関ヶ原と上杉家


 この文章もパソコン通信のニフティの戦国会議室に載せた文章です。相手の意見に対するレス(返事)になっているものを載せていますので、ちょっと読みにくいかも知れません。少しは書き直したのですが・・・・・・。(^^ゞ

関ヶ原前の上杉家の動きと神指城) 

 関ヶ原の前の上杉家は何もしなかったのか?単に理由もない家康のでっち上げだったのか?

 私は、でっち上げのために、関ヶ原後石高が4分の1に減らされることはなかったと思っています。

 しかしこの神指城の築城が、よく分かりません。(;_;)

本気で家康と戦う気ならば、その時に神指城のような大規模な城の新築は行っている余裕が有ったのかどうか?

上杉景勝は会津へ帰国する時には、家康にキチンとことわり了解されていますので、この時点では、家康と正面から戦うとは思っていなかったのではないでしょうか。

そうすると、石田三成との共同での東西挟み撃ち説もあやしくなります。共同作戦の場合には事前に打ち合わせをしているでしょうから、家康との戦いが前提にあるとすれば、大規模な城の築城は後回しになると思います。

 関ヶ原の西軍の築城については知りませんが、いわゆる野戦築城で陣城の一種だったのではないでしょうか?籠城戦を想定したものだとすれば、規模は仰るようにかなり大がかりだとは思うのですが・・・・・・・。

神指城の場合は、会津若松城から居城を移すためだったと思っています。

どのような理由があったのかは知りませんが、神指城の規模はかなり大きく、三の丸までの計画があったそうですが、それを入れると会津若松城よりも、多少大きくなる(?)という話だったように思います。

神指城の城跡の写真を見ますと、ほぼ単純な正方形に近い長方形です。

 

 神指城の築城には、2万人の人(本によっては6万人もあります)を動員して築城したのですが、結局完成しないままに放棄されたようです。詳しいことは知りませんが、本丸などの建築物は造ったのでしょうか?それとも、2の丸までの土木工事だけだったような気がします。

ただ、規模が同じくらいだとすれば会津若松城も堅固な城であったことは、後年幕末の攻城戦で証明されていますので、わざわざもう一つの城を造る必要性があったのでしょうか?

 小説などでは、この時上杉軍は籠城策は採らずに、野戦での決戦を採用し、白河南方を想定戦場としているようです。家康と戦うのが前提なら、このような大規模な城をあの時に造るだろうかというのが、単純な疑問としてあります。

 会津若松城には小田山という弱点があったので、それを嫌ったのではないかと云うことを考える人もいます。

 確かに戊辰戦争の際には、小田山からのアームストロング砲には、かなり苦しめられたようです。

しかしそれは幕末のことですから、移転しようとしてから250年以上も絶っています。(^^

当時大砲の威力が、あれほど増すとは誰も想像できなかったでしょう。とすればそれほどの弱点だったのでしょうか?

その大砲をもってしても、落ちなかったのですから・・・・。一説によると、トイレなどの衛生設備が悪くて、籠城は限界だったというのもありますね。(^^

 「会津若松城」(斉藤光男著 近代文芸社刊)を見てみましたら、若松城を1の城、神指城を2の城として、若松城下で家康の大軍を迎え撃つためと書いてあります。両城に大兵を置き、野戦兵とも互いに連絡を取り合い、敵軍を有機的に攻撃する為に2の城を築いたとあります。

・・・・しかし何となく疑問です。 (@_@) 自分の居城まで攻められるようになっては、勝ち目が薄いと認識され、将兵の志気にも係わります。 

戦闘のために、こんな大規模の城を近くに二つも造る例が、他にあるのだろうか?

