて、明軍が戦に加わります。冬を迎える前に日本軍は漢城に集まり今後を協議します。多くの将は戦線を縮小することを考えますが、これに猛反対をしたのは小西行長でした。小西はこの頃、密かに明と接触をしていたためです。
この時に小西行長と接触した明人は沈惟敬でしたが、彼は日本語のわかる人で、しかしなかなかの曲者でした。小西の要求を聞き、本国へ皇帝の許可を得るため行くので50日間の休戦をすることにします。
しかしこれが彼の作戦で、明軍が兵を整えるための準備でした。
やがて、李如松率いる4万の明軍と1万の朝鮮軍の攻撃を平壌の小西軍は受けます。小西軍は何とか守りましたが食料庫を抑えられ、その後非常な困難の中漢城へ撤退します。わらじを履いて雪の中を食べ物もない中での撤退でした。

 

 (3)碧蹄館の戦い

 やはり歴史にふれる会の講座メモから書きます。

 平壌から退却した小西軍が漢城へ着いてしばらくすると多くの日本兵が漢城に集まります。前線に出ていた軍で部隊では加藤清正は着いてはいませんが、その数は約5万人です。

 明軍の将李如松は一気に日本軍を粉砕するため大軍を率いて南下してきます。
日本軍は小西隊を漢城に残し、先鋒を小早川隆景が率い、本隊を宇喜多秀家が率いて出撃します。 

 そして戦ったのが碧蹄館です。館とは宿場のことで、漢城(ソウル)を出発すると最初の宿場が碧蹄館です。
ここで小早川軍の中で先鋒を務めた立花宗茂が大活躍します。3000の兵で9000の明軍の攻撃を打ち破ったと云われます。
これを好機として小早川軍は明軍の本隊を攻撃し、明軍の提督の李如松を追い詰め落馬させ、あとわずかで打ち取るところまで追いつめます。

 この戦で明軍は6000人の戦死者を出して、退却します。
提督の李如松は戦意を失い、遠く平壌まで退却してしまいます。
日本軍も明軍を追撃する力はなく漢城へ戻りますが、相変わらずの食糧難は変わりません。

 明軍も日本軍の中にも厭戦気分が広がり、和平交渉が始まりますが、この和平に最後まで反対したのは朝鮮でした。
日本軍と明軍は現地司令同士で、朝鮮を抜きにして和平交渉を行います。

 この交渉は、その内容をお互いの主君に知らせないで行いました。明軍は最高司令官の許可なく交渉し、皇帝には戦は勝利したと報告します。
日本も秀吉には、戦は勝利したので、明の皇帝から戦を止めてほしいとの使者を派遣するということにしました。

 そしてその明の使者と秀吉は、名護屋で会い、停戦を命じます。
この時の明の使節の答礼師として選ばれ、明に行き皇帝に会ったのが内藤如安でした。
この時に皇帝は、金印を与え、冊封師を送る。日本は臣下の礼を取り、明と貿易をするということになります。この時内藤如安がそう言ったのかは分かりません。沈惟敬が翻訳した記録がありますが、沈が都合よく書きかえた可能性があるそうです。

 これにより明の正使が日本へ派遣されます。正使は途中で逃げ出してしまいます。沈惟敬が副使になり、そのまま日本へ来ます。
伏見大地震の後、大阪城で秀吉に会い、秀吉が日本国王に柵封されることを知り、激怒することになります。

 秀吉は交渉の責任者だった小西行長を呼び戻し、首をはねると云います。
小西は豊臣家の奉行と相談して、豊臣家のために行ったと主張します。
この時に小西行長を救ったのは、淀殿であり、前田利家も弁護しました。
秀吉はこれらの人の意見を聞き、すべての人を許しますが、明の使者はすべて捕えます。

 秀吉が激怒したことには、裏話があります。
伏見地震の時に、いち早く秀吉を救援に来たのは、罪を得ていた加藤清正でした。これにより秀吉は加藤清正の罪を許します。
加藤清正はこの時に、秀吉に自分の無実を証明するために、朝鮮の様子と小西の秀吉の意思を無視するような講和交渉のことを話しました。
明の使節と会った秀吉は、そのことをおくびにも出さないで使節と2日間会っています。
そして3日目に激怒しました。
交渉の内容が自分のメンツが立てば、ある程度良いと思っていたからではないでしょうか?朝鮮出兵の悲惨な現状をある程度想像できたのではないかとも思います。

