写真で見る河井継之助 1

 写真で河井継之助と北越戊辰戦争の足跡を見て回ります。文章は、現地説明板等を参考にして書いてあります。私は長岡・小千谷には、今まで10回くらい行っています。ここに紹介している以外にも見学地はありますので、長岡へ行ったら駅ビルの改札口近くの観光協会の窓口でパンフレットを貰ってから見学すると良いと思います。また、史跡は必ずしも交通の便が良いところばかりではありませんので、効率的に見学するためには、車が便利です。

   藩校の崇徳館があった辺りだと思います。今は、ホテルの崇徳館(写真中央)が建っています。
場所は、長岡市殿町2で長岡駅から南方向に歩いて7・8分です。近くには「へぎそば」で有名な小島屋があります。
 河井継之助の屋敷跡で、長岡市長町1にあり長岡駅から北方向へ歩いて5分くらいのとこにあります。現在は史跡公園として整備され、説明板などがあります。
持ち主の方のご好意によって、河井継之助邸の庭(当時とあまり変っていないそうです)を見ることが出来ます。ただし蒼龍窟の本になったといわれる松ノ木は、枯れていて現在はありません。
 悠久山にある悠久山招魂社です。旧長岡藩士の北越戦争での犠牲者300名以上と西南戦争での犠牲者18名を祭祀しています。写真の奥でこちら向きに二つ並んでいるのは、河井継之助と山本帯刀のものです。
 悠久山にある河井継之助の碑です。碑文は、備中松山で山田方谷から共に学んだ三島中州が、題額は黒田清隆によるものです。
この碑の裏側には、碑の建設のために助力した人として、小松彰、三間正弘、大野右仲、三島憶次郎、外山脩造、武昌芳、稲垣林四郎、加藤一作の名前があります。

 悠久山にはこの他に、小林虎三郎、鵜殿団次郎、三島憶二郎(川島憶次郎)、山本帯刀、長岡藩刀隊・槍隊等多くの碑があります。また悠久山にある蒼紫神社には長岡藩主の牧野家の霊廟があります。
 河井継之助 開戦決意の地記念碑です。長岡市前島町の前島神社にあります。
河井継之助は小千谷会談が決裂した翌日一番に、ここを守備していた川島憶次郎を訪ねます。恭順論者の川島とここで激論になります。和平の道は、「自分の首と3万両」を差し出す以外にはないという河井継之助の言葉もあり、ついに川島も止む無く同調します。
 川島憶次郎は、若いころは河井継之助の親友で、一緒に東北旅行などをしています。彼は明治になり、三島憶二郎と名前を変えます。
 長岡藩本陣跡の碑です。長岡市摂田屋1-13-35にある光福寺にあります。川島憶次郎を説得した河井継之助は、ここ長岡藩の本陣へ各隊の隊長等を集め、皆の前でやむを得ず開戦となったことを告げます。時に1868年5月3日のことでした。
 1868年5月19日早朝、西軍は大増水している信濃川を強行渡河してここ中島辺りに上陸します。一方河井継之助も同日夜に攻勢をとる予定でしたので、守備の兵は極端に少なくなっていました。このため、長岡城は落城となります。
 写真は、西軍上陸に地に立つ東西両軍の戦死者の供養墓(長岡市中島1-10-17)です。
 写真は、長岡市渡里町3-21の西福寺にある維新の暁鍾。西軍が渡河して長岡へ進行してきたことを知らせるため長岡藩士がこの鐘を力の限り打ち続けたといわれます。近代の夜明けを告げた鐘という意味でこの名前で呼ばれています。
 写真は長岡市城岡3にある、伊東道右衛門の碑です。西軍が長岡へ上陸した5月19日、62歳の老武士の伊東は先祖伝来の甲冑を着て得意の槍を持って奮戦します。彼は大砲隊長でしたが、敵に退路を絶たれる恐れがあったことにより、隊士を退却させ自分はそこに踏みとどまり敵を突き伏せますが、銃撃されこの場で戦死します。(参考「河井継之助の生涯」安藤英男著 新人物往来社)
 写真は、長岡市富島町にある八丁沖古戦場パークの八丁沖古戦場の碑です。この碑の傍には、戦死者の供養等もあります。現在は見事な水田になっていますが、当時は一面の沼地でした。この沼地を調べ、人目にない夜に何日も掛けて人が歩けるようにした人たちがいます。その人たちの大変な努力により、八丁沖の奇襲作戦が成功したのです。
 写真は、長岡市大黒町にある大黒古戦場パークの大黒古戦場の碑です。

参考 「戊辰・河井継之助ゆかりの地 ガイドブック」長岡市観光課  

 

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