 神指城の2の丸は、長い方で直線距離にして528メートルですから、4〜5キロは外堀の位置よりはかなりあります。

天下人の城や小田原城のように町全体を総構えで囲んだ場合は、直線距離でそのくらいになるかもしれません。

 動員人数ですが、「会津若松史跡めぐり」(歴春ブックレット)を見たところ、神指城の為の人夫は8万人(12万人)とありました。

書く都度増えていきますね。次回はいったい何人になっているのやら(笑)。山形県の庄内地方や佐渡からなど、領内全ての地域から広く集めたようです。そんなに動員できる人がいたのかな?という疑問は残りますね。

また、提灯土塁の名前が残っていることから、夜間も工事を行ったようです。工事を相当急いでいたことがわかりますが、やはり原因は家康との関係悪化でしょうね。 

 秀吉が死んで、世の中はこのままでは終わらない。何か起こるに違いない。その場合に備えよう。こういう風に考えた大名は多かっただろうと思います。

時代は戦国で、少し前に信長の死によって、織田家が急速に力を無くしたのを皆知っています。

誰が「核」となるのかは分かりませんが、その時までに力を付けておこうと思うのは当然かもしれません。

 当時上杉は、領国経営のために帰国する際に、神指城の築城については、江戸にいた秀忠に届けている(知らせている)そうです。

ハッキリ乱れると確信していたのなら、帰国せずに京大阪に残っているのも一つの方法かも知れません。

もっとも、景勝には政治力はあまりなさそうですから、自らの影響力は大きくないでしょうから、結局家康に丸め込まれてしまいそうですが・・・。

 

 家康は豊臣家の筆頭家老としての立場を利用して、前田を標的にして見たり等と色々やりますが、家康の上手いところですね。

大河の「葵三代」でも、津川家康はなかなかのやり手になっています。(^-^)

 もし関ヶ原の時に、佐竹と組んで追い打ちする姿勢を見せたら、どうなっていたでしょうか?家康は、もっと長く江戸に居続けることになります。

以前にもこの会議室で話が出ましたが、何故上杉は退いたのでしょうか?よく分かりません?


(石田三成と上杉家は関ヶ原の前に事前に相談していたのか?)

  事前に二人(直江と石田)は、相談して東西挟み撃ちを決めたという説もありますが、私は神指城の築城があるので、天下を相手の戦をする気は少なかったのではないかと思っています。

黄太郎さんが前に言われた、世の中が再び乱れても対応できるようにしたいということでの領国整備の一環だったのでしょう。

 上杉家は徳川家康を甘く見ていたのではないか?そういう意味では家康を「見誤った」のではないか?と言う人もいます。

 そういう意味では、見誤った人はその他にもいそうです。西軍についた人は多かったでしょう。もっとも豊臣サイドから言わせると、家康を「見誤った」というより「見損なった」となる人も多そうですが・・・・。(^^

力の強いものが治めるのが妥当との認識が、その時代には普通に考えられていたのではないでしょうか。

 真田家が西軍につくことにしたのは、会津へ向かう徳川軍に合流する前ではなかったでしょうか? テレビの時代劇の影響かも知れませんが、三成からの密使が来て挙兵を知らせます。そこで真田親子3人は相談し、真田昌幸と幸村は西軍につくことに決して引き返します。

真田昌幸が小山会談で「我らは秀頼様につきます」と言ったら、どうなっていたでしょうか?(考えると面白い)(^^

小山会談では、家康がいずれにつくかは各大名に任せると言っても、はい西軍につきますとなかなか帰れないですね。ましてこの時には、福島正則が真っ先に徳川につくと言う会議の流れがありますから尚更でしょう。

 結局、会議の場から西軍へつくとして帰ったのは誰もいません。如何に難しかったのか。しかし美濃岩村の田丸忠昌だけは江戸へ行ってから家康へ断り西軍へ付いています。司馬氏の「関ヶ原」に書いてある話ですが・・・・。

 田村氏は1599年信州の川中島から美濃の岩村城へ入り、関ヶ原で西軍へ味方して改易となったそうです。

小説ですが、小山会議では大勢の赴くままに、家康に味方すると言い小山から引き返しますが、品川で兵を止め、自分自身が江戸へ戻り、西軍に味方する旨徳川へ届けています。

やはり、会議の席上で、一人反対意見を言うのは難しいです。西軍につく理由としては、田丸忠昌は晩年は秀吉の御伽衆の一人だったそうで、太閤殿下から多くのご恩を頂いたために、西軍へつくしかないと言っています。そうすると、この戦いが、徳川対上杉・石田ではなく、結果的には、豊臣対徳川となることが分かっていたことになります。東軍の他の大名もそれは分かっていたが、口にしなかったのでしょうか?