4)日本軍の損害と朝鮮の惨状

次に日本と朝鮮の損害を見てみたいと思います。

主に参考にしたのは、「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(中野等著 吉川弘文館)と「集英社版 日本の歴史11 天下一統」(熱田公著)です。
 
 日本側の人的損害ですが、第1回目の文禄の役では、以前の日記に10万にと書きましたが、確かな数字は不明のようです。

 ルイス・フロイスの「日本史」には以下のように書いています(「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」中野等著P136)。
兵士と輸送員を含めて15万人が朝鮮に渡ったと言われてている。そのうちの3分の一にあたる5万人が死亡した。しかも敵によって殺されたものはわずかであり、大部分の者は、まったく、労苦、飢餓、疾病によって死亡したのである。朝鮮人の死亡者は知りえなかったが、死者と捕虜を含め、その数は日本人のそれとは比較にならぬほど膨大であった。ねぜなら都その他の地方に連れて行かれたものを除き、この九州にいる捕虜の数は、数えきれぬほど多いからである。
同書では、5万人の死者の他、逃亡したり、明・朝鮮軍に投降した者も1万人近くいたようであると述べている。

 また朝鮮の水が合わなかったために疾病になった者や、厳しい冬の寒さにより凍傷で手足を失う将兵も多かった。

 厳しい食糧事情は、近隣の朝鮮の村々を襲い、食料を調達することになり、そこにいる人々を殺すことにもなります。

 日本軍が、漢城へ迫った明軍を碧蹄館で破った時には、戦に先立ち、明軍への内応を恐れた日本軍は、漢城にいる朝鮮民衆を大量に虐殺しています。
後に漢城へ入った明軍は、そのあまりの惨状に声もなかったといわれます。

 このような日本軍の残虐行為は、後の2回目の慶長の役で、さらにひどくなったようです。
1回目でも行われていた、首級のかわりに行っていた耳きり鼻切も、激しくなり、鼻の数が戦功のしるしとされたため、非戦闘員の老若男女を問わず対象となり、塩つけにして軍目付から秀吉に送られました。
その数がすごく、一大名で、現存史料で2万近く、1回で1万を超す鼻の請取りがある場合があります。「集英社版 日本の歴史11 天下一統」(熱田公著)より。
2回目の時にも、日本軍は海戦で朝鮮水軍に敗れ、食料の補給に苦労します。
自分たちの兵士に食料がないとなれば、食い扶持を減らす意味でも殺された朝鮮人が多くいたことは容易に想像できます。

 こうして朝鮮は国土を蹂躙された結果、第1回目の時には、文禄2年から朝鮮は深刻な飢饉に襲われ、この飢饉は数年間継続します。なかでも文禄3年までは、飢えをしのぐために人肉を食らうという状況にまでになりました。

 

5)碧蹄館の戦いと参謀本部編「日本戦史 朝鮮役」

   

今日の紹介は「秀吉の野望と誤算」(笠谷和比古・黒田慶一共著 文英堂)からです。

 碧帝館の戦いは私の日記の「秀吉の朝鮮出兵 3」で簡単に説明していますが、同書ではその経過を書いたうえで、参謀本部編「日本戦史 朝鮮役」の記述について以下のような疑問を呈しています。

 参謀本部の「日本戦史 朝鮮役」は大正13年の刊行である。同書を閲すれば明らかなように、立花宗茂の部隊の前衛に置ける戦功は全く無視されており、逆に明の大軍の攻撃を受けて支えきれず、立花隊が正に崩れかかろうとした時に小早川隆景の部隊が到着し、小早川隊の先鋒が代って前線に出て明軍と渡り合ったとするのである。
これは前述の通り、日韓双方の諸種の史料から見て、小早川隊の到着の前に、立花宗茂が独自の兵力をもって著しい戦功を戦功を立てていることは疑いの余地のないところである。

 それゆえに、参謀本篇「日本戦史」がそれら諸種の史料を全く無視して、小早川隆景の率いる毛利勢にその功績を帰するような叙述をしているのは、意図的ではないかと見なされても致し方ないであろう。
すなわち近代日本陸軍における山県有朋ー桂太郎のラインに連なる長州閥の意向が、このような偏頗な叙述態度をとらせたのではないかとする疑念である。

