写真で見る河井継之助 2

 写真で河井継之助と北越戊辰戦争の足跡を見て回ります。今回は長岡・小千谷の寺社を中心に紹介します。文章は、現地説明板等を参考にして書いてあります。

   長岡市稽古町1636にある長興寺です。写真はそこにある山本帯刀の墓です。
山本帯刀は、北越戊辰戦争では長岡軍の大隊長として活躍しました。会津へ逃れる人のため、八十里越えの峠を最後まで守り貫きました。その後は会津で戦いましたが、そこで捕らえられて斬首されます。

 長興寺には他に、山本五十六、稲垣平助(小説「峠」にも出てくる長岡藩の筆頭家老)、酒井貞蔵(藩校崇徳館の造士寮長)の墓があります。
 長岡市四郎丸4にある昌福寺(長岡駅から徒歩約5分)です。北越戊辰戦争の際には、長岡軍の臨時病院としても使われました。
河井継之助が、7月25日の長岡城の再奪還の戦闘で膝を負傷したときにも、ここで治療を受けました。
 昌福寺にある鵜殿団次郎の墓です。鵜殿は少年のときから神童といわれ、江戸へ出て学問を学びました。その後幕府の番所調所で数学を教えました。また江戸城に官軍が迫った際には、勝海舟を助け江戸開城に尽くしました。長岡が西軍と戦うというのを聞き、幕府の役職を辞任して長岡へ帰りますが、その年の12月に38歳で病死します。
  長岡市東神田3-5-6にある栄凉寺です。ここには河井継之助の墓の他に、戊辰戦争後の長岡市の再建に尽くした三島憶二郎、小千谷会談の際、河井継之助に同行した二見虎三郎、歴代長岡藩主の墓等があります。
 栄凉寺にある河井継之助の墓です。栄凉寺は、長岡駅から北の方向へ歩いて約15分の所にあります。直ぐ近くをJR上越線が走っています。
 長岡市深沢町2013にある誓願寺の、木川松蔵さんの墓です。
河井継之助に最後まで忠実に使えた従僕の松蔵さんで、河井継之助の命日には墓参りを欠かさなかった人です。苗字の「木川」の川の字は、河井継之助の「河」になるはずだったのが、届出の際何かの間違いで「川」になってしまったといわれます。
松蔵さんは大正時代まで生き81歳で亡くなっています。
 小千谷市平成2-3-35にある、小千谷会談が行われた小千谷の慈眼寺です。河井継之助は総督府への嘆願書を持ち、岩村清一郎と会談しますが、談判は決裂します。その結果、激烈な北越戊辰戦争が行われ、両軍に大きな被害が出ました。
会見が行われた部屋は、現在も保存されています。中越地震で大きな被害を受けましたが、現在再建工事中です。
 河井継之助が小千谷会談後に、遅い昼食を黙々と食べたといわれるその部屋がある「割烹 東忠」です。小千谷市元町11-11にあります。こちらも中越地震で大きな被害を受けましたが、昨年の4月に営業を再開しました。
 河井継之助が小千谷会談を終えて宿泊した宿の「野七」があったとのがこの辺りだと思います。小千谷市元町で信濃川の近くです。宿に着いてからも、河井継之助はなお諦め切れなかったのでしょう。その後も夜遅くまで、西軍の本陣に行き取り次いでくれるよう何度も頼みます。そしてそれがかなわないと知ると、今度は西軍の諸藩の陣へ行きやはり取次ぎを頼みます。しかしそれもやはり叶いませんでした。
そこでようやく野七へ戻り、二見虎三郎と共に酒を飲み詩を吟じたそうです。無念の思いが込められていたのでしょうか?
 小千谷市稲荷町にある、船岡山の官軍墓地です。船岡山公園の一角にあり、200基以上の墓が並んでいます。写真手前の、頭が尖がっているのは長州藩士の墓です戊辰戦争当時は西軍の戦死者はここに運ばれ埋葬されました。朝日山の激戦で死亡した、時山直八の碑もあります。小千谷の人々は、この墓地を長い間守り続けてきました。

参考 「戊辰・河井継之助ゆかりの地 ガイドブック」(長岡市観光課発行) 

 

写真で見る河井継之助3へ

目次へ戻る