ちなみに、「関ヶ原」司馬遼太郎著では、戦の後は領地没収となったが、命は助けられ越後へ追放され、その後には赦免されているそうです。 





(三成と直江状)

  ちょっと直江状のことが気になりましたので、本を見てみました。やはり信憑性については、「あり」「なし」の二つの説があるようです。

結論だけ読んで中味はまだですが、歴史読本「闘将直江兼続」(19988月号)では、題名もズバリ「直江状の信憑性」(宮本義己著)ということで、結論は当時の偽作か改竄であろうと言っています。

一方「正伝 直江兼続 別篇関ヶ原戦縦横」(渡邊三省著)は、偽文書説の問題点を取り上げて、偽文書の証拠にはなり得ないとしています。

 しかし家康の元で、上杉征伐軍は組織され会津へ目指します。上洛を拒否し、釈明もしないと言うことは、結果的には天下の兵を相手にすることを覚悟していると思うのですが・・・。

何せ上杉の前に、徳川が問題にした前田家の場合は、重臣を弁明のために上京させ必死の弁明をするほか、仲の良い大名からも頼み込みます。そうした上で、更に母を江戸へ人質にすることで、ようやく事なきを得ました。

以上のことは上杉でも知っていたでしょう。しかしその割には、上杉家は何らそういったことをしていないように思います。

私は、これは、相手が来るなら戦うことを決心していたからだと思っています。上杉景勝の言い分、徳川だって同じ五大老同士じゃない。(^o^)

 上杉帰国は、家康の薦めもあってしたものですから、この時点では特に徳川と上杉の関係が悪かったとも思っていません。また、秀忠からは帰国の際には江戸に立ち寄って頂きたいとの手紙もあったようです。

また、帰国してからは領国の政治向きの報告を家康にしており、家康も特に異議を唱えてはいません。

 しかしながら、上杉景勝は家康のことを良く思っていなかっただろうと思います。

 家康が軍隊を率いて出発したのであれば、一般的には言い逃れは遅すぎるのではないでしょうか。上杉の家臣の藤田信吉も景勝の基を出奔して、家康に謀反を告げています。

また、徳川との戦も覚悟しているだろうと思うのは、常陸の佐竹とも意を通じているようなことや、旧領の越後でも一揆を起こしていることなどがあります。

 私自身は景勝は、帰国の際には世の中が乱れても大丈夫なように領国経営をしっかりしようと思っていたが、徳川からの上洛要請を断った段階では、徳川との戦も辞さずと云うところだったように思っています。

参考「正伝 直江兼続」渡邊三省著 恒文社

 上杉家が家康の求める上洛を断ったのは、どのような理由があったのか? 又なぜそれが出来ると考えたのかが難しいところです。

上杉家は会津まで攻めてくるのは、徳川軍と親徳川派だけであろうと考えていたように思います。前年の夏から年末にかけて、上杉、前田、毛利等の大名が帰国しますが、これは家康の積極的な薦めもあるようです。

家康はこれらの大大名を、伏見や大阪から追い出して自分が政治の実権を握る為だろうと思います。

しかしながら自分が勧めておきながら、僅かの期間でまた戻って来いというのは、あまりにも虫が良すぎます。そうであれば、家康の独断で会津攻めを行うことになりますので、それに従う大名も限られてくると認識していたのではないでしょうか? 

それであれば、上杉だけでも対応は可能であり、佐竹と話がつけば、十分勝ち目もあると思っていた。ちょっと無理があるかも・・・・・・・。(^^ゞ 

しかしながら、実際のところは親豊臣派の大名が、内政派と武官派とで根深い対立があり、それを上手く利用したため、上杉攻めには多くの大名が集まりますが・・・・・。(^^

 豊臣家に対する謀反というのは、どちらかといえば、家康のごり押しだったのと違いますか?