 「日本戦史」の叙述は、一般的には第一次史料に忠実に基づく厳正な態度を持しており、今日でもなお高い信頼性を保ち続けているだけに、本箇所のような叙述は遺憾にして、同書にとってまことに惜しまれるところである。

 (以上上の3段の文は、同書P5960からの引用です。)

 参謀本部編「日本戦史」は明治末年から大正年間にまとめられたものです。

 

 肥前名護屋城

 

25、関ヶ原前の出来ごと 

  

 (1)、徳川家康の私婚問題

大河ドラマ真田丸では関ヶ原合戦前の徳川家康と石田三成との確執を描いています。 

 その一つに徳川家康の私婚問題があります。これは徳川家康と伊達政宗、福島正則、蜂須賀家政の3大名との間の婚姻の密約です。当時は婚姻は同盟の締結を意味していたので、秀吉の生前に取り交わした誓詞の禁止事項でした。

大老筆頭の家康が、自らこれを破ったことが問題になり、それを問いただすべく大坂から3中老が糾問使として伏見の家康の屋敷へ派遣されます。

 

 ところが家康に心寄せる豊臣系武将の加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田如水・長政、池田輝政等が家康の屋敷へ集まり、守りを固め伏見は騒然とします。

  結果的には、この家康の政治力と軍事力の前に大坂の5奉行と他の大老は屈服することになり、5奉行は家康に詫びを入れることになります。

 以上がこれまで云われてきたことを簡記したのもです(参考「関ヶ原合戦と大坂の陣」(笠谷和比古著 吉川弘文堂)。

 

 しかし以下は、敬愛大学主催講座「真田と関ヶ原・大坂の陣」渡邊大門講師から聴いた話で、やや様子が異なります。

まずこの時の「3中老」(中村一氏・生駒親正・堀尾吉晴)は、一次史料には出ていないので、「中老」というものはなかったと考える人が多数説となっているそうです。

また5奉行が家康へ詫びを入れたのではなく、家康が詫びを入れて、私婚については不問に付すことで決着が図られたのではないかと思われるそうです。

 

  

 (2)、豊臣七将の石田三成襲撃事件

豊臣家の武功派と官僚派との対立として知られるタイトルの事件ですが、「関ヶ原合戦と大坂の陣」(笠谷和比古著 吉川弘文館)から、簡単に見ていきます。

 

 その対立が決定的となったのが、やはり朝鮮出兵でした。2度目の慶長の役の時、蔚山籠城戦とその後の処置を巡り対立は深刻化していきます。

 

 加藤清正・浅野幸長が守る蔚山城は、明・朝鮮軍の5万の大軍によって攻撃を受けます。蔚山城は兵糧の準備がなく極寒の中で飢餓状態でした。

釜山からの援軍により、蔚山城の加藤・浅野軍はどうにか九死に一生を得助け出されます。

 

 現地の武将たちは、その後合議して戦線縮小を計ります。これは秀吉の意向とは相容れないものでした。

この動きは石田三成派の目付けの知るところとなり、秀吉に報告され、秀吉から弾圧されます。

蜂須賀家政・黒田長政は謹慎敬蟄居の上、領地の一部没収、加藤清正・藤堂高虎など同調した者がすべて譴責処分を受けました。

これがやがて三成襲撃事件となっていきました。

 

 前田利家が亡くなると、黒田長政・蜂須賀家政・加藤清正・浅野幸長・福島正則・藤堂高虎・細川忠興の七名の武将は、大坂で三成を討つべく、軍勢を動員しました。

石田三成はこの動きを察知して大坂を逃れ、伏見城内にある自己の屋敷へ立て籠もりました。そして三成を追って伏見城に来た七将の軍勢と睨み合いになりました。

 

 この時石田三成は、徳川家康の屋敷へ逃げ込んだという小説や歴史書もありますが、今ではそれは否定されています。その理由については、同書のP17以下に書いてあります。

また、大河ドラマのように真田家の信之と信繁が、「これ以上是非にもというならば、真田家との大名同士の戦争になりますがいかが!」等という話も当然になかったと思います。

 

 この事件は徳川家康が仲裁して、決着します。

それから10日後に五大老連名で、蜂須賀家政と黒田長政に対して、文書が発給されています。

それによれば、蔚山籠城戦での救援について、秀吉から受けた処分は正当ではないので、その時に没収した領地は両人へ返還するとあります。

 

 この文書によって、三成襲撃事件が朝鮮の役の蔚山城籠城戦をめぐるもので、七将のうちでもこの二名が、中心人物だったことが分かります。

 

 

 (3)、直江状の真偽

   

大河ドラマ真田丸でも「直江状」を読んで、徳川家康が激怒していました。

この「直江状」は御承知のとおり、上杉家の重臣直江兼続が家康の侍僧西笑承兌にたいして長文の返書をしたため、景勝の上洛不可の理由を述べたものです。

  

 「直江状」は以前より、その真偽が議論となっており、大きく分けると、

1、直江兼続が書いたものである。

2、後世の作り物である。

3、直江兼続が書いたものに、一部書き加えたものである。

という3節があります。 

 当時はコピーや写真がありませんので、国元や藩主・重臣へ報告したい場合には、その手紙を見せてもらい、書き写します。又は書き写した手紙を、さらに書き写す場合もあります。それから更にその手紙を念のため書き写して、自分の家に保存する場合もあります。

このような時に、自分で注書や説明文を入れたり、自藩にあまり関係のないところを、一部省略したりすることは結構あるそうです。 

 この文章の真偽について、「関ヶ原合戦と大坂の陣」(笠谷和比古著 吉川弘文堂」P28以下により、著者の考えを簡単に書きます。

 

 「直江状」についてはその過激な文言のゆえに偽書と見なす見解が根強い。特にその追って書き(同書では「追而書」と記す)は、家康・秀忠の討伐出陣を待ち受け、その折に万事の決着をつける旨が見られるものがあり、このやや芝居じみた文言の故をもって後代の偽作と断じる向きも多かった。 

 しかし著者の調べたところ、この追って書きは記されていない文書もあり、「朝野旧聞ホウ藁」所収の直江状にも、この文言は見られない。

すなわち、追って書きは、これのみが後代の別人によって補入改竄された可能性があるということである。

そしてこの追って書きの部分を除いてみた場合、直江状はそれほど違和感のある文書ではない。むしろ当時の雰囲気に良く合致している。

 また、直江状を見て家康が激怒したという事実があり、増田ら3奉行が「田舎者」の言葉使いゆえ、これをうち捨てにするよう家康をなだめている事実がある。

  これらの事実を引き比べてみるならば、この激越な言葉を含んだ直江状は実在していたと捉える方が妥当であるし、他の事実との整合性の観点においても有効であると判断しうるのである。

  

  会津若松城

 

 

 (4)、石田三成の挙兵と小山評定

    

「関ヶ原合戦と大坂の陣」(笠谷和比古著 吉川弘文館)から、石田三成の挙兵と小山評定を簡単に書きます(同書P3150)。

1
、三成の挙兵の2段階


 第1段階は、石田三成と大谷吉継の両名だけの決起であり、淀殿にも豊臣奉行集にも何の相談もなく事情説明もなされていない。
この段階では豊臣奉行集は、この突発した事態に狼狽し、会津途中の徳川家康や、国元にいる毛利輝元の両名に対して、急ぎ上洛して上方の仕置きを執り行ってくれるよう要請している(712日付文書)。

 第2段階は、石田三成と大谷吉継から大坂城の前田玄以・増田長盛・長束正家の3奉行に対して説得工作が試みられ、豊臣奉行集が一致してこの計画に同調した段階である。
その結果、717日付を以て「内府違いの条々」が、豊臣3奉行の連盟の添え状を以て発給されたのである。

 毛利輝元は3奉行の要請にこたえる形で716日夜には大坂城に入り、三成方の面々は相談して彼を全軍の総大将とします。

2
、小山評定


 家康は724日小山へ到着した。そこへ伏見城を守る鳥居元忠からの使者が到着し、伏見城が伏見城が石田方の軍勢によって包囲されたことを知ります。
そこで家康は翌25日、全軍を招集し上方の状況に関する評定を開きます。
この評定で会津征討をいったん中止して、上方の石田勢をたたくことを第1とすることを決めます。