直ぐに軍隊を動かすと言っていたのが、奉行達に反対されて上杉の言い分を聞こうというので、使者を送ったのではないでしょうか?家康のごり押しを止める力はまだ制度としては残っていて、景勝はそれを、より信じていた。

実際に石田三成等が、反徳川の旗を揚げる際には、家康の内府違いの状(?)を書いています。

この時には豊臣家が二つに割れていました。内政派は三成を初めとする豊臣政権の中では、主に内政を担当していた人たちで、武官派は福島・加藤など主に戦闘で名を上げ働いた人たちの意味で書きました。

ねね(おね)と淀君、尾張と近江等でも捉えられていると思います。

三成派と反三成派といった方が正確かも知れませんが、西軍についた人が皆三成と仲が良かったのかどうか分かりません。

ただ、前にも書きましたが、小山会議の後に、豊臣家から沢山の恩を受けたといって、西軍に味方した大名もいます。結果的に、この戦いが豊臣家に謀反をたくらむ上杉家を征伐する戦ではない、ということを理解していたからそういう行動をしたのだと思います。

 

 唐突ですが、戦国の世は太閤の時代で終わった、と認識していた人と、まだまだ戦国の世は終わっていない、と認識していた人の違いもあるのかも知れませんね。

 以下妄想モードです。(^^

三成は、戦乱の世は太閤によって終わりを告げたのだから、豊臣家を中心としたこれまでの政治を続けて行くべきだと思っていたのに対して、家康は、太閤によって日本が統一されたとはいえ、まだまだ世の中は不安定であり秀頼ではまとまらない、どうしても力のある者が政治を見なければならないとの思いがあったのでしょう。そして、この家康の思いは、当時の多くの戦国大名にも受け入れられる考えだったような気がします。何より秀吉が、織田家の相続で三法師を立てますが、実権は自分が握り、そのようにしているということもあります。

 家康が、三成を佐和山へ蟄居させた後に、伏見城の西の丸へ移りますが、「家康殿が天下人になった」と日記に書かれていますので、世の人々の中でもそう思った人も多かったのでしょう。

 三成が関西で立ち上がった時に、軍を直ぐに引き返します。豊臣家からの命令で上杉征伐に行ったのなら、その取り消し命令があってから、中止と云うことになると思いますが、そのようなことはしていませんね。任されたことは、上杉の征伐であり、三成征伐ではありません。

しかしながら、家康は自分の判断で、勝手に三成を遠征軍共同の敵にしてしまっています。

 相手の三成にしても、正当性は三成にこそあり家康にはないと、認識していたでしょう。だから大阪城に入って、増田等の奉行達と家康の非を書いた檄文を諸大名に出しています。つまり三成は、家康を豊臣家の敵としてとしています。

 

 前田利家が亡くなった後、福島正則等に命を狙われたときに、三成は家康の元へ逃げ込むのですが、まさに事実は小説よりも奇なりと云う感じがします。家康も自分に対して兵を挙げるのは、三成しかいないので、佐和山まで無事に送り届けます。

上杉だけではどうしてもダメなんでしょうね。


三成が家康の屋敷へ逃げ込んだ話は、創り話しという説もあります。

家康が三成を殺してしまっていたら・・・、また七将へ引き渡していたら・・・。三成はどういう見込みがあって家康の所へ行ったのだろうか・・・等です。

更に仰るように、豊臣が三成を支持したら・・・・。この場合は、関ヶ原で負けても大阪城で再起できます。

結局三成を支持しなかったと云うことは、豊臣家では三成では家康には勝てないだろうと思っていたのでしょう。それならば、危ない橋を渡ることもない。徳川が勝っても、豊臣家の重しは今とそう変わらないのではないかと云う認識が多かったのだと思います。

三成が殺されるときには、豊臣家はまだ安泰だと思って、三成自身は多少は気が楽だったのでしょうか?それとも近い将来、滅亡してしまうと思っていたのでしょうか(自分のような忠臣はいないと悲観していた)?

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