 ここで検討すべきは、小山評定へ参加した各諸将は、上方の現状認識はどこまでの情報を入手していたのかという問題である。
 具体的には1の三成の挙兵の第1段階までを知って決めたのか、それとも第2段階までを知った上で決めたのかということです。

 結論的にいうならば、小山評定の時点では、この「内府違いの条々」は家康ら一行の元には届いておらず、三成の挙兵には大阪の奉行集が同調し、豊臣秀頼の恩為を呼号しつつ家康追討を諸国に宣布しているという事実は知らないままに評定は開始され、家康と従軍の諸将は、今回の騒乱は三成と大谷吉継たちだけによる反家康挙兵という認識の元に議論が進められていたのである。

 家康がこの小山評定の直後に出した最上義光宛の手紙や榊原康政の秋田氏へ対する手紙をみても、そこのことがうかがえる。
 家康が豊臣3奉行も三成の挙兵に同調していることを知ったのは、729日ごろのこと思われる。

 

 (5)、小山評定と犬伏の分かれ

  小山評定を書いている時、犬伏の別れとの時間差が気になりました。

 犬伏の別れは皆さんご存知の通り、真田昌幸が石田三成から送られた密書を見て、真田家が今後どのようにすべきかを、息子の真田信之、真田信繁の3人で話し合い、昌幸と信繁は石田方に味方し、真田信之は徳川家の上杉討伐にそのまま従い、徳川家に味方するというのもです。

 この犬伏の別れのもととなった3人の話し合いは、721日に行われています。
「真田三代軍記」(小林計一郎著 新人物往来社)によれば、石田三成からの密書は、717日付の豊臣氏の3奉行の連署状であった、とあります。

 三成と真田昌幸は親せきでもあるので、その関係で他の大名よりは多少早く使者を派遣したことも考えられますが、それも717日よりも前ではないと思います。
同書では真田昌幸は、このような大事を三成が今まで打ち明けてくれなかったことを怒ったとあります。

 真田昌幸が、717日付の豊臣氏の3奉行の連署状を721日に知ることが出来たならば、小山評定のあった725日には、家康と行動を共にしていた諸将が誰もこのことを知らなかったと考えるのは、不自然だと思いますが、どうでしょうか?

 問題点としては、
1
、犬伏の別れの相談が721日なのか
2
、小山評定は725日なのか
3
、豊臣3奉行の連著状の作成が717日で、会津攻めに参加した武将へも送られたのか
があります。

 さらにこの時に引き返したのは、真田昌幸親子だけというのも重要だと思います。
司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」では、美濃の大名田丸直昌も引き返しているようですが、「戦国武将岩村城主 田丸直昌と北畠・田丸氏の歴史」(田丸辻郎著 岩村町教育委員会)を読むと、田丸直昌は小山評定に参加していないようです。

  小山評定の碑

 

26、徳川秀忠の上田城攻め 

   

「関ヶ原合戦と大坂の陣」(笠谷和比古著 吉川弘文館)から、タイトルの戦いを簡単に見ていきます。

 

 824日、徳川秀忠が38000の大軍を率い中山道を通って西上の途につきます。なぜ中山道を通ったかについては、当時の秀忠の手紙によれば、上田城主真田昌幸の西軍を制圧するためです。上田侵攻は小山評定によって策定された既定の作戦でした。

 

 秀忠の率いる徳川部隊は、徳川譜代の主要な武将の大半が含まれる徳川主力部隊でした。

それに対して家康の率いる3万余の部隊は、家康の本陣を守備する旗本部隊であり、本来的に防御的な性格のものであった。

 

 秀忠の軍は92日に小諸ヘ着陣し、真田昌幸へ対し東軍へ着くよう勧告した。これに対して昌幸は皆と相談するとして2日間の時間を稼いだ。

95日秀忠は染谷の高地へ入り、上田城を見下ろす位置に布陣し、真田信之へ伊勢崎山城(大河ドラマでは戸石城となっていました)攻撃を命じます。そこを守る信繁は兄弟争うことを避け、上田城へ入ります。

 

 96日秀忠は上田城外の苅田を行いますが、この時に見回りをしていた真田昌幸・信繁と遭遇し、真田親子は上田城へ逃げ込みます。これに徴発された徳川軍は上田城へ攻めかかります。

しかし真田昌幸の応戦は巧妙を極め、徳川軍は大きな損害を出してしまいます。

 

 秀忠の軍はいったん兵を引き、9日小諸まで撤退します。

この頃に徳川家康から、急ぎ西上して家康と合流するようにとの手紙が届きます。既定路線の急な変更です。

この手紙は829日家康の江戸出発の直前に、使者大久保忠益が使わされたのであるが、川留めなどに妨げられようやく99に秀忠の元へ届いたのである。

秀忠の軍は真田制圧の目途が全く立っていない時のことであるので、この急な作戦変更に戸惑ったことは云うまでもありません。

 

 3万余の大軍を狭隘な中山道で展開する困難さと、場合によっては真田の追撃をも考えなければならないこともあり、秀忠軍の動きは緩慢になりました。

最終的には、秀忠は自ら最小限の供回りだけを連れて、疾駆西上するのである。これはきわめて危険な行為である。

 

 秀忠軍の関ヶ原への遅参は、徳川軍の勢力温存を仕組んだ徳川家康の深謀遠慮であるという説があるが、誤りである。

もし勢力温存を図るなら、上田城を気長に包囲していれば良いだけのことである。

 

 

27、西軍の総大将毛利輝元の行動 

  

 石田三成と大谷吉継が徳川家康打倒の計画を企画した比較的早い段階で、安国寺恵瓊は二人から計画を告げられ賛同します。そして毛利輝元に総大将になってもらうため、広島へ帰っていた毛利輝元を説得し、了解を取り付けます。これにより毛利輝元は大軍を率い船で大坂へ行き、大坂城へ入城します。

 

 関ヶ原の合戦当日、毛利輝元は豊臣秀頼を守り大坂城へいましたが、毛利軍は養子の毛利秀元が率い関ヶ原の南宮山へ布陣し、その先鋒は吉川広家でした。

毛利秀元は毛利元就の4男の子で、吉川広家は2男吉川元春の子で二人とも毛利元就の孫になります。

ところがこの吉川広家は2度の朝鮮出兵の際では、加藤清正や黒田長政等の武将派と中が良く石田三成とは上手くいきませんでした。また黒田長政の父の黒田如水を尊敬していたこともあり、特に黒田長政とはたびたび接触し、今回の合戦は徳川家康へ味方すべきと考えていました。広島で安国寺恵瓊が毛利輝元を説得に来た時に、激しく議論したと云われます。そこで、黒田長政を通じて毛利家は東軍へ味方するので、毛利家の所領はそのままにするという約束を徳川家康と交わします。そしてこの密約は、毛利軍を率いた毛利秀元や毛利輝元にも内密にされたようです。

 

 関ヶ原の合戦当日、この密約より南宮山の毛利軍は戦うことなく、やはりその隣にいた西軍の長宗我部軍も、それを見て戦うことなく戦を見ていました。こうして関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍が勝利を収めます。

 

   

 徳川家康にとっては、大坂城にいて豊臣秀頼を守っている毛利輝元は厄介な存在になっていました。大坂城には毛利秀元をはじめ、関ヶ原の戦いに間に合わなかった立花宗茂や戦場から離脱した島津義久等が豊臣秀頼を担いで大坂城へ籠城して徳川軍と戦うことを求めたからです。

もしこのようになった場合、豊臣の恩顧の大名たちの去就はどのようになったのか、そのまま大坂城を攻め得たのかどうかは分かりません。

 

 しかし毛利輝元は徳川家康の要請に応じ、実にあっさりと大坂城から退去をしました。その訳は、毛利輝元の身の安全と毛利家領国には一切手を触れないという家康方からの誓約を受けてのことであった。しかし実際には、皆さん御承知のように、これは守られませんでした。

その理由は、毛利輝元は今回の一件では、事情を知らずに単に盟主に祭り上げられたためという前提条件があったのです。しかし家康が大坂城へ入城してみると、毛利輝元が今回の企てに積極的に関与したことを証明する廻状や、輝元の花押が記された証拠が次々に見つかったためです。

輝元を大坂城から退去させるために、実に多くの人物によって提出された誓詞は、これによりことごとく破棄されてしまいました。

 輝元に対する処置は改易であり、毛利領国の没収でした。毛利輝元はこの処分を聞いた時は、家康から騙されたと思ったことでしょう。そして吉川広家に対しては内応の功に免じて毛利の2か国を賜うことになったのである。これにより吉川広家は自分に与えられた2か国を毛利輝元に与え、毛利家の社稷が存続することを願い、許されます。上の2段の文章は「関ヶ原合戦と大坂の陣」(笠谷和比古著 吉川弘文堂)のP145毛利輝元の大坂退城の項より書きました。

 

 関ヶ原合戦後は、毛利秀元と吉川広家は仲が悪かったと云われます。毛利秀元は関ヶ原の南宮山に陣した時に何度も吉川広家に西軍として出撃するように使いを出しますが、東軍に寝返っていた吉川広家はこれをことごとく無視し、最後は今弁当を食べているので出撃できないなどと理由にもならないことで言い訳します。

毛利秀元はあの時出撃していたら、後の徳川幕府の成立は無く、毛利家はもっと大国となって名誉ある地位についていたと思えるからでしょう。対して吉川広家にしてみれば、自分の家を犠牲にして毛利本家を救ったのは自分だとの思いがあったのでしょう。

毛利秀元は毛利輝元の養子になり毛利本家を継ぐ予定でしたが、後に毛利輝元に実子が出来ると身を引きます。後には長府藩の祖となります。

 

28、真田昌幸九度山に没す 

   

 「真田三代軍記」(小林計一郎著 新人物往来社)から、真田昌幸の亡くなった頃を簡単に書きます。

 

 真田昌幸は九度山に配流になりそこで暮らし始めますが、家来もいて生活は苦しかったようです。昌幸の国元への手紙はほとんど必ず金の無心が書かれていました。昌幸は九度山で赦免のある日を一日千秋の思いで待っていたようです。しかしその期待にも関わらず、家康は昌幸を許しませんでした。そしてそのうち昌幸は病気になり、気力も失せていったようです。困窮する生活、病気の中でさびしい生活を送ったというのが実情だと思われます。

こうして昌幸は慶長16年(161164日九度山で亡くなります。

大河ドラマでは、武田信玄が亡くなる時に現れ、昌幸は「お館様」と叫びましたが、どうでしょうか。

 

 「真説・智謀の一族 真田三代」(三池純正著 洋泉社新書)には、高野山蓮華定院には、秀吉の供養として、昌幸が寄進した秀吉の肖像画が残っているそうです。昌幸が真田の夢をかなえてくれた亡き主君秀吉を、流罪の地でも最後まで忘れなかったのは事実であろうと、書いています(同書P235)。

この昌幸の葬儀をねんごろに弔いたいと思った信之は、本多正信へ相談したが、正信は「公儀にはばかる人なので家康の意向を聞いてやりなさいと答えたそうです。葬儀も自由に出来なかったことが分かります。

 

 昌幸に随行して高野山へ行った家来たちが昌幸が亡くなった後に、真田へ帰国した時には信之は、その一人一人に書状を与えて亡父への奉公の功を賞し、知行を与えて家臣団に復帰させている。

 

大河ドラマで何人かの人が亡くなっていましたので、参考までに関ヶ原の合戦後、昌幸の亡くなった1611年までに亡くなった主な武将を書きます。「戦国武将合戦事典」(峰岸純夫・片桐明彦編 吉川弘文館)を基に書いています。

 

160221日  井伊直政(42歳) 徳川四天王の一人 関ヶ原で受けた傷が悪化して。

     1018日 小早川秀秋(21歳) 病死

1604320日 黒田如水(59歳) 

1605920日 山内一豊(61歳) 

1606514日 榊原康政(59歳) 徳川四天王の一人

1607年閏48日 結城秀康(34歳) 家康の二男 関ヶ原では上杉に備えて宇都宮を守る

160963日  板部岡江雪(74歳) 小田原北条氏の武将、その後家康のお伽衆

16101018日 本多忠勝(63歳) 徳川四天王の一人、真田信之の妻の父

161147日  浅野長政(65歳) 早くから秀吉に仕える

     64日  真田昌幸(67歳)

     624日 加藤清正(49歳) 病死

   

 

 

 

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